ティーカップ

 拓海は、近くに人の気配がないことを確認する。

 ついに始動する麗子の暗殺計画。今日は記念すべき一日目だ。心臓が高鳴っていた。

 無人ではあったが、キッチンは広くて見渡しがいいだけに、いざというときに身を隠しようがない。そのため、すばやく行動する必要があった。

 まずは、ティーカップを二つ、食器棚から取り出す。やけに高そうなティーカップだから自然とていねいに取り扱ってしまう。とはいえ、一つや二つ壊したところで、麗子は意にも介さないだろうと思った。

 二つのティーカップに、数分ほど蒸らしたハーブティーを注ぐ。そのうちの一つに、ミルクを少しだけ垂らす。そのあと、周囲をさっと見渡して誰もいないことを再度確認してから、ズボンのポケットから小瓶を取り出す。ここで念のため、もう一度周囲を見渡して安全を確認する。それから小瓶のキャップを開けて、ミルクを注いだほうのカップの上で小瓶を慎重に傾ける。手がぶるぶると震えてしまう。極度の緊張から、一滴だけ垂らすつもりが、勢いで三滴も垂れてしまった。だが、薬の金額を考えると、入れ直すのはもったいない。明日から気をつけることにする。

 すぐに小瓶のキャップを閉めてポケットに戻す。ここでもう一度周囲をうかがう。誰かに見られた形跡はない。薬を注いだティーカップに鼻を近づける。ハーブティーの香りとミルクのにおいがするだけで、問題はなさそうだ。

 準備は整った。だが、これほどの緊張は、生まれてはじめてのことかもしれなかった。つい口から言葉が漏れ出た。

「これを、一年も続けるわけか……」

 拓海は今後を思って憂うつな気分になった。

 二つのティーカップを木製のトレイに乗せて応接室に向かう。すでに麗子がソファに腰掛けて待っていた。彼女の胸元には、愛猫のサクラが女王様然として座っている。さすがは、血統書付きのペルシャ猫だけある。

「麗子、お待たせ」

 自然な感じで言ったつもりだったが、少しだけ唇が震えてしまった。

 ミルクの入ったほうのティーカップを麗子の前に差し出す。彼女はニッコリと微笑んでティーカップを受け取る。

「拓海さん、ありがと」

「どう……いたしまして」

 動揺から少しどもってしまった。しかし麗子の顔を見ると、とくに不審に思われた様子はなかった。少しほっとする。

 麗子がティーカップを口に運ぶ。その様子をつい見入ってしまう。彼女がこちらの視線に気づいて言った。

「ん? どうしたの?」

「いや、何でもない……」

 視線を外すと、彼女はとくに気にした風もなく、ティーカップを口に運んでいく。拓海は自然な感じを装って彼女の口元に注意を向ける。ティーカップが彼女の唇に触れ、傾いていく。ティーカップが唇から離れると、おいしい、と彼女はこちらに顔を向けて言う。笑顔で返そうとするが、顔が引きつってしまい、ぎこちない笑みになってしまった。

 拓海もティーカップに口をつけるが、緊張のせいで味はわからなかった。もう一度口に運ぼうとしたところで、ふと手が止まる。妙な不安に駆られたからだ。ミルクを入れたほうのティーカップに薬を垂らしたと記憶しているが、確信がもてなくなったのだ。そして一度不安を覚えたあとでは、再びティーカップに口をつける気にはなれなかった。

 明日からは、まず、ミルク入りの紅茶だけを用意して薬を入れてから、自分用の、ミルクなしの紅茶を用意する。この手順をルーティン化して、今みたいな、不要な不安を払拭しようと思った。

「稽古のほうは順調?」

 麗子の質問に答えながらも、つい視線は、彼女が持つティーカップに向かってしまう。これは心臓に悪いなと思った。

 人命を奪うという行為は、想像以上にタフな行為だということを痛感した。美穂が女上司を殺すために、こんなことを三か月も続けたのかと思うと賛辞に値した。美穂にやらせておいて、自分はできなかったでは彼女に会わす顔がない。だから必ず最後までやり遂げる必要があった。この、綱渡りのような状況を乗り越えた先に、幸福が待っているのだから——。

 麗子がハーブティーを飲み終えた。ほっとするのと同時に、あの薬を入れたのが麗子のカップだったか確信がもてない以上、残念ながら前進した気はしなかった。

 明日からもう一度仕切り直しだ——。拓海は心の中で気を引き締めた。



       *  *  *



 拓海は叫びながら目を覚ました。

 隣で寝ている麗子を見る。すやすやと静かな寝息を立てている。どうやら、思ったほど声は出ていなかったようだ。麗子を起こさなくて済んでよかったと思った。

 直前まで見ていた夢を思い起こす。悪夢だった。死んだはずの麗子が、恨めしい顔で迫ってきたのだ。おそらく、罪悪感が見せた夢だろう。

 正直言って、麗子に罪はない。もし罪があるとすれば、それは資産家の家に生まれたということだけだ。

 やはり、罪のない人間を殺めるのには抵抗があった。いっそ、麗子が性悪女だったらと思った。殺しても、罪悪感を覚えないような女ならよかったのだ。美穂が殺した女上司のように……。

 ところが麗子は、容姿だけでなく性格も悪くなかった。むしろ、人よりいいほうだ。また、役者として成功するために、充分な、金銭的援助もしてくれている。だから、自分が今していることは、恩を仇で返すような真似ともいえる。とはいえ、もうあとには引けない。このまま、突き進むしかなかった。

 拓海は、麗子の寝顔から目を背けるように、彼女に背を向けてから目を閉じた。



       *  *  *



 ミルク入りの紅茶に、慎重に液体を垂らす。二滴にしたいのをぐっと我慢する。焦りは禁物だ。佐藤が言うように、あまり早く死なれては疑われかねないからだ。

 麗子用の毒入り紅茶を用意したあと、小瓶をズボンのポケットにしまってから、自分が飲むストレートの紅茶を用意する。こうやって別々に用意することで、自分用の紅茶に誤って毒を入れる心配もない。このルーティンを徹底することで、入れ間違ったのでないかという、不要な不安をなくすことができる。この作業をルーティン化せずに行えば、勘違いをして、自分用の紅茶に薬品を垂らしてしまうおそれもある。人は気を抜けば、そんなイージーミスを平気で行ってしまう生き物なのだ。用心に用心を重ねるくらいがちょうどいい。

 薬を飲ませ続けて三か月が経った。劇団の打ち上げ中に、麗子は体調不良を訴えて早めに帰宅した。薬の効果が表れはじめている証拠だった。麗子には気の毒だったが、このまま薬を与え続けて確実に死んでもらうつもりでいた。

 トレイに二人分の紅茶を乗せて応接室に向かう中、明日の稽古帰りにでも美穂のもとを訪れて、彼女の体温を肌で感じたいと思った。本当は計画が完遂するまで会わないほうがいいのだろうが、彼女なしでは、こんな生活を続けていくのは不可能だった。

 欲望は、簡単に理性を超越してしまう。美穂に会いたいと思いはじめてしまってからは、彼女のことが頭から離れなくなってしまった。この湧き上がった感情は、危険を冒してでも彼女に会って肌を触れ合わさなければ解消されそうもなかった。



       *  *  *



 インターホンを押す。廊下で待つ間、心配で周囲を見渡してしまう。キャップとマスクで顔を隠していたが、それでも安心はできなかった。

 極めて軽率な行為だと自覚していたからこそ、用心に用心を重ねていた。佐藤がこのことを知ったら、きっと激怒するだろうと思った。

 玄関ドアが外側に開き、美穂が顔を出した。

 彼女の顔を見て、拓海は幸せな気持ちになった。こうして会うのは三か月ぶりのことだった。丸みを帯びた小さな顔に見入っていると、腕をつかまれ室内へと引っ張られた。

「たっくん、早く入って」

 促されるまま玄関に足を踏み入れた。

 玄関の扉が閉まる音が背後から聞こえた。

「美穂、会いたかったよ」

「あたしも」

 拓海はキャップとマスクを外すと濃厚なキスを交わす。それから靴を脱いで美穂を押していくような形で部屋の奥へと進みつつ、その間、互いに服を脱がし合っていく。美穂をベッドに押し倒すのと同時に、すでに露わになっていた乳房に拓海は顔を埋めていった——。


「ねえ、たっくん。早くいっしょに暮らしたいな」

 美穂が頬を上気させながら言った。

 拓海は彼女から視線を外して、天井を見つめて答えた。

「あの薬を飲ませてから三か月が経ったから、順調にいけば、あと九か月で死んでくれるはず……。ただ、うまく入れるタイミングがなくて、飲ませられない日もあるから、計算通り、九か月で終わらない可能性もある。けど、あと何年も待つことは絶対にない。この前、劇団の打ち上げがあった日なんだけど、麗子は具合が悪くなって途中で帰ったんだ。おそらく薬の効果が出始めたんだと思う。あの女は確実に弱ってきている。美穂、もうしばらくの辛抱だよ」

 顔を向けると、美穂は期待に充ちた笑顔を見せた。

 拓海はベッドから降りると、脱ぎ散らかした服をかき集めていく。

 服を着始めたところで背後から声がかかる。

「ごはん、食べてく?」

「いや、いい。悪いけど遠慮しとく。あまり遅くなるわけにはいかないからね」

 美穂が切ない顔をする。その顔を見て胸が痛む。

 拓海は、彼女の頭を優しく撫でながら言った。

「美穂、さっきも言ったけど、もう少しの辛抱だよ。この計画がうまくいけば、時間を気にせず、いつまでもいっしょにいられる」

「うん……。そうだね」

 拓海は、美穂の顔を両手で優しく挟んで額にキスをした。

 美穂は今年で二十五歳になるが、童顔のため、実年齢よりだいぶ若く見えた。制服を着れば、高校生でも間違いなく通るだろう。当の本人は童顔を気にしていたが、拓海は幼さが残るあどけない顔が好きだった。だが、体つきに関していえば、成人女性そのものだった。グラビアアイドル顔負けの、豊満な胸と、腰のくびれ。彼女の顔つきと体のギャップは、エロティシズムを大いに助長していた。

 拓海は服を着終えると、財布から一万円札を数枚取り出して美穂に差し出した。

「こんなの、いいよ……」

「いいから受け取って。昔から君には、何かと融通してもらってたんだからね。今度はぼくが援助する番だよ」

「なら、ありがとう……」

 美穂は差し出した札を両手でうやうやしく受け取った。

「あとそういえば、昔から猫が飼いたいって言ってただろ。ぼくが毎月援助するから、ペット可の物件に引っ越したらいい」

「そんな、いいよ……」

「それにこの辺は、治安が悪いって言ってたじゃないか。もっと治安のいい、都心部に引っ越したほうがいい。今度は絶対にオートロック付きがいいね」

 美穂が住む埼玉県のこの地域は、家賃が安いぶん治安がだいぶ悪かった。都心部に比べて街灯も極端に少なく、男の拓海でさえ、夜道を歩くときは不安になるくらいだった。さらにこの辺は、原因不明のボヤ騒ぎが多いらしく、消防車のサイレンの音が頻繁に耳に届いてくるという。また、露出狂などの、不審者の目撃情報も相次いでいるとのことだ。

 アパート自体は比較的築浅で、建物も部屋の中もきれいだという理由から、美穂は気に入っているようだったが、拓海は治安のことを考えると、オートロック付きのマンションに引っ越してもらいたいと以前から思っていた。

「引っ越しはまだいいよ。何度も言ってるけど、この部屋、気に入ってるし。今あたしがいちばん辛いのは、たっくんの舞台を堂々と見れないことだよ」

 美穂は表情を曇らせながら言った。

「ほんと君は、ぼくの世界一のファンだな」

「当たり前じゃん」

 ここで拓海は美穂の手を取ると、自分の下唇を噛む。これから彼女には、酷な宣告をしなければならなかったからだ。

「実はそのことで、伝えておきたいことがあったんだ……」

「何?」

 美穂は緊張気味に身構えた。

「実は、劇団の女の子に、君が来てたことがバレてたみたいなんだ」

「え、嘘!? あたし、しっかり変装していったのに……」

「わかってる。変装は完璧だった。だけど、気づく人は気づくみたいだ。女の勘というやつかもしれない。一応ごまかしてはおいたけど、舞台にはあの女も来ることだし、しばらく来ないほうがいいかもしれない」

「そんな……」

 拓海は落胆する美穂の顔を挟んで言った。

「美穂。計画を成功させるためにも、今は我慢してほしいんだ。あの女に少しでも感づかれたら、おしまいだからね」

 美穂は目に涙を浮かべていた。しばらくして、渋々といった様子でうなずいて見せた。

「そうだね。今は我慢しないといけないときだもんね……。わかった。あたし、たっくんのために我慢する」

「ありがとう。でも今日は、バッドニュースだけじゃないんだ」

「え?」

 美穂が少し驚いた顔をした。

「来月の十六日は、有給でも使って、必ず空けておいてほしいんだ。誕生日には少し早いけど、その日は丸一日、君のために時間を使えるから、久しぶりにどこか出かけよう」

「大丈夫なの?」

 美穂が不安そうに聞いてきた。

 拓海は笑顔を浮かべて答えた。

「ああ。大丈夫なんだ。実はね——」

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