第10話 どうしたいか、どうあるべきか

***




 イネスによる授業の時間が減ったとはいえ、まだ学ぶことの多いジゼルにとって彼女は重要な家庭教師だ。

 今日も館の居間にて、ふたりはテーブルを挟んで座っていた。

 テーブルの上では分厚い書物が開かれている。


「これまで何回かオルレアン領の産業について学んできましたが、今日は、特産品について考えていきましょう」

「ずばり、養蚕業っ!」


 ジゼルが即答すると、イネスは満足げに頷いた。

 そしてどこからともなく籠に入った繭玉を取り出す。まだ生糸になる前で艶はなく、見た目はふわふわとしているように見える。


「そうですね。わたくしの義実家も養蚕業から始まりました。当初は桑を栽培して蚕を育てるのみだったそうですが、地域に養蚕業が広まるにつれて、繭の取引で重要な地位を占めるようになっていったと聞いています。いかにして美しく丈夫な絹糸を作るかという研究の中心となったのも義実家でした」


 そうして出来上がった上質な絹織物は王家へと献上される。

 辺境であるオルレアン領が独自の地位を確立しているのは、小型の魔物から王都を守ってきた長い歴史に加えて、養蚕業が大きな意味を持っているのだという。


「今朝からお兄様と夫は王都へ出向いていますが、来年の取引について話し合いをしてくるそうです」

「アーサーから、今回の滞在は少し長くなるって言われたよ」

「昨年も七日間ほどの滞在でした。それに加えて、移動時間もありますからね」


 ジゼルも王都へ同行するようアーサーから言われたが、国王マティスの件もありやんわりと断った。

 やんわりというか、アーサーが不在の間に夫人教育を頑張る、と猛烈に説明してなんとか了承を取りつけた。

 彼は不服そうだったが、こればかりは譲れなかった。

 アーサーは恐らくジゼルの翡翠像について知らされ、見学してくるだろう。それもそれで微妙な気持ちではあるが、並んで一緒に見るのも気まずい。


(というか、わたしは一生見たくない……自分を美化した翡翠像だなんて……)


「ジゼル様?」

「あっ、ううん、何でもない」


 翡翠像の話はなるべく口外したくない。

 笑ってごまかそうとしたところで、ジゼルはイネスの異変に気づいた。


「もしかして調子悪い? 無理して来させちゃった……?」


 イネスの顔色は悪く、唇の色が薄くなっている。額には脂汗が浮かんでいた。


「いえ。調子が悪いなんて……ことは……」


 否定しながらもイネスは目を閉じ、そのまま横に倒れた。


「イネス!」


 勢いよくジゼルは立ち上がりイネスを受け止める。呼吸も辛そうに、肩で息をしている。


「……うっ」


 イネスが吐き、受け止めたジゼルの服が汚れる。

 使用人が慌てて駆け寄ってきた。


「奥様!」

「大丈夫、大丈夫。着替えれば済むもの」


 ジゼルは他人の吐瀉物にも出血にも、慣れている。

 イネスを抱きかかえたまま、ジゼルは隅に立っていた別の使用人に声をかける。


「イネスを客室へお願い。仰向けにさせないでね、また吐いて気管を詰まらせたら危ないから」

「かしこまりました」

「それから、神官さまを呼んできてちょうだい」


 館のなかは一気に慌ただしくなった。

 嫁いだとはいえ、ここはイネスの実家。可能な限りの人間がイネスの介抱に当たる。

 ジゼルは清潔な服に着替え、神官の到着を玄関ホールで待つ。そわそわして、落ち着かない。


(アーサーたちを呼び戻すにしても時間がかかる。どうするのが最善だろう……)


 遠くから馬車が近づいてくる。


(来た!)


「お待ちしておりました! どうぞこちらへ」


 ジゼルは叫んだが、扉が開いて入ってきたのは使用人のみだった。唇が震え、今にも泣き出しそうな表情をしている。


「奥様、どうしましょう。急病人で立て込んでいて、少し待ってほしいと言われてしまいました……」

「そんな」


 反射的に思い出すのは、両親が病気にかかったときのこと。

 あと少し神官の到着が早かったら、助かっていたかもしれない。この『かもしれない』は、子ども心にジゼルを苦しめた。

 そして、旅の途中、何度も同じ感情に囚われた。幸いなことに回復魔法の使い手であるクレメントがいたおかげで、後悔する場面はかなり少なかったが、それでも後悔したことが全くなかったといえば嘘になる。


(わたしに回復魔法が使えたら……)


「……違う」


(使えないからこそ、他にやれることがある筈なんだ)


「お、奥様?」


 突然の独り言に使用人が戸惑う。


「ちょっと出かけてくる。イネスをお願い」

「いけません。無断外出は旦那様に、」

「緊急事態だもの」


(もしそれで)


 もしそれで、アーサーの不興を買うようなことがあったとしても、仕方ない。


(ううん。わたしが好きになったアーサーは、そんな狭量な人間じゃない。その仮定はあまりにも失礼だ)


 不意にジゼルは思い出す。

 傷すら勲章だと言ってくれたときの、アーサーの表情を。

 彼はただ、ジゼルが傷つくことを恐れているだけなのだ。


「最優先すべきはイネスの回復でしょう。馬を出して」


 ジゼルの険しい表情と口調に、その場の誰も逆らうことはできなかった。

 長ズボンと革のブーツも用意させ、ジゼルは玄関ホールで履き替える。


「行ってくる」

「奥様……」


 ジゼルは久しぶりに館の外へ出た。

 

 淡い青空を覆う、鱗のような白い雲。

 一瞬だけ、目が眩む。体の底から息を吐き出し、深く吸い込む。

 稜線で描かれた山々はあかく濃く色づきはじめている。季節は、確実に移り変わっているのだ。


 用意された栗毛の馬に飛び乗ると、迷わず走り出した。




***




 ジゼルが訪問した先は、エルフのジル。

 神官以外に回復魔法が使える存在はジルしか思いつかなかった。ジルは渋ることなく馬に同乗して、ふたりは辺境伯の館へと戻ってきた。

 客間のベッドでは、イネスが静かに眠っていた。


「ふむ」


 ジルは、瞼を固く閉じたイネスの上に手を翳した。何かを感知するかのように両手を動かす。

 その様子をジゼルとはじめとした館の全員が、固唾をのんで見守っていた。


「なるほどね」


 不安に包まれた客間でただひとり、ジルだけが悠然としている。


「どうですか……?」


 おずおずとジゼルはジルの背中へ問いかけた。

 振り向いたジルは、全員の顔を見て、口を開いた。


「妊娠初期だよ」

「にっ……?」


 すると、ゆっくりとイネスの瞼が開いた。


「本当、ですか……?」

「イネス!」


 ジゼルは勢いよくイネスに駆け寄って膝をつく。

 イネスは振り絞るように呟くと、はらり、涙を零した。


「……ようやく」


 そのまま両手で顔を覆う。

 静かに泣いているのだと、誰もが分かった。


(あ、そうか)


 ジゼルは急に腹落ちしたような気がした。


(イネスもイネスで、迷ったり悩んだりしていたのに。わたしは全然気づいていなかったんだ……)


 状況を理解した使用人たちも喜びを分かち合いはじめる。おめでとう、という大小の声が空間に響く。

 ジルが、ジゼルの肩にぽんと手を置いた。


「人間ってのは大変だねぇ。かくあるべし、って見えない糸に縛られて、がんじがらめになって」

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