密会

 拓海は、夜の歓楽街を通って裏路地に入っていった。

 人影はすぐになくなった。街灯がないため薄暗く、また不穏な空気すら流れている。しばらくして、グラフィックアート調の落書きが目立つ、雑居ビルにたどり着く。七階建てくらいの、コンクリート打ちっ放しのビルだ。

 道路に面した鉄製のドアを開けると、下り階段になっていて、拓海はそこをゆっくりと下りていく。階段を降り切ると、サビが目立つ鋼鉄製の、黒い扉が立ちはだかる。

 ここで拓海は目を閉じて、自分の太ももを、握った拳で、トン、トン、トンと三度叩く。大事なことに臨む前の、自分流の儀式だった。舞台の本番前にも必ず行っている。

 鋼鉄製の扉を開けたとたん、ハードメタルの爆音が鼓膜を震わせてきた。騒々しい店内に、いつもながら閉口する。とはいえ、ここなら盗み聞きされる心配も少なく、密会には好都合だった。入ってすぐに、煙草の匂いが鼻につく。煙草の煙が充満していてもやがかかっている。これにも閉口させられるが、会う相手が愛煙家とあっては我慢するほかない。

 薄暗い店内はかなり広く、入って左側にL字型の長いカウンター席があり、中央の開けた場所には、丸テーブルが、間隔を広く開けていくつも置かれている。時間がまだ早いからだろう。客の入りは三分の一程度だ。黒いTシャツを着た店員が何人かいたが、笑えるほどにやる気のない顔をしている。だがその無愛想さが、この店には妙にマッチしていた。

 ここを訪れるのは何度目だったろうか。あの男と会うために月一のペースで利用していたから、四、五回は来ているだろう。来るたびに思うことだったが、海外ならいざ知らず、サービス精神ゼロのこんな店が、日本でまかり通っているのがいつも不思議に思えた。とはいえ、こんな店を好んで利用する客が一定数いるからこそ潰れずにいるのだろう。客商売とはわからないものだと思う。現に、自分も利用者の一人なわけだから、少なからず需要はあるわけだ。

 拓海は店の中央の席に向かっていく。約束の時間よりも少し早く着いたにもかかわらず、相手の男はいつも通り先に来ていた。煙草を吸いながらスマホに見入っている。年齢は自分より二つ上で、目つきが鋭く、油断ならない相手だ。彼の横柄な態度は気に食わなかったが、時間をしっかり守るところは評価していた。ただ、ここは職場から近いと聞いていたから、単に遅れる要素がないだけかも知れなかったが——。彼はこちらが近づいても、顔をちらりと向けただけで、すぐにスマホに視線を戻してしまう。

 拓海は男の前に座ると、やる気のなさそうな店員を呼びつけてバドワイザーを注文した。バドワイザーがテーブルに置かれるなり、拓海はグラスを手にした。

 佐藤がスマホを見ながら言った。

「二十六歳の数学教師が、十五歳の少女に金を渡して淫らな行為をして逮捕だとよ——。こんなの別によ、ただでセックスしたわけじゃねえんだから、逮捕なんてする必要ないと思わないか? 女は金をもらってんだから、お互い、ウィンウィンな関係なわけだろ? 未成年は正しい判断ができないから大人が悪いっていうことなんだろうが、自分らが十代のときのことを思い出してみろってんだよな。善悪の判断くらいついてたはずじゃねえか。だから、男のほうを逮捕するんだったら、売春容疑で十代のガキもいっしょに逮捕すべきなんだよ。それでこそ、男女平等ってもんだろ。性犯罪が男側に不利ってのも、男女差別に該当するんじゃねえのかっておれは思うけどな」

 拓海は、いつもの御託を聞き流す。

 佐藤はそのまま悦に入ったように続ける。

「教師のほうは、実名さらされちゃってるわけだから人生アウトだよな。けど、金を受け取った女のほうはノーダメージなわけだ。やっぱり不公平だろ? 男女平等を謳うんなら、女のほうにも何らかのペナルティを与えるのが筋だよな。とりあえず、受け取った金は男に返すべきだよな。まあそもそも、こんな程度のことで警察が動いてること自体が間違ってるんだけどな。買春した教師なんて放っといて、もっとやばいやつの逮捕に力を入れろってんだよな」

 佐藤は持論を語り終えてすっきりしたようだ。

 彼はやっとこちらに顔を向けて状況を聞いてきた。

「どんな感じだ?」

「かなり親密になってきましたよ」

 そう報告すると、佐藤は満足そうな顔をした。

 彼がスマホを置いて聞いてきた。

「一応念のため確認だが、その親密ってのは、男と女の関係になったと解釈していいんだろうな」

「ええ。そう解釈してくださって結構ですよ」

 答えると、佐藤は卑猥な表情を見せて言った。

「あの女、感度よすぎるだろ」

 拓海は相手の発言に閉口した。そういう下世話な会話は好きではなかった。だから苦笑して、首を傾げるだけに留めた。

「マジでいい体だったな、あの女は……。とくにあのくびれは最高だったな。今のあんたがマジで羨ましいぜ」

 佐藤は昔を懐かしむような調子で言った。

 彼の言葉がトリガーとなって、拓海の脳裏に麗子の裸体が浮かんだ。裸で背を向けて眠っているときの彼女の背中はとても美しかった。流麗りゅうれいな背骨のラインは、まるで芸術作品のようにも見えた。しかし、そんなことを今この場で口にしようものなら、佐藤は調子に乗って下世話な話題に終始するに違いなかった。

 話につき合わないでいると、佐藤は苦笑して黙り込んだ。

 拓海は店内を見渡してから言った。

「いつも思うんですけど、ここってガラの悪い連中ばかりじゃないですか。わざわざ、こんないかがわしい店で会わなくてもいいんじゃないですか」

 佐藤はギネスビールをぐいっとあおってから答えた。

「念には念をってやつだ。もし、二人で会っているところをあの女か、あの女の知り合いにでも見られたら、おれらの企みはバレちまうんだからな。それによ。ここみたいな地下の寂れたバーってのがまた、秘密の会合にはぴったりだと思わないか」

「人目につかなければ、どこだって同じですよ」

「ならこの店は、うってつけじゃねえか。誰もこんな汚ねえ店、まともな人間は好き好んで来ないだろ?」

 確かにその通りだった。ここは普通の人間が来るような店ではなかった。周りを見渡しても、顔中がタトゥーやピアスで埋め尽くされているような怪しげな客ばかりが目につく。全員が全員、やばい感じだ。おそらく違法ドラッグにも手を出している者も多いに違いない。そんな感じの店だったから、拓海はあまり長居はしたくなかった。下手に絡まれでもしたら面倒だからだ。良識を持ち合わせていない連中とは、できれば関わり合いたくない。ところが、目の前の男は、こんな店でも居心地よさそうに座っている。そんな男に、さらに詳しく近況を報告した。


 写真展で偶然を装って麗子に接触してからの展開は早かった。計画は大きく前進したといえる。ここまでは順調だった。そしてこのまま誠実な男を演じ続ければ、結婚の承諾を得るのも充分可能だろうと思った。不安なのは、結婚後のことだ。

 当然、好きでもない女と、何十年もいっしょには暮らせない。仮に、偽りの結婚生活を続けるにせよ、どの程度の期間になるのかの目安がほしかった。これまで計画の発案者は、そう長くはならないと言葉を濁し、麗子と親密になるまでは手のうちは明かさないの一点張りだった。しかし今日こそは、重要な点を確認しておく必要があった。

「佐藤さん、計画通り、ぼくは彼女と親しくなったんですから、今日は大事な話を聞かせてもらいたい」

 今日もはぐらかすようだったら、計画を頓挫させると脅すつもりでいた。

 佐藤は煙草の煙を吐き出してから聞いてきた。

「大事な話ってのは?」

「彼女と結婚したあとのことですよ。今日こそは、明快な回答をください。これ以上はぐらかすようでしたら、ぼくは手を引かせてもらいますよ。佐藤さん、いいですか、ぼくは好きでもない女と何年も暮らす気はない。だから結婚後に、あの女をどうやって始末するのか、具体的な計画を聞かせてほしい。あと、当然ですけど、直接手を下すなんていやですからね。仮に事故に見せかけて殺すにしても、ぼくにはできっこない。もし実行できたとしても、絶対に警察にバレて捕まるに決まってる。だから本当に、警察にバレずに彼女を殺す方法があるんだったら、今日ここで詳しく教えてください。お粗末な方法だったら、ぼくはきっぱりと手を引きますから」

 あらかじめ用意しておいた言葉を一気に伝えた。

 少し感情的になってしまったせいか、いくらか気づまりな空気が流れはじめた。

 佐藤はしばらく黙っていたが、ギネスビールを飲み干し、空いたグラスを横にずらすと言った。

「わかった。いいだろう。今日はお互い、腹を割って話そうじゃないか。あんたの本気度も、わかったことだしな」

 ここで佐藤は、黒いTシャツを着た胸板の厚い店員を呼び寄せて、ドリンクのおかわりを注文した。しばらくして、注文を受けた店員がこちらのテーブルに戻ってきて、なみなみと注がれたギネスビールを空いたグラスと引き換えに置いていった。

 佐藤はギネスビールの泡に口をつけると言った。

「おれたちには追い風が吹いている」

「追い風——?」

「そうだ。追い風だ」

 そこで佐藤は、ジャケットの内ポケットから小瓶を取り出した。手のひらにすっぽりと収まるくらいのサイズで、茶色のガラス容器だった。彼は二本の指で小瓶を挟んで目の前にかざして見せる。中には液体が入っていた。

「結婚後にこの液体を、毎日一滴ずつ飲ませるんだ。そしたらあの女の心臓が徐々に弱っていって、一年後には死んでくれる。これがおれの計画の全貌だ」

 毒殺——。保険金殺人でよく聞く話だ。とても賢明な方法とは思えなかった。

「そんなの、検視とかしたらバレるんじゃ……」

「心配はいらない。この薬はな、検死されても絶対にバレる心配のない薬なんだ。おれが保証する」

 保証すると言われても不安は拭えなかった。

「でもどうやって、その薬を手に入れたんですか——?」

「実はな、大学のおれの同期に、製薬会社に勤めてるやつがいてな。そいつがちょっと悪い女に引っかかっちまったらしくて、いろいろと金が入り用になったんだ。それで、そいつから、話を持ちかけられたってわけだ。お前、殺したいやつはいないかってな——。てなわけで、おれはこの魔法の液体を手に入れたわけだ」

「なるほど……」

「でな、聞いてくれよ。こんなんで、三十万もぼったくられたんだぜ。まあ、効果がなかったら返金するってそいつが言うもんだから言い値で払ってやったんだが……。だがな、実際に効果はあった」

「まさか、試したんですか——!?」

 拓海は思わず上ずった声を出してしまった。

 相手はこちらの反応を面白がるように顔に笑みを浮かべている。

「三十万も払ったんだぜ。使うに決まってんだろが」

 拓海は、ごくりと唾を飲み込むと念を押すように聞く。

「本当に、警察にバレるなんてことは、ないんですか?」

「ああ、大丈夫だ。まあおれが誰に使ったかは言わないでおくが、効果は実証済みだ。相手は病死で処理された。警察からはまったく疑われてない。だから安心していい」

 そう言われても簡単には安心できなかった。麗子が死ぬのは構わないが、警察にだけは捕まりたくなかった。

 それにしても、そんな都合のいい薬が簡単に手に入るものなのだろうか。だが、製薬会社に勤めていれば、それも可能だと思えてくる。大勢の人間が働いているわけだから、隠れて悪さをしても、簡単には目に留まることもないのかもしれない。また、仮に佐藤が用意した薬が本物だとしたなら、表沙汰にならない殺人が、今日もどこかで行われている可能性があるということだ。そう思うとぞっとした。

 こちらが不安を感じている中、佐藤は続けた。

「あんたの気持ちはよくわかる。おれもこれを使ったときはヒヤヒヤものだったからな——。だからここで一つ、おれから提案したいことがある。あらぬ不安を払拭するためにも、あんたが誰かに前もってこの薬を使って、おれと同じように効果を実証すればいい。そしたら安心して、あの女にも使えるはずだ」

 常軌を逸した提案に、背筋が凍った。

「あなたはぼくに、他の誰かを練習台に使えって言うんですか……」

 拓海が唇を震わせながら聞くと、佐藤は涼しい顔をして答えた。

「別に無理にとは言わない。けど、効果を確かめないと、あんたも不安だろうと思ってな。おれは本当は、そんなまどろっこしいことはしたくないんだぜ。何せ、この薬は、安くはないからだ。だからこれは、おれの純粋なる善意から言ってることなんだ。試す試さないは、あんたの勝手だ」

 今、ここですぐに、返事をできる事柄ではなかった。

 落ち着かない気持ちのまま何気なく店内を見渡したところで、他のテーブルの客と目が合った。拓海はすぐに視線を外した。顔にまでタトゥーを入れた男がまともなわけがない。

 こちらが黙っていると佐藤は続けた。

「あんたにも、殺したいって思うやつの一人や二人、身近にいるだろ? そういうのに試せばいいんだよ。実験台だと思って、気軽にやってみろ」

〝実験台〟などという言葉を平気で口にする男に、拓海は嫌悪感を覚えた。

 佐藤はさらに続けた。

「選ぶなら、そいつが死んでも、あんたにいっさい利害関係のないやつにするんだな。そいつが死んだことによって、あんたが少しでも得をするってなると、変に疑われるかもしれないからな——。家族とかはやめろよ。それじゃあまりにも身近過ぎるからな」

 拓海は声を震わせながら言った。

「少し、考えさせてください……」

「ああ構わないぜ。だが、おれも気が長いほうじゃない。このプロジェクトは、長くても三年以内には終わらせたいと思っている。まあ、それまでは、足並み揃えていこうじゃないか。とりあえずこれは、あんたに預けとくよ」

 佐藤は小瓶をこちらの目の前に置いた。黒いプラスチック製のキャップがついていて、高さは五センチもなさそうだ。

 拓海は小瓶を手に取って聞く。

「一滴ずつ、でしたよね……」

「ああ、そうだ。一滴ずつだ」

 小瓶をバッグに仕舞おうとしたところで手が止まった。気になる点があったからだ。

「これなんですけど、保存はどうすればいいんですか?」

「ああ、保存か。そういやそんなこと気にしてなかったな。おそらく常温で大丈夫だろうが、一応聞いておく。気になるようだったら冷蔵庫にでも入れておけよ」

「そうですね。そうしときます」

 家に帰ったら忘れずに冷蔵庫に入れておこうと思った。

 こちらが小瓶をバッグに仕舞うと佐藤は言った。

「その薬はな。心臓が弱るだけでなく、免疫機能も徐々に衰えさせていくんだ。最終的には、風邪をこじらしただけでも死んでしまうくらいにまでな——。死因は、原因不明の病死か衰弱死でカタがつく。あとさっきも言ったが、その薬には金がかかってるんだ、大事に使ってくれよな。本当はあんたからも金をもらいたいくらいなんだが、さすがに貧乏役者から金は取れないから、とりあえず今は、金の心配はしなくていい。だがその代わり、計画が成功するようにしっかりやってくれよな。何度も言うが、おれはこの計画に、だいぶ先行投資してるんだ、それを忘れないでくれよな。わかったな?」

 相手の言葉に、拓海は小さくうなずいて見せた。



       *  *  *



 拓海はアパートの階段を上がっていく。

 二階の角部屋の前に立ち、インターホンを押す。すぐにドアが開き、美穂が笑顔で出迎えてくれた。だが、彼女の笑顔はすぐに曇った。こちらの表情が硬いことに気づいたからだろう。それでも彼女は、すぐに取り繕うような笑顔を見せると、ご飯の準備できてるよ、と言って部屋に招き入れた。


「美穂、話があるんだ——」

 拓海は夕食を食べ終えてから切り出した。

 食事中、会話はほとんどなく、美穂はずっと不安そうな顔をしていた。

 丸い座卓を挟んで、美穂を真正面から見つめる。座卓はイケアで彼女といっしょに選んだものだ。座卓の下に敷かれている緑色のラグもそうだ。

 この部屋で、何度も将来の夢を語り合ってきた。だが、最近ここで交わされた会話の内容は、佐藤から提案された計画についてのことだった。当初、美穂は計画に強く反対していた。だが、二人の幸せのためだということを全面に押し出して説得したことで、最終的には了承してくれた。新庄麗子と肉体関係を結ぶことにも、渋々ながらも同意してくれた。これまで浮気など一度もせず、献身的に愛し続けてきたという信頼貯金があったからだろう。ビジネスセックスならばと許してもらえた。

「何、話って——?」

 美穂が心配そうな顔で聞いてきたタイミングで、LINEがメッセージを受信した。佐藤からだった。先ほど受け取ったばかりの、薬の保管方法についての回答だった。薬の保管は、直射日光を避けて涼しいところで保管すべきとのことだ。

 拓海はスタンプ一つで返答してから、美穂に佐藤から伝えられた件を話して聞かせた。

 話を聞く彼女の顔が、どんどんとこわばっていった。

「これがそうだ——」

 話し終えたあと、拓海は先ほど受け取った小瓶をテーブルの上に置いた。

 美穂は小瓶を見て固まっていた。手に取ろうともしない。感情が抜け落ちたような顔で、小瓶をじっと見つめているだけだ。

「佐藤はこの薬は本物だと言った。けど心配なら、誰かに試してみろとも……」

 美穂の顔に緊張が走る。

 それも当然だろう。薬の効果を確かめるために、人一人殺そうというのだから。

「ぼくも、佐藤の言う通りだと思う……。いきなり彼女に試して効果がなかったら、元も子もないわけだから……」

 美穂が唇を震わせながら聞いてくる。

「誰かに、飲ませるつもり……なの?」

「そのつもりだ」

「でも、誰に?」

 美穂が唾を飲み込む音が聞こえてきた。

 拓海は少し間を置いてから、努めて軽い調子で聞いた。

「美穂、前に言ってたよな。職場で殺したいほど、ムカつく女がいるって」

 とたんに、美穂が目に見えてうろたえた。

「え、待って、たっくん……、まさか——?」

 酷な頼みだとはわかっていた。とはいえ、頼める相手は他にはいない。

 拓海は、慎重に言葉を選びながら説得を試みた。

「わかってるとは思うが、彼女は超がつくほどの金持ちだ。だから、自然死で死んだとしても注目されやすい。それも、ぼくみたいな貧乏役者と結婚したあととあってはなおさらだ。誰も彼もが、ぼくが遺産目的で彼女を殺害したと疑うに違いない。だからね、美穂。この薬を試す相手は、ぼくの知人ではまずいんだ。ぼくの知人ではリスクが高すぎるんだよ。わかるだろ? あの女が死んだあとに警察がぼくのことを調べて、もし、ぼくの周囲で同じような死に方をした人間がいたと知ったら、警察はぼくを疑い、彼女の死は徹底的に調べられるはずだ。そしたらきっと、計画は破綻する。その瞬間、ぼくら二人の未来は消えてなくなるんだ——。だからわかってほしい。この薬の効果を試すなら、なるべくぼくと無関係の人間のほうがいいんだ」

 今の説明が美穂の選択肢を奪い、袋小路に追いやってるのはわかっていたが、ここは心を鬼にするしかなかった。

 彼女は怯えた仔犬のような目をして言った。

「それはわかるけど、でも……」

「無理にとは言わない。こんなこと、強要するつもりもないからね。ただぼくは、職場で殺したい人がいるって言ってたのを思い出して、それで一応聞いてみただけなんだ」

 美穂は考え込むように顔を下に向けた。今まで一度も、美穂に無理強いをしたことはない。今回のことも美穂が無理なら、薬の効果を信じてぶっつけ本番で麗子に試すしかない。

「でも、薬の効果がわかったほうが、安心だよね……」

 美穂がぼそっと言った。

 拓海は小さくうなずいて見せた。胸が苦しかった。彼女をむずかしい立場に追い込んでしまっていることが不憫でならなかった。

「お茶、淹れるね」

 美穂はそう言って立ち上がると台所に向かった。

 お茶の用意を待つ間、拓海はテーブルに置かれた小瓶を何気なく見つめていた。

「たっくん」

 拓海は呼びかけに反応して台所に顔を向けた。

 美穂が背中を向けたまま言った。

「今の件、少しだけ考えさせて——」

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