第26話 天使

 一瞬、状況が理解できなかった。なぜここで、こんなところに彼女が出てくるのか?

 だがそれ以上に問題だったのは、未来がその腕に由布子を抱き寄せるようにして抱え込んでいたことだ。

 由布子は意識がないのか、見るからにぐったりとしている。


「な、なんで……!?」

「こんばんは、葉月くん」


 未来はニヤリと笑った。それはこれまで何度も見てきた控えめな笑みとはまるで違う、邪な笑みだった。


「どういう……ことだ」


 震える声で問いかける。未来はそれを嘲笑うかのような調子で答えを返してきた。


「意外に察しが悪いのね。それとも信用してくれてたのかしら?」


 未来はふふっと笑ってつづける。


「あなたのことは結構気に入っていたから、もう少し女子高生ごっこをするのも悪くはなかったんだけど……あそこには敵がいたからね」

「敵――? 鋼鉄姉妹――いや、西御寺か!」


 昴は直感的に悟っていた。未来の言葉には敵対する者同士といったニュアンスが感じ取れたが、鋼鉄姉妹には学校に現れた怪物や未来に対する知識はない。それに対して西御寺は少なくともあの怪物に関しては知っているようだった。


「そうよ、西御寺篤也――笑っちゃうわよね」

「何がだ?」

「だって彼って超常現象を専門に扱うエージェントなのよ。漫画みたいでしょ」

「エージェント?」

「ええ。それも結構エリートなの」


 未来は軽く頷いてまた笑った。どこか狂気染みた笑みだ。

 昴は言葉を交わしながらも未来の隙を窺う。彼女は片腕で由布子の体を支えながら、反対の手には例のスケッチブックを携えている。

 刃物などの武器を持っているようには見えないが、もはやただの人間とは思えず、迂闊に近づくのは危険に思える。


「彼らはね。超常の力を悪用する存在を抹殺することを使命としているの。もしかしたらその鋼鉄――姉妹だったかしら? その娘たちも狙われることになるかもしれないわ」


 どこかそれを期待しているような口ぶりだが、昴はなにか違和感を覚えた。それがなんなのかは、まだ形にならない。


「けど、なんなの、あの娘たちって? あの力はわたし達とはまるで別種で、どうにも分析できないんだけど……。まあ、どうでもいいわね。たったふたりなら、わたしの敵じゃないわ」


 未来は鋼鉄姉妹を過小評価しているのか、それとも本当に彼女たちを凌駕する力を持っているのか――おそらくは、その前者であるはずだが、その姉妹は現在傍らにはおらず、助けを呼べる状況でもない。


「……由布子をどうする気だ?」

「この娘はあなたのなにかしら?」


 未来は昴を睨め上げるように聞き返してくる。


「大切な家族だ」

「それだけかしら? でも、残念だけど、たとえこの娘があなたのでも返すわけにはいかないわ。わたしはずっと、この娘を捜していたんだから」


 未来は愛おしげにも見える眼差しを向けて、由布子の頬をそっと撫でる。


「そのために制服泥棒までしたんだけど……まさかあんな形で邪魔が入るとはね。もっとも、運命は結局わたしに味方したようだけど」


 昴の中で、いくつかの事柄が繋がっていく。あの怪物が彼の姿を模していたのは単なる偶然ではない。彼があの日、学校には居ないはずの人間だったからだ。少なくとも未来はそう思っていたはずだ。彼女は昴が学校をサボって家に帰るところを目撃していたのだから。

 ゆえに未来は怪物を〝葉月昴〟に擬態させて校内へと送り込み、自分は裏の林に隠れて怪物が戻るのを待っていたのだ。そう考えれば怪物がそこを目指していたことの説明も付く。あれは逃げるためではなく、集めた制服を彼女に手渡すためだったのだ。

 そして残されたもうひとつの疑問に答えるかのように、未来はさらに言葉を紡ぐ。


「衣類っていうのは結構バカにならないものなの。その人間の持つ霊子片――早い話が魂の出す汗や涙のようなものなんだけど――それがこびりつくのよ。それを頼りにわたしはずっと捜していたの――天使をね」


 その言葉を口にしたとき、未来の表情はどこか恍惚としたものに変化していた。


「天使……?」


 予想外の言葉だ。神や天使にまつわる話など、姉の話の中にも、鋼鉄姉妹の話の中にも一度も出てきた覚えはない。唯一〝神獣〟という言葉はあったが、話を聞く限り、それは神というよりは巨大な怪物だった。


「天使とはね、神に選ばれし存在なの。それを利用すれば、この世のすべてを焼き尽くすことができる。この娘のおかげで、世界は滅び去るのよ!」


 もはや完全にいかれているとしか思えない喜悦に歪む笑顔で、未来はとんでもないことを口走った。


「世界が――滅びる!?」


 つい先日までなら、そんな言葉はただの妄言だと切って捨てられただろう。だが、実際にいくつかの超常現象にふれ、異世界の話を知ったいまでは、とうてい笑える話ではない。

 もちろんそれは狂った女の戯言なのかもしれないが、未来自身は完全に本気のようだった。しかも未来の瞳には、その言葉を実現させてしまいそうな迫力さえあったのだ。


「未来!」


 もう隙を待ってはいられない。昴は叫ぶと同時にフローリングの床を蹴って、彼女に飛びかかろうとした。

 だが、次の瞬間、未来の持つスケッチブックがひとりでにめくれあがり、そこに描かれた怪物の姿が露わになる。

 その絵が一瞬まばゆい光を放つと、まるで二次元世界を抜け出るかのように実体化した。そして瞬く間に人間並みの大きさになって猛然と襲いかかってくる。


「くそっ!」


 怪物の鎌状の腕が振り下ろされ、昴は考えていたのとは逆に、後ろへ跳ばざるを得なくなる。


「やっと名前で呼んでくれたわね。葉月くん」


 未来はふいにいつもの口調で言った。昴は先ほど感じた違和感の正体に、ようやく気づく。しかし、今はそれについて深く考えている余裕はない。彼女が言葉を紡ぐ間にも、怪物は容赦なく斬りかかってきているのだ。

 未来はそれをどこか遠い世界での出来事のように見つめながら静かに告げてきた。


「学校で待ってるわ」

「待て、未来!」


 手を伸ばそうにも、そんな余裕はなく、どこか儚げにも聞こえる声を残して未来の姿は由布子の体を抱えたまま、吸い込まれるように虚空へと消えてしまう。鋼鉄姉妹のそれとは異質なテレポートのようだった。


「くそっ!」


 昴は吐き捨てるとともに気持ちを切り替え、目の前の怪物に集中した。

 鎌状の両手を持つそいつは、学校で彼に擬態していた怪物の真の姿のようにも見えるが、若干形状は異なっている。もとが絵であるならば、その差異が現れているのかもしれない。

 関節の構造を無視するかのように縦横無尽に振り回されるその凶刃は、並の人間が対応できるスピードではない。一瞬でも気を抜けば四肢のどこかを簡単に斬り飛ばされてしまうだろう。

 しかし、冷静に見極めれば怪物の攻撃はデタラメで、武術家のような洗練された動きはない。

 昴はその刃の軌跡を見切ると、片方の腕をつかんで引きずり倒そうとした。

 だが、怪物はやはり人間ではあり得ない動きで、もう一刀を振り下ろしてくる。それをつかみ取っていた怪物の腕で強引に受け止めると、がら空きになった腹部に渾身の蹴りを叩き込んだ。

 怪物は勢いよく床の上を転がると、廊下を傷だらけにしながら動きを止める。家主の嘆きを思うと心苦しいが、それに構ってはいられない。

 昴は倒れた怪物を一気に飛び越えると、そのまま振り向くことなく玄関に出て、脱ぎ散らかしてあった靴に足を突っ込みながら家の外へと飛び出した。

 直後、背後に殺気を感じる。蹴り倒して間もない怪物が、早くも追いついてきていたのだろう。


「しつこいっ!」


 振り向くことすらなく瞬時にしゃがみ込んで二刀の挟み撃ちをかわすと、そのままの体勢で後ろ回し蹴りを放ち、怪物の足を刈る。狙いどおりに転倒する怪物だが、嫌になるほど頑丈で、その程度ではダメージにもならない。


「やるしかないか」


 しかたなく、徹底的に叩き潰そうと昴が身構えた瞬間、夜の闇を引き裂くように槍状の青い光が飛来した。

 それは吸い込まれるように怪物の体へと突き刺さり、その全身を瞬時に粉砕する。


「これは――!?」

「お怪我はありませんか?」


 声の方へと視線を向けると、人気のない通りの真ん中に小さな人影があった――美剣鋼だ。

 彼女は穏やかな笑みを湛えてゆっくりと歩いてくる。未だ家に帰っていなかったのか、見慣れたブレザーを着たままだった。


(あれが鋼の超能力か――)


 青い光がどんなエネルギーなのかは不明だが、やはり彼女たちにとって、この程度の怪物を倒すことなど造作もないようだ。


「実は柳崎さんから学校で異変が起きていると、連絡があったのですが……」

「学校!?」


 昴は思わず声を上げていた。このタイミングで異変となれば考えるまでもない。


「――小夜楢未来の仕業だ」

「未来さん?」


 首を傾げる鋼。未来のことは前日の放課後に簡単に話しておいたのだが、彼女と事件の関連がピンと来なかったのだろう。


「彼女に由布子がさらわれたんだ」

「えっ?」

「未来は超常の力を持っている。俺ひとりじゃ勝ち目はない。頼む、力を貸してくれ」


 硬い外皮に覆われた怪物は素手で倒すのが困難な相手だ。しかも陽動に引っかかった鉄奈の言葉から明らかであるように、その数は一体や二体ではない。超能力を持つ鋼鉄姉妹の助けがどうしても必要だった。

 鋼はしばらくの間黙り込んでいたが、それは逡巡したのではなく、状況を頭の中で整理していたようだ。やがて考えをまとめたのか、いつもの笑みを浮かべて、はっきりと頷き返してくる。


「水くさいですよ。わたしたちは仲間じゃないですか。助け合うのが当然です」


 鋼の言葉に昴は胸が熱くなるのを感じた。かつて姉を失ったとき、彼は怪物に負けないようにと、自らを鍛えることばかり考えていたが、大切なことをひとつ忘れていたようだ。

 同じ目的を持ち、ともに支え合える存在。当然のことを当然だと言ってくれる仲間の存在がどれほどありがたいか――それに初めて気がついていた。

 そして、このとき昴はようやく気がついていた。美剣鋼はどこか自分の姉に似ているのだと。

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