第48話 金色の意思
薄明かりの差し込む崩れかけた音楽室の片隅で、由布子はその金色の鎌を見つめている。
長い間思い出さなかったことのほうがどうかしているのだと思う。
赤と黄金に彩られた景色の中で、やさしく微笑む秋塚千里の笑顔は、今でも鮮明に思い出すことができた。彼女が教えてくれたからこそ由布子は友だちを大切にし、両親を大切にし、人を愛することができるようになったのだ。
命はひとつしかない。それは不死身に近い鋼鉄姉妹にしても同じことだ。本当に死んでしまえば、二度と生き返ることはできない。
そしていま、この世界のすべての人間の命が――数え切れないほどの貴重な命が、彼女の判断ひとつで消滅してしまいかねないのだ。
ならば迷う方がどうかしている。選ぶべき道はひとつのはずだ。
しかし――由布子自身もまたその貴重な命の持ち主であることに変わりはない。
もし自分が世界のために死を選んだら、残された者たちはどう感じるのだろう。
父は、母は、友人たちは? ――何よりも、葉月昴は?
あの日の昴の空虚な顔を思い出す。大切な人を失い、この世すべてに絶望し、生きることさえ放棄していた彼の姿を。
自らの命を懸けてまで守ろうとした由布子の命が消えれば、昴の心は再びあのときに戻ってしまうかもしれない。
彼に二度とあんな顔をさせてはいけない。愛する人を絶望させてはならない。
決意とともに立ちあがると、由布子はその眼差しを真っ直ぐに神獣に向けた。
すでに手も足も震えていない。恐怖が消えたわけではなかったが、それを凌駕する勇気が心の中に湧き上がっていた。
由布子は神獣の緑の目を見据え、両手で金色の鎌を構える。彼女の戦意に呼応して、折りたたまれていた刃が長刀状に展開した。
「わたしは昴が好き」
神獣に向かって宣言する。
「お父さんも、お母さんも好き――鋼さんも、鉄奈ちゃんも、柳崎くんも、月見里くんだって……みんなみんな大好き!」
心に浮かぶ彼らの姿が、由布子をさらに勇気づけていく。
「そんなみんなが生きるこの世界が、たまらなく大好き!」
世界がなければ誰も生きてはいけない。
「そして、大好きな人に大切に思われてる自分のことだって大好きなの!」
人を愛し、人に愛される喜びを知っているからこそ、自分の命を簡単に投げ捨てることなどできない。そんな身勝手なことはできようはずもない。
「だからわたしはどちらも選ばない! 絶対に死なないし、誰も死なせない!」
運命に挑むかのように、あらん限りの声を絞り出していた。
いつしか手にした武器から純白の輝きが溢れ出し、彼女を中心に風を巻き起こしている。その風を受けて青いマントが翻り、肩口まで伸ばした艶やかな髪が軽やかに踊る。その姿は、まさしく天使のように美しかった。
「だからお願い! 帰って! あなたのいるべき世界へ! この世界はまだあなたのことを必要とはしていない!」
凛とした表情で叫ぶと、その刃をかざし、微動だにしない神獣めがけて駆け出す。
想いと力のすべてを込めて、神獣の額に金色の長刀を突き入れようとした。
だが、その切っ先が触れる寸前、神獣の前に障壁のようなものが展開し、その刃を阻んでしまう。
「うぅぅぅぅぅっ!」
障壁と刃が拮抗し、由布子がうめき声をあげる。
「負けられない……負けるもんかっ!」
押し返されそうになりながらも、素足で床を踏みしめ、必死で抵抗する。
その彼女の体をふいに温かい腕が包み込んだ。
「――!?」
驚いて振り向くと、昴が笑みを浮かべて立っている。
「悪い……ちょっと寝坊したみたいだ」
昴はこんなときでも冗談めかしたことを言って、彼女の心を和ませてくれる。
「バカ……」
嬉しそうにつぶやく由布子の目からは、大粒の涙が流れ出していた。彼女にとって、こんなにも愛しくて頼りになるバカは、この世にふたりとはいない。
昴は口元に不敵な笑みを浮かべると、由布子の手に自らの手を、そっと添えるようにして長刀を握る。その瞬間、黄金の武器から溢れ出る光はいっそう輝きを増した。
「いくぜ!」
「うんっ」
その頼もしい声に、由布子は大きく頷いた。もう怖いものなどありはしない。この瞬間は不可能なことなどないと信じることができた。
「うおぉぉぉぉぉっ!」
「やぁぁぁぁぁぁっ!」
それぞれに気迫のこもった雄叫びをあげながら金色の武器に力を込めると、障壁がたわみ、次の瞬間には刃がそこを突き抜けていく。ふたりが、さらに力を込めると、そのまま頑強な装甲を貫き、黄金の刃は神獣の額を見事に貫いていた。
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