労働は悪
「拓海君、今の演技よかったよ!」
通し稽古のあと、演出家の近藤から賛辞の言葉が掛かった。
拓海は気をよくしながら休憩に入ると、台本を手に稽古場の壁に寄り掛かった。そこでリョウが声をかけてきた。
「拓海さん、結婚してから変わりましたよね」
「そう?」
「ええ。何だか前より、表情が穏やかになった感じがしますよ。まあ前から穏やかな顔してましたけど、さらに優しい表情になったっていうか……、そうですね、人生を楽しんでるなって感じが伝わってきますよ」
「そうかな。ぼくは変わったつもりはないんだけど」
嘘だった。結婚を機に大きく変わったことは自分自身でも気づいていた。そして変化の大きな要因は、〝労働〟からの解放にあったに違いなかった——。
結婚前は、常に金銭的に困窮していた。コールセンターは時給が高かったとはいえ、派遣社員とあってはボーナスなど出るわけもなく、金が貯まることはなかった。むしろ、一時期は借金もしていた。出費が重なったときには、家賃を滞納することさえあったほどだ。家賃の振り込みが遅れると、すぐに保証会社から督促の電話が掛かってくるのだが、そんなときは生きた心地がしなかった。当然、滞納した家賃をそのままにするわけにはいかず、滞納分の家賃を稼ぐために残業を強いられることになる。望まぬ残業は魂が削られていくようで、まさに生き地獄でしかなかった。
そんなストレスフルな生活から解放されたのだ。表情が明るくなるのも当然といえた。
望まぬ労働から解放されたことで、役者への情熱が以前よりも増しているのがわかった。舞台のことだけを考えていられる時間が増えたことで、新しいアイデアも次々と浮かぶようになっていた。今は経済的不安がないおかげで、過度に成功を目指す必要もなくなり、純粋に演劇活動を楽しむことができた。まるで、演劇に興味を持ちはじめたころの、学生時代に戻ったかのような感覚だった。
今の解放感を思うと、望まぬ労働が、いかに心を疲弊させていたかがわかる。今となっては、労働に対する憎悪すら覚えるほどだ。これまで長きに渡って生活の中心となってきた労働時間は、人生を無駄にしてきた時間に等しいと思えた。本人が望まぬ労働は、人生の浪費でしかない——。
結婚を機に辞めるまで、コールセンターには六年ほど勤めた。
コールセンターでの仕事を通してさまざまな人間がいることを知り、役者を目指す上でいい経験にはなったと思った。だが、あんな仕事は一年もやれば充分だ。何年もする仕事ではなかった。時給がよくてシフトの融通が利くから六年も続いたが、結果的に多くの時間を無駄にしてしまった。月に百六十時間、一年でおよそ二千時間、六年で一万時間以上だ。失った時間を思うと、ぞっとしてしまうほどだ。
勤めていた保険のコールセンターは離職率が高かった。それは、どこのコールセンターも同じだったかもしれないが、客の暴言に参ってすぐに辞める者が多く、高時給には我慢料も含まれているのだと思った。だが、慣れとは恐ろしいもので、客からの暴言も、何度も浴びているうちに耐性がついてくる。「また来たか」という感じで、ある程度聞き流せるようになってくるのだ。
経験を積めば積むほど、客のあしらい方もうまくなっていった。入社当初は客の理不尽な暴言に、数日怒りが消えないこともあったが、慣れるにつれて長く引きずることはなくなっていった。いつからか、暴言を浴びても、帰りの電車に乗ったころには忘れているまでになっていた。とはいえ、何年経っても、冒頭から、「声が小さい!」と怒鳴ってくる高齢者には殺意を覚えた。そのたびに、お前の耳が遠くなってるんだろクソジジイと言い返したくなったものだ。
長く勤めれば勤めるほど、最悪の仕事だという思いを強くしていったが、働くビルの入り口に立つ、死んだ目をした警備員を見ては、ただ一日中つっ立っているだけの仕事に比べれば、コールセンターでの仕事のほうがはるかに生産性は高いだろうと思い、そんな彼らと比較しては溜飲を下げていた。
「麗子さんの体調、あれからどうなんですか?」
リョウが麗子の体調を気遣ってくる。
拓海は正直に答えた。
「実は、あまりよくないんだよね」
「そうなんですか……。それは心配ですね」
「風邪の症状みたいなのがずっと続いてて、常に顔色も優れないんだよね」
「病院は行ってないんですか?」
「本人がただの風邪だから心配ないって言っててね、病院には行こうとしないんだよ」
「まあ確かに、あたしも風邪引いたくらいじゃ病院には行かないですからね」
「本当に、ただの風邪だったらいいんだけど……」
会話が止まったところで、演出家の近藤が手を叩きながら声を張り上げた。
「はいはい、休憩終了。それじゃ、今度も、通しでやってみようか」
拓海は仲間たちとともに立ち上がると、気持ちをさっと役者モードへと切り替えた。
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