悪魔の啓示

 月曜日。地獄の始まりだ。

 いつも通り、朝から外回りだ。午前中は既存のクライアントを回った。成果報告するだけの定期訪問だ。その間、ほとんど頭は回っていなかった。午後からは本格的な営業回りだ。自社のサービスを売り込むために、事前にアポを取った企業を訪問した。ところが、訪ねた二社とも空振りに終わった。さらに両社ともに、次回の約束すら取りつけられなかった。だがそれも、当然の結果といえた。なぜなら、両社ともに自社のホームページを持たず、Webコンサルにもほとんど興味がなかったからだ。そんな会社を割り当てられた時点で結果は見えていたのだ。運がなかったとしか言いようがなかった。

 時刻は午後五時。営業が不発に終わって気分は冴えなかった。会社にまっすぐ戻る気にもならず、佐藤はコーヒーショップで時間を潰すことにした。営業の仕事はとくに好きではなかったが、こうやって好きなときに、好きなだけサボることができるのは気に入っていた。帰りが遅くなろうが、外で仕事をしていたと言えば済むことだった。


 佐藤が勤めているのは、従業員が七十名ほどのITベンチャー企業だ。ホームページの作成や運営を引き受け、それを通してクライアント企業の周知や、ビジネスチャンスの創出をサポートしている。佐藤の仕事は、Webコンサルの契約を勝ち取ることだ。中小企業が、おもな取引先でありターゲットだった。

 契約獲得までの流れはこうだ。おもに女性の派遣社員が、都内の中小企業リストを頼りに、アウトバウンド電話発信営業をかけ、アポが取れた企業に、佐藤ら営業マンが訪問するというわけだ。無事契約が取れたあとは、内勤の従業員がホームページの作成や運営を引き受ける。佐藤ら営業マンは、メールでの定期報告の他に、月に一回から二回ほど、実績を報告するためにクライアントを訪問するというわけだ。

 ただ、今日のように営業は、空振りに終わることが多かった。営業電話をかけてきた若い女性に興味を示して、アポを許可する経営者は少なくなく、そんなところに営業をかけたところで契約など取れるわけがない。中には電話口の女性が訪問しないとわかると、アポを取り止める者さえいる。下心が見え見えだ。取り止めてくれるならまだいいが、はじめから断るつもりで訪問を許可した場合のほうがタチが悪い。営業マンにとっては時間の無駄でしかないからだ。そのような場合、わざわざ時間をかけて出向く側としては怒りしか湧かなかった。


 会社の社長は、典型的なワンマン経営者だった。昭和の時代そのままに、連日終電近くまで残業している者が評価された。ブラック企業の典型みたいな社風だった。朝礼で社長の罵声が飛ぶこともしばしばで、社長の罵声を恐れて、従業員は結果を出すため長時間の労働を強いられた。徹夜も珍しくなかった。社内には、四つのベッドが置かれた仮眠室があったが、常に一人か二人は利用していた。そんな環境だったから当然離職率は高かった。


 佐藤にとっては三社目の会社だった。面接時は自由な社風を社長からアピールされたが、いざ入社してみれば真逆の環境だった。勤務して五年、社風が社風なだけに転職を望んでいたが、年齢を考えるとリスクもあった。もう若くはない。転職で給与が下がる可能性もある。また最悪の場合、転職先がさらに劣悪な環境ということもあり得た。仮に転職するとなれば、年齢的に、次が最後の転職という覚悟で臨む必要があるだろう。ゆえに、慎重にならざるを得ない。そういうわけで、現状に大きな不満を抱えていながらも現職にしがみついていたのだった。

 ここ最近、仕事はスランプだった。大スランプといってもいい。新規の契約がなかなか取れずにいたのだ。

 営業は運の要素も大きい。相手が始めから乗り気であれば、トントン拍子で話は進む。そんな場合は、誰が担当しても簡単に契約が取れる。だがここ最近は、そんなおいしい客に当たらずにいたのだ。過去にもそういう時期は度々あったが、今回のスランプは入社以来最長のものだった。

 佐藤はぬるくなったコーヒーを飲んで過去を振り返る。

「あの女といたときは、絶好調だったというのにな……」

 そう。新庄麗子と交際をはじめてからは、不思議と営業成績が伸びはじめたのだ。彼女は佐藤にとって幸運の女神だった。しかし、彼女と別れてからは、なぜか営業成績は目に見えて落ち込んでしまった。しかし当時は、それでも別れたことを後悔してはいなかった。なぜなら、醜い顔になった女を愛することなど考えられなかったからだ。


 佐藤は午後六時過ぎにコーヒーショップを出た。

 三十分後に会社に着くと、ノートパソコンを開いて事務仕事をダラダラと続けた。気づくと午後の八時になっていた。週のはじめということもあり、今日は遅くまで残業する気にはなれなかった。退社する際、終業時間をとっくに過ぎてるにも関わらず、今日は早く帰るんだな、と社長に嫌味を言われた。

「ああ、今日もイラつくな——」

 佐藤はビルの外で憤りを声に出して吐き出す。

 今日も一日中ストレスにさらされたのだ、月曜日だったが飲まずにはいられなかった。最近はアルコールの量も増えていたが、今後ますます増えていくに違いなかった。とはいえ、てっとり早く気分を解消するにはアルコールが最良だった。

 会社の近くでは飲みたくなかったため、タクシーで渋谷まで行くことにした。渋谷警察署近くで降りて、いきつけのワインバーを目指す。

 国道沿いの歩道を歩いている途中で、スタンド型の看板に目が留まる。どうやら、古びた雑居ビルの中にカフェバーが入っているようだ。何となく惹かれて、ビルの中にふらっと足を向けた。

 乗り込んだエレベーターは狭くてカビ臭く、また上昇中、ずっと不気味な軋み音を響かせていた。七階でエレベーターを降りると、すぐ左手がエントランスになっていた。ガラス製の自動ドアが人感センサーに反応して横に開いていく。

 入った店内は薄暗く、こじんまりとしていた。カウンターとテーブル席を合わせても三十席くらいか。客の入りは少なく、立地的に、常連しか訪れない店なのかもしれない。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの奥から店員が声をかけてきた。長身で、薄い無精ヒゲを生やしたイケメンだ。

「ここ、煙草吸える?」

「はい。電子タバコなら大丈夫ですよ」

 佐藤はカウンター席に座った。

 カウンター席には先客がいた。二十代後半くらいの女で、ベージュのスーツを着ていて、会社帰りのOLといった感じだ。女性客はちらりとこちらに顔を向けてきたが、すぐに視線を外してドリンクに口をつけた。店員から注文を促され、佐藤はウォッカトニックを頼んだ。

 カウンターの奥は厨房になっていた。キッチン担当らしき若い男女が談笑している。客が少ないからヒマなのだろう。二人とも、カウンターの男とは違って私服に近いラフな格好だ。佐藤は電子タバコを取り出した。

 白シャツの男性店員がドリンクを作っている最中にも、佐藤の左側に座る女性客は、カウンター越しに白シャツの店員に熱心に話しかけていた。

「タクミさん、わたし、次の舞台も絶対に観にいくからね」

「ありがとう。よかったら友達も誘ってよ」

 今の会話から、男は何らかの舞台に携わっていることがわかった。女性客は彼のファンなのかも知れない。男はルックスがよかったから、裏方ではなく、演者のほうだろうと思った。

 カウンターに注文したウォッカトニックが置かれた。佐藤はドリンクを飲みながら、客と店員の会話をぼんやりと聞いていた。大して興味はなかったが、席が近いだけにどうしても耳に届いてしまうのだ。

 二人の会話から、白シャツを着ている男性店員は、やはり読み通り、役者をやっているらしい。どうやら、かなり本格的に活動しているようだ。

 一時間ほどして女性客が帰ると、カウンターにいる客は自分一人だけになった。男性店員が空いたグラスを見て声をかけてくる。

「おかわり、どうです?」

「ああ。頼む」

「同じもので?」

「ああ」

 男は手際よく新しいドリンクを作りはじめた。

「この店は初めてですよね?」

 新しいドリンクをカウンターに置いたタイミングで店員が聞いてきた。

「ああ、そうだな。たまたま寄ったんだ。いい店だな」

「どうも。オーナーのセンスがいいんで」

 店員は謙遜するように答えた。

「さっき話が聞こえてきたんだが、あんた、役者やってるの?」

「ええ、そうなんです。まあ売れない役者ですけど」

「次の舞台が近いんだって?」

「あはは。丸聞こえだったんですね。まあこの距離なら当然か」

「もしかして主演なの?」

「ええ、まあ、一応」

「あんた、顔がいいから、女性ファンとかついてそうだな」

「そんなことないですよ」

 店員は苦笑しながら答えた。

「さっきの客なんて、あんたのファンなんだろ?」

「どうなんですかね。何度か観にきてはくれてますけど」

 佐藤はここでふと、新庄麗子の顔が脳裏に浮かんだ。そして次の瞬間、啓示のようなものが頭に降ってきた。

「そうか……。きっとあの女はまた、別の男でも試すはず……」

「え、何か言いました?」

 店員がカウンター越しに聞いてくる。

「いや、何でもない……」

 店員の男は少し怪訝そうに小首を傾げた。

 佐藤は彼女と遭遇したときのことを思い出す。彼女は満面の笑みで、高級ブランド店から出てきた。それに移動はリムジンときている。怒りで体が震えた。特殊メイクか何かで火傷を装い、あざ笑うかのように自分を試してきた女に殺意すら覚えた。

「くそっ。騙されっぱなしじゃな……」

 店員の男が視線を向けてきたが、今度は何も言ってこなかった。

 佐藤は電子タバコの煙を吐き出してから店員の男に聞く。

「役者のほうは、長いことやってんの?」

「ええ、そうですね。学生時代からですから、もう十年以上になりますね」

「ならそれなりに、演技には自信があるんだろうな」

「いえ、そんなことないです。ぼくなんて、まだまだですよ」

 謙遜する男を佐藤はじっと見つめた。

 甘いルックスは、万人受けするだろうと思った。そこに演技力が加われば——。

「おれもあんたの舞台、今度観にいってみようかな」

 こちらの言葉に、男はうれしそうに目を輝かせた。

「ほんとですか? ええ、ぜひ来てくださいよ」

「なら連絡先、教えてもらえるか?」

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