カフェバーにて

「ここね」

 古びた雑居ビルの前には三角黒板が置かれており、赤や白のチョークで本日のおすすめメニューが書かれていた。

 麗子は看板を一瞥いちべつしてからビルの中に足を向けた。

 エレベーターに乗り込むなり右手を伸ばし、「7」のボタンを押す。扉がゆっくりと閉まる。上昇を始めたエレベーターはだいぶ狭く、三人も入ればいっぱいになりそうなほどだ。四方に張られたグレーのカーペットっぽい生地はだいぶ薄汚れていて少しカビ臭かった。古いからなのか、上昇するエレベーターは速度が遅く、しかもガタガタと不気味な音を立てている。いつ止まってもおかしくないような感じだ。

 無事、七階に到着して扉が開く。エレベーターを降りると、すぐ左側が店のエントランスになっていた。人感センサーが反応したらしく、ガラス張りの自動ドアがゆっくりと左から右へとスライドしていく。

 中に入ると、手狭な感じの店内は左右に細長く伸びていた。入り口を入って右側がテーブル席とソファ席で、左側がカウンター席になっていた。

 すぐにカウンターの裏に立つ拓海たくみの存在に気づく。

 彼はこちらに気づくと笑顔を見せた。

「やあ、いらっしゃい。麗子さん、来てくれたんだね」

「ええ。約束通り、来ちゃいましたよ」

 麗子はカウンター席に座ると、店内をさっと見渡した。

 さほど広くない店内は、テーブル席とカウンター席を合わせて三十席ほどか。照明がぐっと落とされていて、各テーブル席に置かれた、赤いガラス容器の中の小さなキャンドルが仄かな光を放っている。カウンター席にいるのは麗子だけで、カウンターの奥は厨房になっているようだ。他に客は、二人掛けのテーブル席にOL風の女性客が二人と、奥の四人掛けのソファ席に男性客が三人いるだけだ。男性客らはクリエイターらしき雰囲気をかもし出していて、MacBookを前に、打ち合わせらしきことをしている様子だ。

「素敵なお店ね」

 麗子は視線を拓海に戻してから言った。

「ありがとう。オーナーのセンスがいいんだよね。でも、汚いビルで驚いたでしょ?」

 拓海の言葉に、麗子は苦笑して見せた。

「ええ、ちょっとね。正直エレベーターも、ガタガタ鳴ってて怖かったし」

「だよね。ここで働いてる女の子にも、あのエレベーターが怖いからって、わざわざ階段使ってる子もいるくらいだからね」

「でも、七階くらいだったら、ちょっと息切れするくらいで上がれそうね」

「そうだね。ぼくも点検とかでエレベーターが使えないときは階段を使うんだけど、いい運動になっていいなって思うよ。で、何飲む?」

「何がいいかしら」

「ベイ・ブリーズなんてどう?」

「じゃあ、それをいただくわ」

「了解。あと、今日はさ、少しサービスさせてもらうから、遠慮なく飲んでってよ」

「いえ、そんな悪いわ」

「気にしないで、ほんの気持ちだからさ」

「そう? ならちょっとだけ、甘えちゃおうかしら」

 拓海が手際よくドリンクを作り始める。すぐにオレンジ色のカクテルが目の前に置かれた。

 麗子が黒いストローから一口飲み、おいしい、と賛辞を送ると、拓海の顔がほころんだ。

「ねえ、ここは、どのくらい働いているの?」

 聞くと拓海は、少し考えるような仕草をしてから答えた。

「そうだなぁ……。もともと知り合いだったオーナーから誘われて、軽い気持ちではじめたんだけど、何だかんだ言って、そろそろ四年になるかな。居心地がよくて、長く続いてるって感じだね。あとここは、シフトの融通が利くから助かってるんだよね。前にも言ったと思うけど、芝居もやってるから、公演のときは、まとまった休みが必要になるんだ」

「確かここ以外にも、コールセンターでも働いてるって言ってたわよね」

「そう。昼はコールセンターで週五で働いてるよ。コールセンターも、ここと同じでシフトの融通が利くからね。こことコールセンターと、二つの仕事の掛け持ちさ」

 麗子はドリンクを飲んでから聞く。

「何のコールセンターなの?」

「保険関係だね」

「保険かぁ。何だかむずかしそうね。お仕事、大変?」

「まあ、それなりに大変ではあるけど、時給がいいからね」

「でも、夢のためにがんばってるって、素敵だわ」

 拓海の顔が曇り、彼は自嘲気味に答えた。

「そうでもないよ……。夢っていうか、好きなことやってるだけだからね……。でも、もう三十過ぎてるし、このままこの生活を続けてていいのか、最近は悩んだりしてるんだ」

「年齢は関係ないんじゃない? 何歳になったからあきらめなきゃいけないとかってないと思う」

「ぼくも昔はそう思ってたよ。誰に何と言われようと、自分の好きなように生きていくって決めてた。だけどさすがに、今は若いときのような勢いはなくなってきたね」

 相手の言葉に、麗子は同情的な視線を向けた。

「そうなのね……。でも、掛け持ちでお仕事してて大変ね」

「役者やってる人間は、みんな似たようなもんだよ。貧乏が当たり前っていうかさ。役者一本で食べてける人は、ほんの一握りだけだからね。まあ、それがわかってて飛び込んだ世界だから、誰にも文句は言えないけど」

 拓海は話しながらも、ときおり店内の客に注意を払っていた。他の客からとくに追加のオーダーが入ってくる様子はなかった。

 前回は初対面ということもあって麗子は敬語を使ったが、今夜は店の雰囲気も手伝ってか、自然とくだけた口調で話すことができた。

 麗子は店内を軽く見渡してから言った。

「あまり混んでないから落ち着けるわ。もちろん、お店にとってはマイナスなんだろうけど」

「この時間はいつもこんな感じだね。うちは深夜にかけて混みはじめる感じだから、あと何時間かしたら、もうちょい人が入ってくると思うよ」

 拓海がそう言った矢先に、自動ドアが開く音が聞こえてきた。

 入ってきたのは、若い男女の二人組だ。大学生か、専門学生だろうか。社会人には見えなかった。

 拓海が新規の客をテーブル席に誘導してからカウンター裏に戻ってきた。

「おまたせ。おかわりはどう?」

 麗子は同じものを頼んだ。

 すぐに新しいドリンクが用意された。

「ところで麗子さん、来月の舞台なんだけど」

「ええ。すごく楽しみにしてるわ」

「土曜日でいいんだよね?」

「ええ」

「一枚で大丈夫?」

「ええ、一枚で平気。でも、ごめんなさい。本当は友だちでも誘えればいいんでしょうけど、わたし、あまり友だちいなくて」

「そんなこと気にしないで。麗子さんが来てくれるだけで充分なんだから」

「職場の人とかも来るの?」

「何人かは来てくれると思うけど、でも最近は、あまり声をかけないようにしてるんだ」

「あら何で?」

 聞くと、拓海は詳しく説明してくれた。

 以前は公演のたびに、会社の同僚を誘っていたらしい。とはいえ、チケット代は決して安くはない。四千円から五千円はする。そのため、会社の同僚が来てくれたときは、後日、彼らへの還元をかねて飲み代を負担していたという。舞台で得た、雀の涙ほどの出演料は、そんな飲み会で簡単に消えていく。そんな理由から、最近は、会社の同僚を積極的に誘うことはしなくなったとのことだ。

「ぼくらは、そんな大きなハコでできる劇団じゃないから、出演料なんてたかが知れてるからね。来てくれた人に食事を奢ったらすぐに赤字さ」

 麗子は財布を取り出すと言った。

「チケット代、今渡しておきましょうか?」

「いや。当日で大丈夫だよ。受付でぼくの名前を出してくれれば。だけどごめんね、少し高くて」

「そんなことないわ」

 ここで新規の客からオーダーが入り、拓海がカウンターを離れていった。

 オーダーを取って戻ってきた拓海は、奥の厨房にいる若い男にフードのオーダーを伝え、自身はドリンクを作りはじめた。麗子は黙ってその作業を見守った。

 作ったドリンクを運び終えた拓海がカウンターに戻ってきた。

 拓海は、心底申しわけなさそうな顔をして言った。

「えっと、さっきのチケット代の話なんだけど、ほんとはね、もっと安くしたいってのが本音なんだ。けど、相場がだいたいそのくらいなんだよね。無名の劇団の舞台で四千円は高いと思うだろうけど、劇場のレンタル代に小道具代、あと裏方さんへのギャラとかで、けっこう経費がかかるんだよね。四千円でも会場がそこそこ埋まらなければ赤字になるくらいなんだ。まあこんな話、麗子さんにしてもしょうがないんだけど……」

「そんなことないわ。でも、いろいろ大変なのね」

 ここで拓海が思い出したように言った。

「あ、そうだ。舞台のパンフがあったんだ。ちょっと待ってて」

 拓海は一度カウンターから出ると、パンフレットを持って戻ってきた。

 麗子は、受け取ったパンフレットに目を通す。



『死刑囚の父と話す』

演出:近藤祐希

脚本:田中洋平

出演:桜井拓海/北田史彦/佐々木風磨/百田恋/小池みのり/斎藤涼子/宮田紀文



「へえ。何だか面白そうなタイトルね。重い話なの」

「重いというかサスペンス系だね。社会派っぽいタイトルだけど、ぼくらの舞台はエンタメ性を重視していて、小劇場にありがちな、退屈するような小難しい話は避けるようにしてるんだ。小説で例えるなら、純文学じゃなくてエンタメ小説を目指してる感じ。純文学って、退屈するイメージあるでしょ?」

「わかるかも」

「だからぼくらは、小さな舞台は退屈だっていう概念を打ち壊していきたいんだ。観に来てくれた人が、最初から最後まで飽きることなく楽しめる、そんな作品を目指してるんだ」

「今の話聞いて、すごく楽しみになってきちゃった。拓海さん、プレゼンが上手ね」

 そう褒めると、拓海は照れたように頭をかいた。

「今の、プレゼンのつもりじゃなかったんだけどなぁ……。まあ、とりあえず来月は、期待に応えられるようにがんばるよ——。おかわりは、何にする?」

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