執事の密かなる愉しみ

 拓海は、二人分の紅茶を乗せたトレイを持って応接室に入った。

 格調高いデザインの一人掛けソファに麗子は腰掛けていた。膝の上には愛猫が乗っている。

「ありがと」

 差し出したティーカップを麗子が美しい所作で受け取る。

 拓海は斜め向かいの横長のソファに座った。デザインは麗子が座っているものと同じだ。この立派な応接室でお茶を飲んでいると、自分が貴族にでもなったかのような錯覚を覚える。

 麗子の膝の上で戯れていた彼女の愛猫が、ぴょんと飛び降りると、拓海の足元に体を擦り寄せてきた。それを見て、麗子が笑顔を見せる。

「ほんとサクラは、拓海さんに懐いてるわね。人見知りが激しい子なのに」

 麗子が言うように、彼女の愛猫のサクラは、拓海がこの屋敷に来てすぐに懐くようになった。当然、悪い気はしない。実はどちらかというと犬派ではあったが、そのことは麗子には黙っていた。

 当然ながら、サクラは血統書付きのペルシャ猫だ。資産家令嬢のペットに相応しい品格があった。この屋敷に住む誰よりも堂々としていた。拓海が喉をさすってやると、サクラは嬉しそうに喉を鳴らしはじめた。

 拓海には懐いていたサクラだったが、執事の沢尻にはまったく懐いていなかった。麗子はそれを面白がって、そのことでよく彼をいじっていた。

「拓海さんは、動物の女の子にも好かれるのね。ちょっと妬いちゃうわ」

 そう言って麗子は、うれしそうに笑って見せる。

 拓海は時間を確認すると言った。

「あと一時間くらいしたら、ここを出ようか」

 今夜は、六本木のフレンチレストランに予約を入れていたのだ。

「そうね。じゃわたし、これ飲んだら仕度してくるわ。あ、それと、今日は沢尻さんが非番の日だから、タクシーの手配もお願いしといて」



       *  *  *



 沢尻は、人知れず麗子の寝室に入り込んでいた。

 彼女と拓海は十五分ほど前に、二人して食事に出かけていった。少なくとも一時間は戻ってこないはずだ。

 沢尻は忍び足で寝室の奥に進むと、大きな衣装箪笥だんすの前に立つ。

 静かに扉を開け放つ。中には麗子の洋服が隙間なく掛けられている。当然、すべてブランド物だ。生地の質感からして安物とは明らかに違う。彼女は、グッチ、セリーヌ、ディオールなどのハイブランドを好んでいた。

 箪笥の底には、ブランド物の靴箱が、三段重ねで四列、きれいに置かれていた。沢尻は迷うことなく、左から二列目の箱を床に下ろしていく。目当てはいちばん下の、ヴィトンのロゴが入った茶色の箱だった。沢尻はその箱を持ってベッドに腰掛ける。

 箱は引き出し式になっていて、狭い側面の中央に布地の取っ手が付いている。沢尻は取っ手をつかんで中を引き出す。中身は承知していた。靴は入っていない。代わりに入っているのは、数種類もの大人の玩具おもちゃだ。電動バイブ、小型の電マ、形状の違うローターがいくつか——。

 沢尻は箱の中から電動バイブを手にとった。透明な樹脂で作られた、男性器を精巧に模したものだ。女性の陰核を刺激するための卑猥な突起も付いている。これが麗子の中をいじめ抜いているところを想像すると、自然と下卑げひた笑みが浮かんでくるのがわかる。だが、目当てのものはこれではなかった。電動バイブを箱に戻すと、彼女のお気に入りのローターを手に取った。

 ピンクのローターに顔を近づけて表面をじっくりと観察する。いつ見ても不思議に思う。何の変哲もない、ただのプラスチックのかたまりだというのに、用途を知っていると実に卑猥なモノに見えてしまう。沢尻は大きく口を開けてそれを含む。目を閉じたまま、口の中でローターを優しく舐め回す。麗子のクリトリスに触れている気分になり、興奮から少しだけ息が荒くなる。口から出して再び観察する。ローターの表面が唾液で覆われ、卑猥な有機物のように見えた。興奮が高まってくる。すでにここに来る前に、盗撮した過去の動画を観て気分を高めてきていた。


 盗撮もそうだが、ここでの行為にも、沢尻は罪悪感を覚えたことはなかった。誰も不利益を被っていないからだ。不倫といっしょで、バレなければ無罪だと信じていた。

 沢尻は、体を後ろに倒してベッドの上に横たわる。超がつくほどの高級ベッドなだけに適度な反発が実に心地いい。背中の緊張が見事に分散されていき、雲の上に横たわっているような感覚を覚える。ローターの先端を舌先で舐め回しながら、左手をスラックスの上に持っていき股間をまさぐる。ローターを口に含むと、想像の中で麗子を犯していく。今日はアナルに強引にぶち込むことにする。想像の中の麗子が悲鳴を上げる。だがしばらくすると、想像の中の麗子は、涙ぐみながらも、「もっと、もっと」とせがんでくる。想像の中の麗子は、涙で濡れた目でそれ以上の破壊を求めてくる。沢尻はその要求に応えるべく、彼女の乳房をむしり取るくらいの勢いで鷲づかみにする。麗子が絶叫して身悶えする。彼女が興奮して潮をまき散らし、けいれんしている姿を想像しながら沢尻は絶頂を迎えた。

 しばらく射精後の余韻に浸った。十五分ほど脱力したあと、体をゆっくりと起こす。放出した精液は、事前に装着済みのコンドームが受け止めてくれている。これは匂い対策にもなる。

 唾液まみれのローターを、持参してきた除菌シートでていねいに拭いていく。唾液の匂いで、麗子を不快にさせたくはなかった。他人のことなど正直どうでもよかったが、愛する雇い主を不快にさせることは信条に反した。

 除菌シートで拭いたあとは、未使用のハンカチを使って表面に残った水分をやさしくぬぐい取る。そして充分にきれいになったことを確認してから、ハンカチでつかんだまま靴箱に戻した。

 靴箱を所定の位置に戻して衣装箪笥の扉を閉じると、ていねいにベッドメイキングをして侵入の痕跡を消していく。

 最後に寝室全体を抜かりなく見渡す。問題はなさそうだ。使用したハンカチも除菌シートもポケットに収まっている。

 沢尻は廊下に人の気配がないことを確認すると、ドアをそっと開けて寝室から去っていった。



       *  *  *



「おいしい」

 鴨肉を口に運んだ麗子が笑顔を見せる。

 拓海は微笑み返して、ワイングラスを口に運ぶ。

 二人して訪れたフレンチレストランは、ほぼ満席だった。ここは麗子のお気に入りの店で、結婚してから何度か訪れていた。

「拓海さん、稽古のほうはどう?」

「順調だよ」

「よかった。次の舞台も期待しているわ」

 拓海はここで、麗子に感謝の言葉を伝える。

「こうやって稽古に没頭できるのは、本当に麗子のおかげだよ。心から感謝しているよ」

 感謝の言葉に、麗子は笑顔を見せて答えた。

「そんなの当然じゃない。わたしはあなたの妻なんですから。夫の成功を願わない妻なんていないでしょ? だから拓海さん、わたしにできることがあったら何でも言ってね」

「ありがとう」

 麗子に頼めば、叶わぬことなどないのではないかと思えてしまう。

 拓海は次の舞台の概要を語って聞かせた。それから映画の話題に移り、会話は弾んだ。麗子が気になる新作映画があるというので、後日二人で観にいく約束をした。

 メインディッシュのあと、彼女の前にはパンナコッタと紅茶がテーブルの上に置かれた。拓海はブラックコーヒーに砂糖を足していく。

「拓海さん」

「ん?」

「わたしやっぱり、精密検査を受けてみようと思うの」

 以前から体調不良を訴えていた麗子に、拓海は精密検査を受けるよう勧めていたのだ。

「そのほうがいいよ。きっと何も問題ないと思うけど、調べておいて損はないからね。病気を見つけるための検査じゃなくて、不安を解消するためのものだと思えばいいよ」

「そうね」

 映画の話題に戻り、二人してヒッチコックについて評論し合った。

 麗子の前にあったパンナコッタがきれいに平らげられた

「ご馳走さまでした」

 満足そうな顔で手を合わせる。その姿は、いつ見ても品があった。食事のときだけでなく、彼女はすべての所作に気品が漂っていた。拓海は彼女のそういう面を見るたびに、育ちの良さにえらく感心してしまう。自分に子どもができたならば、彼女のような品のある大人に育ってほしいと思っていた。

 麗子がハーブティーを飲み終えた。それを見て拓海は言った。

「そろそろ出る?」

「ええ。そうね」


 二人して人通りの少ない裏道を歩いていく。

 周囲は閑静な住宅街だ。低層のデザイナーズマンションが建ち並んでいる。

「なあ麗子。まだ早いから、もう少し飲んでから帰らないか?」

 問いかけに反応がなく、おや、と思う。もう一度声を掛けようとしたところで麗子がふらっとよろけた。

 拓海は慌てて彼女を抱きかかえた。

「麗子、大丈夫かい!?」

「え、ええ……」

 しかし麗子は、なかなか自分の足で立とうとしない。

「麗子、本当に大丈夫かい?」

「ええ、平気よ……。ちょっと、立ちくらみがしただけだから……」

「とりあえず座ろう」

 歩道沿いのレンガ造りの花壇が、腰掛けるのにちょうどよかった。

 二人して腰掛けると、拓海は彼女の肩に手を置く。

「ここで少し休んでいこう」

「ええ、そうね……。でもすぐに良くなると思うから、あまり心配しないで」

 麗子は笑みを見せるが、それは無理して作った笑顔のように見えた。

「少し肌寒くなってきたね」

 拓海はそう言うと、彼女を暖めるために優しく抱き寄せた。そして相手に気づかれぬように、ニヤッと笑みを浮かべた。



       *  *  *



「どうだ、順調か?」

 相手は挨拶抜きで聞いてきた。

 拓海はテーブルから店員が去るのを待ってから答えた。

「ええ、順調ですよ——。彼女、ここ最近、ひんぱんに体調を崩すようになりましたからね。確実に弱ってきてる」

「そりゃいいこった」

 男は満足そうに新しい煙草に火を点けた。

 都心の薄汚れたバーは、今夜も怪しい客たちであふれ返っていた。決して、長居したくなるような場所ではなかった。だから頼んだビールが円卓に置かれると、拓海は早めに退散すべく、近況を手短に語って聞かせた。そして一通り伝え終えると、現金の入った封筒を男に差し出した。それは相手の男が一方的に取り決めた、協力金のようなものだった。

「いつも悪いな」

 封筒を受け取ると、男は悪びれずにそう言った。

「じゃ、ぼくはこれで」

「おい、待てって。ビールもまだ残ってんじゃねえかよ。もう少し、ゆっくりしてけって」

 男は少し酔いの回った目で言ってきた。

 拓海は、ため息交じりに答えた。

「いつも言ってるじゃないですか。あまり遅くなると、彼女に怪しまれる」

「ああ、そうだったな。わかったよ。なら、さっさと愛妻のもとに帰ってやれよ」

 拓海は皮肉を無視して立ち上がる。

 男は含み笑いを見せて言った。

「そんじゃ、来月もよろしくな」

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