第8話 歩く細菌兵器
落ち込みつつもとりあえず帰ろうと歩き出す昴だったが、そこでふと視線を感じたような気がして、そちらに顔を向けた。
「あれは……」
向かい合った南側の校舎。その屋上に小さな人影がある。セーラー服を着た女生徒だが、その制服は学校指定のものとは異なっていた。
「――小夜楢未来」
今朝聞いたばかりの不思議な名前が、自然と口をついて出ていた。
未来は真剣な眼差しで、こちら側の屋上を見つめているようだ。その視線は昴ではなく彼のすぐそば、何もない虚空へと向けられている。
「まさか――」
べつに自分が困ることではないのだが、鋼が消えるところを見られたかもしれない。
とにかく確かめようと考え、昴は踵を返して、昇降口へと駆け込んだ。
南校舎に向かうには三階の渡り廊下を抜けるのが手っ取り早い。全力で走れば大して時間のかからない距離だ。
数段抜かしで階段を駆け下りて踊り場を曲がる――その途端、突然視界に女生徒の姿が飛び込んできた。
「きゃっ!」
「うわっ!」
ほとんど同時に声をあげていた。
突然のことに驚きながらも、昴は女生徒が頭を打たないように、あえてもつれ合う形で倒れ込んだ。床に着くまでの短い時間で、強引に体勢を入れ替えると、自分の体をクッションにして相手を床の直撃から守る。
「ぐっ――」
背中と肘が床に打ちつけられ小さな呻きがもれる。
それでも自分も頭を打つことはさけ、女生徒を抱きしめるような体勢で、なんとかその動きを止めた。
「ふぅ……」
安堵の溜め息がもれる。
女生徒は無言のまま、しばらく彼の胸の上でうずくまっていた。心地よいリンスの香りと柔らかい感触は名残惜しいところだったが、さすがにこの体勢のまま固まっているわけにもいかない。
昴はゆっくりと身を起こしながら、女生徒の体をそっと引き離した。
「大丈夫か?」
「ったく……廊下は走るなって、いつも言われてるでしょう」
聞き慣れた涼やかな声。あらためて相手を確認すると見慣れた顔がそこにある。
「……なんだ、由布子か」
「なんだはないでしょ。人にぶつかっておいて」
由布子は衣類のしわを直しながら、拗ねたように口を尖らせた。
「悪い」
「いいけどね、べつに……」
彼女はそう言ったあと、ふと思い出したように慌てて問いかけてくる。
「それよりそっちは大丈夫なの? 怪我とかない?」
「ああ、平気だ」
昴は軽々と跳ね起きると、手足をぐるぐると回して無事であることをアピールした。
子供時代の彼は、怪我や病気を無理にでも隠し通そうとする性格だった。家族同然の幼なじみゆえに、それを知る由布子は、言葉だけではなかなか納得してくれない。
もっとも、今の彼はそんなやせ我慢は、なるべくしないように心がけている。
度を超えたプラス思考が、時としてマイナスに転じるという教訓は、身近な人物が身を以て教えてくれた。
昴の身近な人物――すなわち月見里天晴、その人である。
それは昴が中学生のときの話だ。
当時、美人の担任女教師に熱を上げていた月見里は、自分を頑張り屋だと見せるため、四十度近い熱があるにも関わらず、無理を押して登校したことがあった。
誰の目にも明かなほど重症の彼は、結局ランチタイムを迎えることなくリタイア。救急車で病院へ搬送されたのだが、これはまだ事件のはじまりに過ぎなかった。
その日、月見里が撒き散らしたウイルスは人知れず校内に蔓延し、彼と同様の症状で欠席する者が続出。一週間後には学級閉鎖となり、さらに数日後には学校閉鎖にまで発展した。
担任教師や由布子もそのウイルスの犠牲となり、三日三晩高熱で苦しんだという。
月見里は自らの行いに恐怖し、人々は彼を〈歩く細菌兵器〉と呼んで怖れた。
そしてもうひとつ、月見里が身を以て教えてくれた教訓がある。
それは彼が黒ずくめの扮装をして、女子の着替えを覗こうとしたときのことだ。
犯行はあっさりと露見し、由布子にデッキブラシで撃退されたのだが。そのときの由布子曰く、
「手応えはあったわ。犯人は右手に怪我をしている」
それを聞いた真犯人――月見里は、実はバレバレだった犯行を隠蔽するために、怪我をしているという事実をひた隠しにしようとしたのだ。
結果、翌日には患部の腫れが悪化して高熱を出し、またもや救急車で病院に搬送された挙げ句、即入院という事態にまで発展した。
そのとき、由布子は月見里の自業自得であることも忘れ、青ざめた顔で彼の身を案じていたものだ。
「けど、由布子――おまえ帰ったんじゃなかったのか?」
下駄箱のところで確かに別れたはずだ。訝しむ昴だが、由布子は平然と答える。
「忘れ物を取りに来たのよ」
「屋上にか?」
意地悪くツッコミを入れる。しかし彼女は涼しい顔で即答した。
「そのあとで風にあたりに来たの」
「わざわざ北校舎の屋上にか?」
昴たちの教室は南側の校舎にあるので、普通なら南側の屋上に上がりそうなものだ。しかし――
「忘れた先が、こっちの音楽室だったのよ」
「放課後だから音楽室は閉まってるはずだろ? ちゃんと鍵は借りてきたのか?」
「開いてたわよ。合唱部が使ってるもの」
「…………」
とうとう言うことがなくなってしまった。何となく野次馬根性で戻ってきたのではないかと思われるのだが、簡単には尻尾をつかませてくれないようだ。
しかし、これは何も今日に限ったことではなく、彼女は言い訳や誤魔化しが極めて得意なのだ。
(ちぇっ……嘘が得意なんて自慢にもならねえのに)
内心で負け惜しみを言ったあと、昴は、はたと思い出す――自分がどこに向かっていたのかを。
「いけね!」
突然駆け出す昴に、由布子が慌てて声を投げかける。
「ちょっと!? どこ行くのよ!」
「急用だ! おまえは予定どおり風にでもあたってってくれ! あたりすぎて吹かれて飛んでいくなよ!」
顔だけ向けて言うと、あっという間に走り去ってしまった。
由布子はそれを見送った後、大きな溜め息をひとつ吐いた。そして憂いをはらんだ顔で屋上へと続く扉をじっと見つめる。
「告白……されたのかしら?」
それは恋する少女の切なげなつぶやきだった。
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