第24話 冷えたカレーライス
土曜日の放課後。昴は姉の墓前に立っていた。
ちょうど学校の真南に位置する山中に造られた、広い霊園の一角に彼女は眠っている。
そこは緑の木々に囲まれた静かな場所で、段々になった白い石垣に沿うように、いくつもの墓石が立ち並んでいた。周囲の森には様々な種類の野鳥が住み着いており、ときおりそのさえずり声が響いてきている。
あの忌まわしい事件が起きたのは、ここからそう遠くない森の中だ。
それでも彼女の遺族がここに墓を建てたのは、彼女がこの山から見る景色を――この町を、こよなく愛していたからだろう。
昴もそれで正解だと思っている。彼女ならそれを望む気がした。自惚れかもしれないが、彼女の言いたいことは、すべてわかる気がするのだ。
「――自惚れだな」
つぶやいたのは昴自身だった。彼は少しだけ自嘲気味に笑うと、そっと墓前に花を供え、目を閉じて手を合わせた。
彼女はもうどこにもいない。
たとえ彼の胸の中で生き続けているとしても、それは姉の残り香のようなものに過ぎない。想い出だけで埋め合わせが利くほど、人の命は軽くないのだ。
瞼を閉じると、今朝見た夢の光景が甦ってくる。起きたときには涙でぐっしょりと顔が濡れていた。あの日の夢を見た朝は、いつだってそうだ。だが、それを恥だと思ったことはない。
昴はしばしの黙祷を終えると、まるでそこに姉が立っているかのように語りかけた。
「悲しいときは泣くのがあたり前だもんな……あの日の俺は最低だった。本当にバカで、恩知らずで、恥知らずなガキだったよ。姉さんが拾ってくれた命をドブに捨てようとしたばかりか、救ってくれた人たちに礼すら言わなかったんだ」
あの少女たちの正体は未だに謎のままだ。
そもそもあの後の記憶はひどくあやふやだった。
気がついたときには高月家にいて、抜け殻のようになったまま、なにも喋らず、なにも食べないといった有様で、随分とおじさんたちを心配させたものだ。
そんな彼の前に現れたのが、当時八才の高月由布子だった。
彼らは親同士が遠い親戚で、以前から顔見知りだったが、それまでは、ろくに口を利いたこともなかった。
それはたぶん当時の由布子が人見知りする性格で、当時の昴が姉以外の人間に感心がなかったためだろう。
彼女は強ばった表情でふたり分の食事を盆に載せて運んでくると、昴の正面に座り、それぞれの手前に食事を置いた。そして、それっきり黙り込んだのだ。
由布子はじっと昴を見据えたまま、なにも言わず、なにも食べず、ただひたすらその場を動かなかった。
昴は相変わらず放心したままで、最初は由布子にも無関心だったが、静かに過ぎていく時間の中で、いつしか彼女のことが気になりはじめた。
〝ほっといてくれっ〟
〝よけいなお世話だっ〟
〝僕はもうどうでもいいんだっ〟
何度も何度も心の中で叫んだが、彼女はてこでも動かないといった様子だった。
やがて由布子のお腹が空腹を告げる音を立てはじめても、彼女は顔を赤らめこそしたものの、決してその場を動こうとはしなかった。
それからさらに――いったい、どれほどの時間が経ったのか……。
気がついたときには、昴は泣きながらスプーンを手にして、冷えて不味くなってしまったカレーを口に運んでいた。
その対面では彼女もまた同じように涙を流しながら、決して美味いはずのないそれを頬張っていた。
それがきっかけだった。凍てついた心が急に熱を取り戻し――その時になって彼は、ようやく姉を失ったことが悲しくて泣きわめいたのだった……
「姉さんが俺の命を拾ってくれて、あの人たちが俺の命を繋ぎ止めてくれて――そして由布子が俺の心を救ってくれたんだ」
自分ひとりのちっぽけな命を、何人もの人たちが守ってくれた。その恩に報いる方法があるとすれば、それは自分も誰かを守ることだ。昴はずっとそう考えて生きてきた。
「姉さん……あの日、俺は一番大切なものを失ったけど、それでもなお、守りたいと思えるものを見つけることができたんだ」
思い描くのは、昨日夕陽の中で見た由布子の笑顔だ。その笑顔を守るために、彼はずっと自分を鍛えてきた。
「俺に由布子を守れるだけの力が備わっているかどうかはわからない」
紺色のマントの少年や少女のように自分は強くなれているのだろうか。
「それでも、俺はずっと彼女を守りたいと――その力が欲しいと願い続けてきた。姉さんに言われたとおりに頑張ってきた」
昴は、もの悲しげな笑顔を空に向ける。
ちょうど頭上を、名も知らぬ真っ白な鳥が飛んでいた。それを姉の化身だと決めつけるほど彼は単純ではなかったが、なんとなく彼の言葉を姉に届けるくらいのことはしてくれそうな気がした。
「姉さん、助けてくれなんて無理は言わない。ただ、せめて見守っていてほしいんだ」
蒼天を悠然と飛び去るものに、昴はその言葉を託した。
結局、このとき彼は何となく予感していたのだろう。これから始まるとてつもない事件に、自分と由布子が巻き込まれる運命にあるということを。
その漠然とした予感は、遠からずして現実のものとなるのだった。
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