第47話 たったひとつ
あれはいつのことだったのだろう。
季節は秋だ。
きれいな夕陽が空一面に広がり、山の紅葉と相まって、世界を赤と黄金で満たしていた。
当時の由布子は友だちらしい友だちもなく、いつもひとりで遊んで、両親を心配させていた。そのため周囲からは引っ込み思案な子供だと誤解されがちだったのだが、実際には、ただの変わり者だった。
由布子には他のみんなが友だちを欲しがる理由がわからなかった。友だちなんかいなくても楽しいことはいっぱいあったし、なによりひとりのほうが自由で気楽だった。
『本当は仲間に入りたいくせに』などと同年代の子供に言われたこともあったが、当の由布子にとっては『何言ってんのこいつ?』といった感じで、それは本当に余計なお世話でしかなく、鬱陶しいだけだった。
世間一般の印象とは正反対に、明るく活発で、走り回ることが大好きだった由布子は、人形遊びやおままごとといった、およそ女の子らしい遊びにはまるで興味がなく、いつも男の子が好むような遊びばかりしていた。
ちょうどその日も、当時子供たちの間で流行っていたオモチャの鉄砲で、西部劇のガンマンよろしく、空き缶を狙い撃ちにして楽しんでいた。
そのときだ。不意にシャンという涼やかな音が背後から聞こえたのは。それはとてもきれいな音に聞こえて、瞳を輝かせながら目を向けると、そこに紺のマントに身を包んだ小柄な少女が立っていた。
彼女が高校生なのか中学生なのか、子供の由布子には判別できなかったが、驚くほど端整な顔立ちをしていたことだけは、はっきりと思い出せる。
少女は折りたたまれた金色の鎌を背負い、両手で小さな男の子を抱え込んでいた。
不思議と怖さは感じなかった。
少女はその琥珀色の瞳で無表情に由布子を見つめると、小さな声で尋ねてきた。
「ここ――高月さんの家だよね?」
「うんっ」
由布子は元気に答えた。
「そう……」
少女はつぶやいて高月邸を見上げる。どこか逡巡しているようにも見えた。
しかし、子供の頃の由布子には、そのとき少女がなにを考えていたのか察する力はなく、彼女が訃報を告げるために、ここに来たのだと気づいたのは、ずっとあとになってからだ。
「お姉ちゃん誰?」
にこにこしながら問いかける。
「
少女は由布子とは対照的な無機質さで簡潔に答え、そのまま、また黙り込んでしまう。
しばらくぼーっと見つめていても、千里はそれ以上動こうとはしない。
なんとなくテレビで見たアイルランド近衛兵を連想させる。
黙っていることに飽きた由布子は、とりあえず自分の気になったことを訊いてみることにした。
「その男の子、どうしたの?」
千里の腕の中の少年は意識を失っているように見えた。よく見ると知っている顔だったが、それほど親しいわけでもなく、名前もうろ覚えだ。
「ひどい経験をした」
千里はポツリと答えた。
「ひどい経験?」
「そう……とても怖くて、つらい目に遭った」
「お化けにやられたの?」
実を言うと由布子はお化けが怖い。だから咄嗟にそれを訊いていた。
千里はわずかに目を丸くして彼女に言った。
「あたってる」
ぼそっと答えた千里の言葉に、由布子は思わずよろめいた。
「大丈夫。もう退治した。でも――お化けが、この子の一番大切なものを奪い去ってしまった」
「……大切なもの?」
「そう、大切な人を……失くしてしまった……」
千里はやや目を伏せ気味にして言った。
もちろんその言葉の意味がわからないほど由布子とて幼かったわけではない。
「その人……死んじゃったの?」
「……うん。死んでしまった」
「…………」
「死んでしまった人とはもう会えない」
千里の言葉は淡々としていたが、その言葉は由布子にとって衝撃的だった。
実に当たり前のことだったのだが、死んだ人間とは会うことも話すこともできない――できるわけがない。
両親も、学校の先生も、お節介なクラスメイトも、意地悪な男の子たちも――そのみんながたったひとつの命しか持たずに、この世界に存在しているのだ。
そう思うと、これまで軽んじていたすべての人間が、物凄く貴重で大切な存在であるかのように感じられてきた。
「この子は絶望している」
千里の声で由布子は我に返った。
「絶望?」
「そう……生きる気力がない」
「……死んじゃうの?」
「死んでしまうかもしれない」
千里がそう言った瞬間、由布子は反射的に叫んでいた。
「ダメ!!」
思いのほか激しい反応に、千里は軽い驚きの目を由布子に向けた。
「絶対にダメ! 死んじゃうのはダメ!」
死んでしまったら会えなくなる。この男の子とも会えなくなる。
それまでは別になんとも思っていなかった男の子だが、それでもこの男の子はこの世にたったひとりしか存在せず、たったひとつの命しか持っていない。
生きてさえいれば会うことができる。会いさえすれば、話をすることも遊ぶこともできる。仲良くだってなれるかもしれない。その貴重な可能性が潰えることなど由布子には我慢ならなかった。
だから由布子は決意した。
「わたしが助ける!」
千里に向かってそう叫んだ。
「わたしが絶対にその子を助ける!」
それは幼い――現実を知らない子供ゆえの言葉だったが、そこには多くの大人が忘れてしまっている真摯な思いが存在していた。
それを察したからだろう。そのとき、千里は初めてはっきりと笑みを浮かべると、その琥珀色の瞳にやさしい光を湛えて由布子を見つめ――力強く頷いた。
「うん。助けてあげて」
その笑顔は幼い由布子にとって、とても印象的だった。
千里はしばらくの間、その笑みを彼女に向けたまま佇んでいたが、やがて意を決したように顔を上げると、自らの役目を果たすべく高月家の門を叩いたのだった。
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