第1章
出会い
周囲にはモダンな建物が並ぶ裏道は、小雨が降っているせいか、人通りは少なかった。
雨の日は、自然と葬儀の日を思い出してしまう。いまだ、父親を失った傷は癒えていない。最愛の人が他界したのだ。心の傷は、しばらく塞がりそうになかった。
傘を差しながら歩いていると、小さなギャラリーに差しかかった。閑静な住宅街によくマッチした、コンクリート打ち放しの三階建ての建物だ。一階のギャラリーは大きなガラス張りになっていて、外から中の様子をうかがうことができた。見ると、中にはモノクロの写真がいくつも飾られている。客もいくらか入っていて、入りやすい雰囲気があった。
昔から写真は好きだった。麗子はふらっと入り口に足を向けた。
入り口横の傘立てに傘を入れて中に入ると、受付で若い女性からフライヤーを渡された。
麗子は写真家のプロフィールにさっと目を通す。プロフィールに記載された生まれ年から、写真家の男は四十八歳だということがわかった。割と実績があるようで、数々のフォトコンテストでの受賞歴があるらしい。視線をギャラリー内に移すと、写真家の男が数人の女性客らと話している姿が目に入った。フライヤーに掲載されている写真よりも、いくらか老けて見えた。訪れている客は十人ほどか。三十代から四十代の着飾った女性がほとんどだった。
シャンパンのサービスがあり、麗子はシャンパングラスを一つ受け取った。シャンパンを口にしながら展示された写真をゆっくりと観て回る。
ギャラリー内には、三十点ほどのモノクロ写真が、外壁と同じコンクリート打ち放しの壁に展示されていた。風景写真と
ある作品の前で足が止まった。八十センチ四方ほどのサイズのもので、乳幼児の顔をアップで写したものだ。幼子の、溢れんばかりの笑顔が、写真全体に充ちあふれているような作品だった。
しばし、その写真に魅せられた。
「写真、お好きなんですか?」
いきなり声をかけられて驚く。顔を右に向けると、すぐ隣に、見知らぬ男の姿があった。写真に魅入っていたため、声をかけられるまで男の存在に気づかなかった。
同世代くらいだろうか。もしくは少し年上か。端正な顔立ちの、涼しい目をした男だった。男性にしては長めの髪と薄い無精髭がとてもよく似合っている。背が高く、自然と見上げる形になってしまう。一八〇センチ近くはありそうだ。ゆったりとした白シャツに、同じくゆったりとしたベージュのスラックスを合わせていて、絶妙なサイズ感はファッション感度が高いことをうかがわせる。際立つ清潔感と相まって、見た目からして感じのいい人物だった。そのため、麗子はすぐに警戒を解いた。
「ごめんなさい。わたし、ちょっと大げさに驚いちゃって」
「いや、いきなり声をかけた、ぼくのほうが悪かったよ」
男は謝罪するが、耳に心地のいい声の持ち主だった。
その声がさらに続く。
「その写真、ずいぶん真剣な表情で見てたよね」
「ええ、そうなんです。この赤ちゃんの笑顔、素敵だなぁって思って」
麗子が感想を述べると、男は乳幼児のポートレートに視線を移した。
しばし鑑賞したのち、男は言った。
「素敵な作品だね——。被写体の生命力をうまく写し出してるっていうか、写真の赤ちゃんに勇気づけられるというか、とにかくそんな印象を受けるね」
男の言葉に、麗子は思わず共感の声を上げていた。
「ええ、そうなんです。わたしも同じように感じました。赤ちゃんの元気がこっちに伝わってくるような、写真なのに、赤ちゃんの体温が伝わってくるってくるような」
男が涼しげな笑顔を見せながらうなずく。
麗子は続けた。
「とても不思議なんですけど、写真って、撮る人の技量しだいで、被写体の魅力を大きく引き出すことができるんですよね。わたし、最近そういうの、わかってきたような気がして」
どうやら今の説明に、共感するものがあったようだ。
隣に立つ男は、感激した表情を浮かべている。
「ぼくも同感だね——。ああ、何かうれしいな。そういう深い話ができる人に出会えて。だって、ほとんどの人が、写真の上辺だけしか見ようとしないからね。構図がいいとか悪いとか、あと被写体の良し悪しだけで判断する。もちろん、そういう見方が決して悪いわけじゃないけど、見えないところを見ようとするのが、写真の醍醐味だと思うんだ。写真家の意図をうまく汲み取ることができれば、作品が持つ本来の姿が自然と浮かび上がってくるんだよね」
「わかります。写真家の意図もそうですし、被写体の背景が自然と目に浮かぶような作品は素敵ですよね。わたし、万人受けを狙った作品だと、とくに何も感じないんですけど、この赤ちゃんの写真のように、こちらの想像力が喚起されたり、被写体の熱とか、写真家の熱が感じられる作品に出会うと、とても興奮するんですよね」
ここで別の客に場所を譲るため、麗子は男とともにギャラリーの中央付近に場所を移した。
しばらく二人して写真談義を交わしたあと、男が少し照れたような顔で聞いてきた。
「あの、このあとって、予定とか入ってる?」
「いえ、とくには」
「その、ぼく、普段こういうナンパみたいな真似はしないんだけど、さっきはあの写真を一心に見つめている君の姿を見てたら、どうしても声をかけたくなっちゃって……。あの、もしよかったら、近くでお茶でもどうかな? 迷惑じゃなければだけど……」
控え目な誘い方に好感が持てた。もちろん、初対面なだけに多少の抵抗はあったが、趣味も合いそうで、会話も弾んでいる。それに何より、目の前の男は異性としてとても魅力的だった。断る理由は見つからなかった。
「ええ、そうですね。少しなら大丈夫ですよ」
* * *
二人して近くのカフェに入った。
とてもお洒落な店だった。店員も清潔感があり、場所柄か、集まっている客もセンスのいい者が多かった。
お互いホットコーヒーを注文した。
店員が席を離れるなり、男は言った。
「自己紹介がまだだったよね。ぼくはサクライタクミです」
「サクライさんですね。わたしは新庄麗子っていいます」
相手がフルネームで名乗ってきたので自分もそうした。
「麗子さんか。よろしくね」
「いえ。こちらこそ」
いきなり下の名前で呼ばれたが、悪い気はしなかった。
「じゃあ、わたしも、タクミさんって呼んでもいいかしら」
「ええ、どうぞ」
軽く会話を交わしていたところで、注文したコーヒーがテーブルの上に置かれた。
麗子はブラックのまま口をつけたが、タクミは砂糖を多めに入れている。少し甘党のようだ。
「タクミさんは、出身はどちらなんですか?」
「ぼくは九州なんだ。九州の福岡。こっちの大学に入るために上京してきたんだけど、麗子さんは?」
「わたしは、地元も東京なんですよ」
「東京のどこ?」
「世田谷ですね」
「へえ。じゃあ、いいとこのお嬢さんだね」
「いえいえ、そんなことないですよ。世田谷といっても庶民が住んでる地域ですから」
「世田谷にも庶民が住んでるんだ?」
「そりゃそうですよ。世田谷に住んでる人が、全員お金持ちってわけないじゃないですから」
「はは。確かにそうだね」
会話は弾んだ。途中でドリンクのおかわりをした。他愛のない会話が続いたが、互いに映画好きということがわかると、会話の熱量が一気に上がった。話しているうちに、好きな映画のジャンルも近いことがわかった。
「わたし、父の影響で、昔からヒッチコックが好きなんです」
「ヒッチコックはいいよね。映画の中の映画って感じがして、作品に風格さえあるよね」
「ええ、ほんとその通りで。あとわたし、モノクロの映画も好きで……。何か雰囲気がたまらないんですよね」
「それ、ぼくもわかるなぁ。今の映画にはない味わいがあるよね」
「そうなんです。それにモノクロの写真も好きで、だから今日みたいな写真展があると、つい足を運んでしまうんですよ」
「モノクロには特別な魅力があるからね。カラーでは表現できない何かがあるんだよなぁ。ヒッチコックの他に、好きな監督はいる?」
「キューブリックも好きですね」
その名を出すと、相手は目を輝かせた。
「実はさ、最近キューブリックの作品をおさらいしてたところなんだ。だから今、キューブリックの名前が出て驚いたよ」
「ずいぶんタイムリーでしたね。ちなみに、どの作品が好きですか?」
「そうだなぁ……。キューブリックとなると、名作揃いだから、一つに絞るのはむずかしいかもしれない。ヒッチコックほど古くはないけど、キューブリックの作品は、今は古典的な扱いをされてるからね。例えば、『2001年宇宙の旅』なんかは、映像作家を目指す人の教科書的な作品になってるしね」
「ええ」
「あと、彼の作品はやっぱり、色使いが特徴的だよね。『時計仕掛けのオレンジ』では白がメインで、『シャイニング』だと——」
「赤、ですね」
麗子は相手の先手を打って言う。
「そう、赤だね。あの血がドバーッてやつね。あのシーンは強烈だったなぁ」
「血の洪水ですよね。確かにあれは印象的なシーンでしたよね。でもタクミさん、本当に映画がお好きなんですね」
こちらの発言に、相手は少し照れたように頭をかいた。
「実はぼく、役者をやってるんだ。それで映画は、演技の勉強になればと思って積極的に観るようにしてるんだ。まあ役者をやる前から、映画は好きでよく観てたけどね」
「役者ですか。素敵ですね」
「いやいや。役者っていっても、残念ながら売れない役者だからね。親からも半ば勘当されてるくらいだし。いい年して、いつまでも夢を追いかけてるんじゃないってね」
自分を
「売れてる売れてないは関係ないですよ。要は、やりたいことをやれてるかどうかだと思いますから。わたしなんて、とくにやりたいことも見つけられずに、しがないOLを、ずっと続けてるわけですから」
「そう言ってもらえるのはうれしいけど、でもやっぱりね、売れる売れないは重要だと思うよ。確かにぼくも、昔は売れなくても関係ないって思ってた時期もあったよ。でもね、この年になると、現実が見えてくるっていうか、やっぱりそれなりの実績がないと評価されない世界だし、それに売れてこそ、俳優業に専念できるわけだからね」
「そうかもしれないですけど、でもわたしは、役者をやってるタクミさんは素敵だなって思います」
「ありがとう……。何か面と向かってそう言われると、少し照れるな……」
タクミがはにかんだ笑みを浮かべて頭をかく。
「わたし、応援しますから」
その一言に、相手の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう——。あの、もしよかったら、来月公演する舞台、観にきてくれないかな。あ、でも、興味ないか……」
「そんなことないです。わたし、絶対に観にいきますから。なので連絡先、教えてもらえますか?」
連絡先を交換した。サクライタクミは、〝桜井拓海〟だということがわかった。
気づくと、店の外はだいぶ暗くなっていた。
麗子は時間を確認した。
「あら、もうこんな時間。わたし、少しならって言ってたのに……」
かれこれ二時間近くは話してるというのに、正直まだまだ話し足りない気がした。
「楽しい時間はあっという間だね」
「ええ、ほんとそうですね。わたし、こんなに楽しい時間を過ごしたの久しぶりかも」
「ぼくもだよ。好きな映画の話ができてうれしかったよ」
拓海はここで名刺を差し出してきた。
「夜はぼく、渋谷のカフェバーで働いてるんだ。よかったら今度、働いてるお店にも遊びにきてよ」
「ええ、ぜひ。また映画の話でもしましょう」
* * *
「お嬢様。何だか、嬉しそうな顔をされてますね」
運転席から声が掛かった。
麗子はリムジンの後部座席から答える。
「わかる?」
「ええ。ご主人様がお亡くなりになってからずっと、沈んだ顔をされてましたから」
話しながらも沢尻は、巧みなハンドルさばきで前を走る乗用車を追い越していく。スピードは出ているが走りは安定している。だからいつも安心して乗っていられた。
「新しい出会いがあったの。その人とはまた、近いうちに会うと思うわ」
「そうですか」
リムジンがまた、ぐんと加速して、前の車を追い越していく。
「この新しい出会いが、わたしに何をもたらすのか……」
麗子は独り言のようにつぶやく。
前方を見ながら沢尻が聞いてきた。
「お嬢様、また例のあれ、やるつもりですか?」
「そうね。またやると思う。そのときはまた協力してね」
「かしこまりました」
リムジンが青信号の交差点を通過していき、比較的空いている幹線道路を疾走していく。
「それと沢尻さん」
「何でしょう?」
「これからもずっと、わたしの味方でいてちょうだいね」
「ええ。わたしはいつだって、お嬢様の味方ですから」
「これからも、頼りにしてるわ」
麗子はそう言うと、街灯がきらめく夜の街並みに視線を移した。
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