報告

「佐藤さん、ようやく婚約までこぎつけましたよ」

 そう報告すると、相手は満足そうな顔をして見せた。

 薄暗い地下のバー。いつもの密会場所。拓海は先日の詳細を語って聞かせた。

 稽古中に麗子から連絡を受け、彼女の自宅マンションに駆けつけると、事前に聞かされていた通り、火傷を装った顔で迎えられた。そこで騙されたフリをしながら永遠の愛を誓って見せ、そこから勢いのままプロポーズをして了承させた。

 拓海が語り終えると、佐藤は煙草の煙を吐き出してから聞いてきた。

「あの女、素人丸出しの、どん臭い演技、してたんじゃないのか?」

 拓海は問いに、少し考えてから答えた。

「どうでしょうね……。何も知らないフリして驚かなきゃいけなかったんで、彼女の演技力を測る余裕はなかったですね……。でも、事前に知らされていなかったら、ぼくも佐藤さんと同じように、騙されていたかもしれないですね。何と言ってもあの特殊メイクは手が込んでましたから」

 同意するように佐藤が大きくうなずいた。

「確かにその通りだ。おれもあれを見て、ぶったまげたからな。マジで心臓が口から飛び出しそうになったもんな。そのときはまさか、騙されてたとは思いもしなかった」

 拓海は、あの場面を思い出しながら言った。

「実は事前にですね、ぼくは頭の中でシミュレーションして、彼女にかける言葉を用意してあったんですよ。でもあの顔を見た瞬間、頭の中が一瞬でまっ白になりましたからね。あのひどい顔に、素で驚いてしまって、普通に何も言葉が出てこなかったですから……。おそらく佐藤さんと、似たような反応だったと思いますよ」

 ここで近場のテーブルから、叫ぶような笑い声が聞こえてきた。先ほどから、見た目からしてイカれているような連中が大騒ぎしているのだ。今は男の一人がテーブルを激しく叩いて騒々しい音を立てている。黒いTシャツを着た店員たちはいっさい注意をせず、我関せずという体でいる。ここでは何でもありのようだ。

 拓海は騒がしい連中を意識の外に追い出してから言った。

「佐藤さん、実は例の薬ですが、使い切ってしまって……」

 本当はまだ少し残っていたが、念のため、いくらか予備を確保しておきたかったため嘘をついた。

 佐藤が目を輝かせながら聞いてきた。

「お。てことは、誰かに試したってことだな?」

「ええ、まあ……」

「で、結果はどうだったんだ?」

 拓海はビールを一口飲んでから答えた。

「どうやらあの薬は、本物みたいですね」

「だから最初からそう言っただろ。念のため確認させてもらうが、あんたが疑われることのないような人間を選んだってことで間違いないよな」

「ええ、まあ、そうなりますね……」

「ちなみに、誰に試したんだ」

「いや、それは言わないでおきます」

 回答を拒絶すると、佐藤は不敵な笑みを向けてきた。

「ま、そうだな。殺した相手が誰かなんて、どうでもいい話だもんな。まあ、話は戻るが、本物だってわかったってことは、薬を使った相手は、警察に疑われることなく死んでくれたってことでいいんだよな?」

「ええ、そうですね……」

 拓海は相手の無思慮な発言に少し苛立った。まわりの客がこちらに関心のない連中ばかりとはいえ、ある程度発言には注意してほしいと思った。

 佐藤は何食わぬ顔で続けた。

「ま、いずれにせよ、あの薬の信ぴょう性がわかったんだ。これであんたも安心して、あの薬が使えるってわけだ。で、いつあの女と、籍を入れるつもりなんだ」

「彼女と話がまとまったので、来週にでも婚姻届を出す予定です」

「おお、そうか。これでやっと本格的に、おれたちの計画が動き出すってわけだな」

 佐藤は実に満足そうだった。彼はビールをおいしそうに飲みながら続けた。

「もうあの女は、あんたのとりこだろうな。だってそうだろ? あいつがこれまで何人の男に、例の方法で愛を確かめてきたかは知らないが、あんな顔になっても愛せる男なんて普通いないだろ? 顔は関係ないと言ってる連中だって、当然限度があるに決まってる。ブス専といえども、せいぜいちゅうってとこまでが許容範囲だろうと思うぜ。ま、それはそうと、おれらはこっからさらに気を引き締めていかないとだからな」

「ええ、わかってますよ」

 視線の先では、スキンヘッドの男が、瓶に入ったテキーラを一気飲みしていた。あと先考えない連中のやることだと思った。今はよくてもあんな無茶をすれば、肝臓は必ず大きなダメージを負うはず。あの男がくたびれた姿で透析とうせきをしているシーンが目に浮かんだ。

 スキンヘッドが瓶のテキーラを飲み終えて大きな歓声が上がった。

 拓海はビールを一口飲んでから言った。

「それで、さっきも言ったんですが、あの薬、前にもらったぶんは全部使い切ってしまって、それで新しいのを調達してもらいたいんですが……」

「すでに用意してある」

 佐藤はそう言って、ジャケットの内ポケットから小瓶を取り出した。

「おれは準備がいいんだ。どのみち二つ目が必要になると踏んで、あらかじめ用意しておいたんだ」

「さすがですね」

 目の前に置かれた小瓶に手を伸ばそうとしたところで、佐藤が念を押すように言ってきた。

「いいか。今度は必ず、一滴ずつにしろよな。新婚早々大富豪の一人娘が死ねば、変な噂が立ってもおかしくない。わかったな?」

「わかってますよ」

 佐藤がここで真剣な表情をして言ってきた。

「おれだって、すぐに大金を手に入れたい。だが、ここで焦って功を急げば、せっかくの努力が無駄になる可能性もある。だからここは我慢のときなんだ。あの女を、少しずつ少しずつ弱らせていって、あんたに絶対に疑いがかからないようにするんだ。いいな?」

「わかってますよ。ぼくは待つのには慣れてますからね。辛抱強くいきますよ」

「それとだ、屋敷で働いてる連中に、夫婦仲が悪かったなどと証言されてもまずい。だから結婚後も今まで通り、あの女の機嫌をとっていくんだぞ」

「わかってますって。いい加減、少しはぼくを信用してください。ぼくはあなたが思ってるほど馬鹿じゃない」

「だといいがな」

 佐藤はそう言って鋭くこちらを睨むと、残っていたギネスビールを飲み干した。

 拓海は目の前の小瓶をバッグの中にそっと仕舞う。

 自分にとって、小瓶の中身は魔法の薬だ。幸せへと導いてくれるものだからだ。だが、彼女にとっては、未来を閉ざす、悪魔の毒薬に違いなかった——。



       *  *  *



「拓海さん、寂しくなりますよ……」

 隣の席に座る同僚が寂しげな顔をしながら言った。

 麗子と婚約したことで、あと一週間ほどで、コールセンターを退職することになっていたのだ。

「落ち着いたら連絡するから、飲みにでも行こうよ」

「ええ、ぜひ」

 ここで隣の男が付けるヘッドセットから着信の音が聞こえてきた。同僚は軽くこちらに頭を下げると、客との応対をはじめた。

 時計を見ると、ちょうど昼休憩の時間だった。拓海はパソコンのシステムからログアウトすると、ヘッドセットを外した。

「お昼行ってくるよ」

 拓海は隣席の同僚に合図を送ってから席を立った。


 休憩室に入ると、室内に設置されている自販機からサンドイッチとカフェラテを購入した。ここは、ゆうに三百人は収容できるくらいの広さがあり、自販機の種類も充実していた。電子レンジや給湯器、コーヒーやお茶が無料で飲めるドリンクバーもある。

 休憩室内をざっと見渡すと窓際の席が空いていたためそこに陣取った。ここからだと、都心の風景が一望できて心が休まるため、空いている際は好んで窓際の席を選んだ。

 購入したパンを食べ始めたところで、二十代後半くらいの金髪の男が視界に入ってきた。いつも無愛想で、顔を見かけるだけで気分が悪くなる男だった。ギターケースを担いでいる姿をたびたび見かけていたから、音楽活動をしているのだろう。彼を知る同僚の話では、金髪の男は同性とはほとんど口を利かず、容姿のいい異性とだけ笑顔で接するらしい。そのため、一部の人たちからは異様に嫌われているそうだ。とはいえ、あと数日で、あの無愛想な顔も見納めかと思うと、不思議と不快な気持ちにならずに済んだ。


 金髪の男に限らず、ここのコールセンターでは、音楽活動をしている者が数多く在籍していた。シフトの融通が利くからだろう。とはいえ大半が、自分の能力を過信しているだけの、才能の欠片もない者たちばかりだった。何となく続けていればそのうち成功するだろうと思い込んでいる、ただの夢遊病者だ。おそらく今後も、このコールセンター出身で成功する人間は、せいぜい一人か二人といったレベルだろう。ゼロという可能性もある。大半の者が夢半ばに挫折し、平凡な人生を歩むことを余儀なくされるに違いなかった。

 売れないミュージシャンは、傍から見ていてとても痛々しかった。中には貧乏自慢をしながら、苦労しなきゃいい曲は書けないなどと言っている者もいたが、これまでいい曲など作れたためしはないのだ。作れたと思っていても、それは自分基準のいい曲であって、世間に受け入れられる水準の曲ではないのだ。

 売れない役者も格好悪いだろうが、拓海は自分のことを棚に上げて、売れないミュージシャンを心底軽蔑していた。なぜなら彼らは、根拠のない自信がそうさせるのか、異様にえらそうな態度をとっていたからだ。音楽活動での収入などほとんどないくせに、いっぱしのミュージシャンを気取っていることが許せなかった。

 とはいえ、拓海自身も、二十代のころは、根拠のない自信だけで生きてきた。まさに、彼らと同じような、身のほど知らずであった。当時は、自分は人とは違う、自分は絶対に成功する、と本気で信じていた。だから仕事で受ける苦労やストレスも、役者で成功したら笑い話にしてやろうと思っていた。だからこそがんばれた。成功するという希望があったからこそ、前を向けていた。だがそんな希望にすがれたのも若いときだけだった。二十代の後半くらいから雲行きが怪しくなりはじめ、このまま何者にもなれずに終わるのではないかという恐怖心が忍び寄ってきた。そして三十代に入ってようやく、自分が根拠のない自信だけで生きてきたことに気づかされた。

 若いころは、活動していることに意義があると思っていた。だから貧乏役者という肩書きにも抵抗はなかった。しかし、三十代になって、自分を客観視できるようになってはじめて、、という認識に変わった。そうなのだ。役者にしろ、ミュージシャンにしろ、売れなきゃ意味はないのだ。どんなに努力していようが、第三者から見れば、売れなければ何もしてないのといっしょなのだから——。

 今まで多くの役者仲間が、三十を境に役者への道を諦めていったが、可能性がないとわかったら潔く別の道を模索する、これも一つの勇気に違いなかった。だが拓海は、三十を過ぎても役者への道を諦めきれずにいた。若いときほどではないが、自分の可能性をまだ心の奥底で信じていたからだ。そして今になってようやく、麗子というパトロンの登場で、労働に囚われることなく夢を追うことが可能なポジションを手に入れることができた。ついに、自分にも運が向いてきたのだ。

 サンドイッチを食べ終えると、カフェラテにストローを差して飲みはじめる。眼下に広がる都会の景色もあと数日で見納めかと思うと、何となく感慨深いものがあった。

 じきに生活はガラリと一変する。このコールセンターを辞めたら、ハワイに向かい、挙式をして、そのまま新婚旅行でヨーロッパの国々を周遊する予定になっていた。地獄のような望まぬ労働生活も、あと数日で終わりを告げるのだ。

 拓海はカフェラテを飲みながら未来に思いを馳せた——。

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