薬の効果

 拓海はコーヒーを飲みながら待っていた。

 キャップを目深に被り、普段はしない黒縁の伊達眼鏡を掛けていた。万が一のための用心だ。

 店内は混雑していた。窓の外に視線を向けると、傘を差して歩く通行人の姿が多く見られた。今日は朝から雨模様だった。

「たっくん」

 気づくと、目の前に、美穂がペーパーカップを持って立っていた。全身、黒一色だ。

 彼女が前の席に座るなり、拓海は聞いた。

「どうだった——?」

 美穂はすぐには答えなかった。顔が緊張でこわばっているように見える。一呼吸置いてから彼女は言った。

「問題なかった……。疑ってる人は、誰もいなかった」

「そうか。それはよかった」

 拓海はほっと胸をなで下ろす。結果に心底安堵した。

「三か月で、ぽっくりいってくれたってわけか……」

「ええ……。もともと肝臓が悪かったみたいだから。あと煙草もすごい吸ってたし」

「そうか」

 美穂の服装が黒一色だったのは、死んだ上司の葬儀に参列した帰りだったからだ。

 表向きの死因は病死。だが、本当の原因は、例の薬を数か月に渡って、美穂に飲まされたからだ。例の薬の効果を検証するために、彼女の上司を実験台にしたのだ。

 今回の実験は、美穂の職場のオフィス環境が有利に働いた。

 従業員の多くが、給湯室に自分専用のマグカップを置いていた。死んだ女上司も同様だった。

 例の薬を受け取った美穂は、誰よりも早く出社するようになった。そして無人の給湯室に乗り込むと、女上司のマグカップに例の薬を三滴垂らすのが日課になった。三滴にしたのは、薬の効果を早く確認するためだ。

 美穂の話だと、最初の数週間は、目に見えた変化はなかったらしい。しかし、一か月を過ぎたころには、女上司は体調不良を理由に仕事を休むことが多くなった。そこで美穂は、下手に入院でもされて回復されては厄介だと判断して、薬の量を三倍に増やした。それが駄目押しとなったようだ。さらに体調を悪化させた女上司は、ついに入院し、二週間後には病室で息を引き取った。

 そして期待通り、病死で処理されたため、これでいくらか安心して次のステップに進むことができる。

 薬の効果を実証できたのはうれしかったが、拓海は美穂の精神面が心配だった。

「美穂、大丈夫か? その、気持ちの面で……」

「あたしのことなら心配いらないよ。言ったでしょ? 殺したいほど憎んでたって」

「そうだったな……」

 美穂は気丈に振る舞うが、顔は青ざめていた。

 本当は彼女にこんなことさせたくなかったのだが、他に頼れる者はいなかった。大事な本番を前に、自分のまわりで病死とはいえ、余計な死者を出すわけにはいかなかったのだから——。

 美穂はまわりを気にするように声を落として言った。

「でもほんと、死んでくれてせいせいした。みんな口には出さないけど、あたしと同じ気持ちだと思うよ……。何度も言ってるけど、あの人、とんでもなく性格が捻くれてたから死んで当然だったんだよ。だからあの人に対して、可哀相だなんて気持ち、これっぽっちもないから」

 気持ちを吐き出したことで少しは落ち着いたのか、血の気が引いていた美穂の顔に赤みがさしはじめてきた。彼女はさらに続けた。

「今回は急いでたからあれだったけど、本音を言えば、もっともっと長く苦しめてやりたかった……。あの人のせいで辞めた人もたくさんいたし、あたし自身も、何度辞めようと思ったことか……」

 過去のいやな記憶を思い出したのだろう。美穂の顔が怒りに歪んでいる。

 彼女の話だと、死んだ五十代の女上司は会社の古株で、二十人ほどの小さな会社の中でやりたい放題だったらしい。ちょっとしたことで機嫌を悪くし、社内の空気を険悪なものにしていたそうだ。五十代で独身、結婚歴もない。となれば、性格が歪んでも仕方がないのかもしれない。その女は、社長以外の者には決して自ら挨拶することはなく、出社しても仕事もろくにせず、一日中ネットサーフィンをしていたらしい。美穂は一度、その女が女性専用風俗のホームページを開いているところを目撃したという。それを見て、男っ気がまったくないのに、悲壮感がない理由がわかったと美穂は言った。定期的に金で男を買っていたから精神的には充ち足りていたのだろうと。人肌に触れることは精神安定剤になる。だが、金で買われた男は気の毒だったろうと美穂は言った。女上司は肉ばかり食べているからか加齢臭がひどく、歯も肌も汚く、そのうえ、体は厚い脂肪で醜く覆われていたから、そんな女と肌を合わすのは地獄だったに違いないと。

 拓海は話を聞く限り、その女は死んで当然だったのだろうと思った。

 美穂の顔を見ると、来たときより、緊張がだいぶほぐれているように見えた。大仕事をやり終えたことで、やっと肩の荷が下りたように感じているのかもしれない。

 彼女は小さな黒のハンドバッグから小瓶を取り出すと、テーブルの上に置いて言った。

「まだ少し、残ってるから……」

 拓海は小瓶を静かに見つめた。

 液体はまだ、底のほうに少しだけ残っていた。

「次は、ぼくの番ってわけか……」

 唇が震えるのがわかった。

 こちらの緊張を読み取ったのだろう。美穂が励ますように言ってきた。

「でも大丈夫だよ。飲み物に入れるだけだから。罪悪感なんて感じないよ」

「そうか……」

 拓海はしばらく無言で小瓶を見つめ続けた。

「来月には、結婚しちゃうんだよね……」

 美穂がぼそっと言った。表情は切なげだった。

 拓海は気持ちを察して胸を痛めながらも、毅然な態度で答えた。

「薬の効果がわかったんだ。もう結婚を、先延ばしする理由はないからね」

「じゃあ、本格的に、計画が動き出すってわけね……」

「ああ、そうだ。いよいよ、本番ってわけだ」

 拓海はそう言うと、目の前の小瓶をつかんだ。

 ここで美穂が怯えた表情を見せて言った。

「たっくん。あたし、何だか怖い……」

「ぼくもだ。だけどもう、あとには引けない」

「うん、そうだよね……」

 拓海は冷めたコーヒーを飲み干す。何だかやけに喉が渇いた。今は冷たいビールでも一気飲みしたい気分だった。

 美穂の手を取って言う。

「しばらく会えなくなるんだ。今日は一晩中、いっしょにいよう——」



       *  *  *



「今日のたっくん、何だかすごい……」

 美穂は肩で息をしながら驚嘆したように言った。

 体はまだ官能に包まれているようで、目はまだぼんやりしていた。

 拓海は彼女の額に優しく口づけする。美穂は目を細め、さらにうっとりとした表情になった。

「美穂とはしばらく会えなくなるかもしれないからね。今のうちに愛し合っておかないと後悔する」

 拓海は彼女の頬に触れながら言った。

 今夜、彼女の体を三度求めたが、三度目は精液がほとんど出なかった。

 美穂が悲しげな顔をして言ってきた。

「あたし、たっくんなしで堪えられるかな……」

「大丈夫だよ。こうしておくから——」

 美穂の手をつかむと、拓海は彼女の指先を口に含んで舐めまわした。彼女は恥ずかしそうに目を細めている。

 拓海は唾液まみれになった彼女の手をかざして言った。

「この手を、ぼくの右手だと思って慰めたらいい」

「うん。そうする……」

 拓海は仰向けになって天井を仰いだ。やはり三度の行為で、全身に倦怠感があった。だがそれは、心地いい疲労感だった。麗子とのセックスではこうはいかない。性欲は発散できるが、やはり愛のないセックスはとても味気ないものだった。

 拓海はここで、隣の部屋が妙に静かなことに気づく。

「そういえば今日は、〝口笛〟の声が聞こえてこないな」

「そうなのよ!」美穂は目を輝かせて答えた。「やっとあいつ、引っ越したみたいなの。新しく隣に入居してきた人は、あいつみたいにうるさくないんだ」

「そうか。それはよかった」

 数年前に、この部屋の隣に入居してきた中国人の男は、深夜だろうとお構いなしに電話で話すような者だった。怒鳴り散らすような感じの中国語で電話している声を、拓海もたびたび耳にしていた。深夜に大声で話されるだけでも苛立つというのに、さらに理解不能の言語で話されるとなれば苛立ちも倍増する。美穂はトラブルを恐れて注意できずにいたが、以前住んでいた部屋でも、隣人の騒音に悩まされており、彼女は隣人運がなさすぎるといつも嘆いていた。

 その中国人の男は、電話をしていないときでも無駄にうるさかった。とにかく部屋の中をドカドカと音を立てて歩き回り、戸棚の開け閉めにも、信じられないほど大きな音を立てた。おそらく、彼が歩き回る音は、階下の住人も迷惑していたであろう。さらに男は、部屋の窓を開けて口笛をよく吹いていて、それにもいちいち神経を逆撫でされてきた。男が口笛を吹くことから、拓海と美穂は、いつからか彼のことを、〝口笛〟と呼ぶようになっていた。とはいえ、そんな厄介な男が転居したのだ。美穂の悩みが一つ減ったことに、拓海は自分のことのように喜んだ。

 拓海は気を良くしながらベッドを降りてトイレに向かった。

「どのくらい、会えなくなるの?」

 トイレから戻ってくるなり美穂から聞かれた。

「はっきりはわからない。とりあえず、彼女との生活がどうなるか、しばらく様子を見てからになるだろう」

「そう……」

「あと、万が一のことも考えて、LINEでの連絡も控えるようにしよう。何かの拍子に、美穂からのLINEを、彼女が見てしまうおそれもあるからね」

 今の言葉に、美穂は不満そうな顔をしている。気持ちは痛いほどわかった。会えなくなるだけでも辛いのに、その上LINEでのやり取りも制限されては、寂しさを埋める手立てがなくなってしまう。だがここは、非情になる他なかった。同情から、なあなあにしてはいけない。しっかりと線引きをして事に臨まなければ、足元をすくわれかねない。なぜなら自分は、これから人を一人、殺そうとしているのだから——。

「美穂」

「何?」

「これだけは信じてほしい。あの女と暮らし始めたら、しばらく会えなくなるけど、ぼくの心はいつだって君といっしょだよ。ぼくはいつだって、君のことばかり考えているんだから。だからお願いだから、少しだけ我慢してほしい。この計画がうまくいけば、ずっといっしょにいられるようになるんだから」

「うん。そうだね……」

 美穂が無理に作ったような笑顔を見せた。

「それにね、美穂。大金が手に入ったら、無理して働く必要だってなくなるんだ。二人で自由気ままに暮らすことができる。何なら日本にこだわる必要もない。外国の田舎町とかで、二人でのんびり暮らしたっていい」

「ならあたし、オーストラリアとかいいな。何か平和そうなイメージがあるし」

「そうだね。オーストラリアもいいね。あと、ハワイなんてどうかな?」

「あ、ハワイもいいかも。ハワイのオアフ島って、パワースポットがいっぱいあるんだって。パワースポットに行って、二人で癒されたいね」

「そうだ、必ず行こう。二人してハワイに」

 言うと拓海は、美穂に覆いかぶさった。

「え、たっくん、四回目だよ!?」

 美穂が驚いたように目を見開いた。

 拓海は右手で彼女の胸を鷲づかみすると言った。

「美穂。今夜は五回でも六回でも、時間の許す限り、愛し続けるよ——」

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