第9話 ジェットコースターより怖いって評判だぜ
いつしか夕映えがゆっくりと忍び寄り、傾いた陽射しが校舎を茜色に染めあげていた。
穏やかな夕風の吹く中で、由布子はひとり校門に背を預けて佇んでいる。その表情は相変わらず曇ったままだ。
目の前を下校する生徒たちが、まばらに通り抜けていく。そのほとんどは徒歩だが、希に自転車が通りかかる度に、それを横目で見送っては、小さく溜め息を吐いていた。彼女が待っているのはたったひとりだ。
待ち始めてから、いったいどれほど時間が経ったのか――通り過ぎる人影は時間とともに数を減らし、すでに十分近く誰も出て来ない。
さらに由布子が溜め息の数を重ねかけたとき、ようやく新たなタイヤの音が響いてきて、彼女はゆっくりと顔をあげた。
そこに、どこかぼんやりとした顔で、ペダルをこぐ葉月昴の姿があった。由布子に気づくと、わずかに驚いたような顔で自転車を停める。
「あれ、由布子? ――まだいたのか?」
「ええ」
軽く頷いた後で、内心の動揺を抑えつつ問いかける。
「昴はなにしてたの、こんな時間まで」
「いや、人を捜してたんだけどさ。見つからなくてな」
「それって、あの手紙の……」
「いや、それはもういいんだけどさ」
昴は苦虫を噛みつぶしたような顔で苦笑する。なにがあったのかはわからないが、告白されたわけでもなさそうだ。
「それより、おまえは?」
「せっかくだから、乗せてってもらおうと思って」
由布子は微笑みながら昴の自転車を指差した。その顔は彼の見慣れたものになっており、センチメンタルな心の内を、完璧に隠しきっている。
「ああ、そういうことか。なら悪かったな待たせちまって。けど……ジェットコースターより怖いって評判だぜ」
昴はやや意地悪そうに笑った。
当然ながら学校へと続く長い上り坂は、下校時には下り坂へと変わる。しかも木々の間を縫って延々と下っているため、ブレーキをかけずに走ろうものなら、まさしくジェットコースターさながらの迫力を味わえるのだ。
ただし、もちろん転ければ命の保証はない。
この学園には自転車通学生にヘルメットの着用義務は無く、二人乗りを禁止する条例も今はまだどこにもない。
世界はおおむね平和で、社会全体が穏やかな空気に包まれていた。
そんな恵まれた時代の中で、昴や由布子は生きている。
もっとも、いまを生きる者にとって、それは当たり前のことで、彼らには彼らなりの悩みごとがあるというのも世の常だった。
自転車はどこか郷愁を誘う、カラカラという音を立てながら、夕陽に照らされた坂道をゆっくりと下っていく。前言に反して昴はスピードを抑えていた。
由布子は二人乗り用のハブステップに足をかけて、両手を彼の肩の上に乗せながら、気持ちよさそうに風を受けている。
普段、由布子は徒歩でこの坂道を下っている。通算一年以上の通い慣れた道だが、見慣れた景色も視点とスピードが変われば、また違うものに見えてくる。それが好きな人と一緒に見る風景ならなおさらだろう。
彼女には長い間、その好きの度合いがわからなかった。昴のことは他のどんな男子よりも大切に思っていたが、それは彼が家族であるからだ。そう思い込んでいた。
しかし、今日の放課後、下駄箱からラブレターを取り出す昴の姿を見たとき、彼女の心に動揺が生まれた。せつない想いが急速に込み上げ、その場から逃げ出したくなってしまったのだ。
それでもなんとかその場は平静を装って学校を出たものの、坂の途中まで歩いたところで、どうしても気になってしまい、急いで学校に駆け戻った。
しかし、下駄箱に昴の靴が残ったままだったため、手紙の内容が校舎内のどこかに呼び出すものだったと推測したものの、それがどこなのかはピンとこなかった。
由布子は当然ながらラブレターなど出したことはない。もらったことなら度々あったが、呼び出しの場所は、なぜかいつも決まって校庭にある桜の木の下であり、校舎内のどこかに呼び出された経験はない。
要領を得ない彼女は、教室をひとつずつ覗いて回っていたのだが、その途中で、ようやく屋上という定番の場所に思い至った。
単純な見落としをしてしまった自分の迂闊さを呪いつつも、由布子は慌ててそこに向かったのだが、その途中で昴と正面衝突してしまったのだ。
そこから昴が走り去った後、彼女はこっそりと屋上を覗いてみたが、そこに彼を呼び出したと思わしき人物の姿はなかった。
しかたなく下駄箱に戻った由布子は、そこに昴の靴があるのを再確認したうえで、校門に先回りして彼を待つことにしたのだ。
昴があまり元気のなさそうな冴えない顔で歩いてきたとき、由布子は正直ほっとしてしまった。恋人ができた男の顔には見えなかったからだ。だが、同時に彼の不幸を喜んでいるような気がして胸が痛かった。
しかし、いまこのときは、そういったもやもやを忘れることができた。
前後に並んだ二人乗りの状態では会話はしづらく、どうしても口数は少なくなってしまうが、たとえ交わす言葉がなくとも愛する人と一緒にいられるだけで、人は幸福を感じるときがある。由布子にとってこの時間はまさにそんなひとときだった。
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