勧誘

「待ちましたか?」

 テーブルの前に現れるなり、相手の男は言った。

 佐藤は時計を見た。待ち合わせの時間を数分ほど過ぎていただけだった。

「いや。おれも着いたばかりだ」

 相手は席に着き、正装したウェイターにホットコーヒーを注文した。ウェイターが去るなり相手の男が口を開く。

「佐藤さん、先日は、舞台を観にきてくれてありがとうございました」

「いい舞台だった。正直、退屈するかと思っていたが、最後まで飽きずに観れた」

 お世辞抜きの、正直な感想だった。

「それはよかった」

 相手の男は笑顔を見せた。

 男の名前は桜井拓海。三十一歳で、佐藤よりも二歳年下だった。昼間はコールセンターで働き、夜は渋谷のカフェバーで働く、プロの役者を目指している男だ。

 桜井拓海が注文したホットコーヒーがテーブルに置かれた。店員が去ると、彼はコーヒーに砂糖を入れながら聞いてきた。

「それで、話って何ですか?」

 佐藤はすぐには答えず、コーヒーカップを口に運ぶ。

 これから相手に伝える話は、気軽に語れるような内容ではないし、まわりに聞かれてもよろしくない。店内をゆっくりと見渡して他の客たちを観察する。まわりの客は自分たちの話に夢中になっていて、こちらに関心を寄せているような者は見当たらなかった。佐藤は安全を確信すると、相手に少しだけ身を乗り出して切り出した。

「実はな、いい儲け話があるんだ。あんたの特技を活かして、人生変えてみないか——」

 佐藤は事の発端から説明をはじめた。


 説明している間、相手はだいぶ緊張している様子だった。そして最後まで口を挟むことはなかった。

 一通り説明を終えたあと、佐藤は重要なことをもう一度伝えた。

「——繰り返すが、おそらく、あの女はまた、顔に火傷を負ったと言って、あんたを騙すはずだ。そこで動揺することなく、しれっと永遠の愛を誓えばいいんだ。それであいつは、あんたのとりこになるはず——。もうじきあの女は、父親の莫大な遺産を受け継ぐことになる。あんたと結婚したあとにあの女が死ねば、莫大な遺産はあんたのものってわけだ。どうだ、千載一遇のチャンスだと思わないか?」

 相手は無言のまま、考え込むように下を向いていた。当然の反応だろう。初対面に近い男からいきなり犯罪行為に加担しろと言われたのだ、すぐに反応できなくても不思議ではない。佐藤は辛抱強く相手の出方を待った。

 しばらくして、相手はため息混じりに聞いてきた。

「話はわかりました……。でも佐藤さん、あなたに何のメリットが?」

「金に決まってんだろ。その女が死んで、まとまった金が入ったら、おれに三千万渡してくれればいい」

「三千万ですか……。けっこうな大金ですよ」

 相手はむずかしそうな顔をして答えた。

「いいか、おそらく数十億って金が入るんだ、三千万なんて、はした金だろうよ」

「でも事故にでも遭わない限り、その女が死ぬまで、何年かかるかわかんないんですよ」

「何年も待つつもりはねえよ」

 この発言に、相手は顔を引きつらせた。それから、忌むべきものでも見るような目つきをして聞いてきた。

「まさか、その女を……」

「それはまだ先の話だ。まずは、あの女に近づいてからだ」

 相手は慌てた様子で反論してきた。

「ちょっと待ってください。事故に見せかけてどうとかって考えてるんだったら、ぼくはこの話には乗りませんよ。そんなこと、きっとうまくいきっこない」

「いい方法があるんだよ」

「ならそれを、今教えてください」

「いやだね。あんたがまだ本気じゃないってのに、こっちの手のうちをすべて見せたくはない。あんたが断るなら、別の誰かを探すまでだ」

「それじゃ具体的な方法は、すでに用意してあるんですね?」

「ああ。だが、警察にバレずに人を殺す方法を、そう簡単に教えたくはないんだ。企業秘密ってやつだよ。だが、あんたがあの女と親密な関係になったら必ず教えてやる」

 相手は納得しかねる様子で黙ってしまった。だが、ここから立ち去らないのは、少なからず今の提案に興味を引かれているからだろう。相手は少し考えるそぶりを見せてから口を開いた。

「佐藤さん、仮にですよ。仮にぼくが、その女と結婚できたとして、そのあとその女が死んでも、その女の遺産が全部、ぼくに入ってくるとは限らないでしょ? 遺言とかで、遺産はすべて慈善団体に寄付するとか書かれていたら……」

「大丈夫なんだよ。例え、遺言でそう書かれてあったとしても、この国には遺留分っていう法律があるんだよ」

「イリュウブン?」

「そうだ。遺言でどう書かれていようが、配偶者は遺産の二分の一を必ず受け取ることができるんだ。それを、遺留分っていうんだ。だから遺産を全額寄付するって遺言に書かれてあったとしても、あんたは確実に、遺産の半分は受け取ることができる」

「そうなんですか……」

 目の前の男は、考え込むように下を向いた。

 佐藤はスマホを手に持つと言った。

「その女の写真、見とくか?」

「いえ、いいです……。ぼくはまだ、あなたの話に乗ると決めたわけではないですから……」

「だが、だいぶ乗り気になってるのは事実だろ?」

 聞くと、相手は複雑な表情をして見せた。図星だったのだろう。しかも、目の前の男は、こちらの提案を無下には断れない状況にいる。駄目押しとばかりに、そこを突いてやることにした。

「なあ、よーく考えてくれ。役者目指して十年経ったと言ってたよな? あんたの夢を悪く言うつもりはないが、十年やっても結果が出てないわけだろ? それでも今まで通り続けていくつもりか? 今後いくらがんばっても、成功の保証なんてないんだぞ。むしろ、十年経っても結果が出てないんだから、成功しない可能性のほうが圧倒的に高いはずだ——。仮にだ、もし今、役者の道をあきらめて就職したとしても、正直、大した職には就けないと思うぜ。おそらくあんたよりも年下の、二十代の上司にこき使われる毎日が待ってるだけだぜ。うちの会社にもそういうのがいるんだが、惨めなもんだぜ。入社が遅いってだけで、年下に敬語を使わなきゃいけないんだからな。あんたもその辺はわかってんだろ、役者崩れじゃ大した職に就けないってことは。ならここは、一度腹をくくって、おれの計画に乗ってみてもいいんじゃねえのか」

 現実を突きつけてやったことで、相手は苦り切った顔をしていた。本人も年齢的に、役者での成功はむずかしいと感じていたに違いない。きっと辞めどきを見失って、これまで惰性で続けてきたのだろう。だが、この先に希望が持てないからこそ、今回の計画には適任といえる。本気で悪事に賭けるのは、あとがない者だけだ——。

 相手は苦り切った顔で聞いてきた。

「佐藤さん、何でぼくを選んだんですか?」

 質問に、笑って答えてやった。

「そりゃ決まってるじゃねえか。あんた、仮にも役者だろ? 演技で人を騙すのは得意だと思ってな」

 目の前の男は、ため息をついて言った。

「もしかして、あの店にやって来たときから、ぼくを計画に巻き込むつもりでいたんですか?」

「お、察しがいいな。そうだ。その通りだ。あの店であんたと話してるときに、この計画を思いついたんだからな。役者をやってるって聞いてピンときたんだ」

「それじゃ、舞台を観にきてくれたのも、ぼくの演技力を確かめるためだったとか?」

 相手は探るような視線を向けて聞いてきた。

「そうだ。ほんとに察しがいいな、あんたは」

 相手は少し消沈していた。

「ちょっとガッカリですよ。純粋にぼくの舞台に、興味をもってくれたと思ってたのにな……」

「おいおい。おれが舞台なんかに興味ありそうに見えるか? 見えないだろ」

「まあ、確かにそうですよね……。不思議だったんですよ、何で舞台を見にきてくれたのかなって。ひょっとしたら、ぼくに興味があるのかもと少し疑ってたんです」

 相手の発言に、佐藤は笑って答えた。

「おいおい、よしてくれよ。おれは女にしか興味ねえよ」

「ですよね……」

「ああ、それとな。演技力の他に、あんたの見た目も考慮した」

「そこは礼を言ったほうがいいのかな」

 相手は皮肉めいた口調で答えた。

「いや。見た目の良さは、おれにじゃなくて、あんたの両親に感謝したほうがいい」

 相手は苦笑しながらコーヒーを口に運ぶ。

 佐藤は最後に念を押すように言った。

「いいか、よく聞いてくれよ。おれだって、毎日くすぶった生活を送ってて、ほんとにうんざりしてるんだ。だからこそ、おれはこの計画に賭けている。そのために先行投資だってしてる。あの女のことを調べるのに、一体いくら使ったと思ってる? あの女の身辺を調べるために、興信所にけっこうな金を使ってるんだ。数万円っていうレベルじゃない。数十万円っていう金を、おれは先行投資してるんだ。そんだけこの計画に賭けてるってことだ。だからな、この計画に関わる人間にも、それなりの覚悟を求めてるんだよ」

 本気度が伝わったのか、相手は真剣な表情に変わっていた。今は腕を組んで、考え込むような表情を見せている。

「あんた、恋人はいるのか?」

 急に浴びせた質問に、相手は一瞬ビクッとなった。

「いえ。いないですよ……」

「本当か?」

「本当ですって」

「ならいい。女がいたら、この計画に支障をきたすからな。いないんだったら、そのほうがいい——。だがその顔で、女がいないってのは不思議だな。何で作らないんだ?」

「ぼくは一人のほうが好きなんですよ。ただそれだけです」

「ふーん。ま、そういうやつもいるよな。だがもったいないよな、その顔で女を作らないなんて」

「大きなお世話ですよ」

「ま、それもそうだな」

 佐藤はコーヒーを一気に飲み干すと、空いたカップを叩きつけるようにテーブルに置いた。

「桜井、さっきの話だが、考える時間をやる。だが一週間だ。その間にゆっくり考えてくれ。けどいいか。それ以上は待てん。わかったな? 覚悟ができたら連絡をくれ——。最後に一つだけ言わせてもらうが、こんなチャンス、一生に一度、くるかどうかだぞ。そこんとこ、よく覚えておくんだな」



       *  *  *



 会議室から出ると、佐藤は大きなあくびをした。時間を無駄にするだけの、いつも通りのロクでもない会議だった。仕事が山積みだというのに、無駄に二時間も拘束された。

 同僚たちといっしょに喫煙ルームに向かっていたところでスマホが鳴った。

 発信者を確認してニヤリとする。

 スマホを鳴ったままにさせて、人目を避けるために非常階段の踊り場に入った。

 佐藤は、ようやく応答すると言った。

「よお色男。覚悟はできたか?」

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