第9話 かろやかに靄は晴れる
***
贅沢にガラス張りで造られた温室は、ジゼルもアーサーとの散歩中によく使っている。
一年で最も暑い時期が終わり、温室の外には淡い色の花々が溢れんばかりに咲き始めていた。
使用人がティーセットを運んできてくれて、ささやかなお茶会が始まる。
「それで、どうしてお忙しい大神官サマが、辺境領くんだりまで来た訳?」
「報告よ、報告。あんたが王都から出るときにちょうど話の出ていた翡翠像。アレが無事に完成したの」
「げ」
ジゼルは心底嫌そうな表情を浮かべた。それから、天井を仰ぎ見る。
「殿下、本気だったんだ……」
「中々面白いわよ。本人より十倍は美化されている、翡翠の勇者像」
「うぅ……聞きたくなかった……」
「一度見に来るといいわ。爆笑間違いなし」
落胆するジゼルとは対照的にクレメントはげらげらと笑った。
「殿下は本気であんたを妾にするつもりだった、ううん、今でも諦めてないからねぇ」
「あの女好きめ」
誰かに聞かれれば不敬罪で捕まりそうな暴言だが、ジゼルが王都から出たかった理由のひとつでもある。
「ばか。女なら誰でもいいって訳じゃないの。何かの分野に優れている強い女がお好みなのよ、あのすけこましは」
こちらもなかなかの不敬罪。
一部にしか知られていないが、現国王マティスの口癖は『鷹狩りと同様に魅力的な女性を追いかけることには飽きを覚えないだろう』。
十三歳で勇者の剣に選ばれたジゼルのこともすぐさま気に入り、以来、様々なアプローチをしてきている。だからこそジゼルに言い寄る輩が現れなかったというのもあるが、そんなことは決してアーサーに言えない。
「もう五十歳になるんだし、そろそろ引退すればにいいのに」
「残念ながら、生涯現役っぽいけどね。まぁ、それに、殿下のおかげでこの国は水の国として繁栄してるんだから、悪いことばっかじゃないわ」
クレメントが紅茶を口にした。
王族の始まりは神と交わった人間と伝えられている。その血を継ぐマティスは、現在、国内で最も強力な浄化魔法を操れる。
そのおかげで、国民は国内のどこにいても質の高い水を享受できる。他国では汚染された水で疫病が広がることもしばしばあるそうなので、浄化魔法というのは尊ばれるものなのだ。
「そういえば、盗賊の村に泊まったときのこと、覚えてる?」
「懐かしい話ね。パーティーを組んでわりとすぐの出来事だったけど、まだまだ世の中について知らないんだなってショックだったからよーく覚えてるわ」
「しばらく疑心暗鬼になったもんね。あんなにもてなしてくれたのは、全部罠だったって、なかなかの衝撃だったもん」
「それでも旅を続けられたのは、悪い人より、いい人と出会うことの方が圧倒的に多かったからだと今でも思う」
ふたりはしみじみと振り返る。
他にも苦楽を共にした仲間だからこその想い出を共有していると、不意に、ジゼルの動きが止まった。
「ジゼル?」
「なんだか、久しぶりに人と会話した気がする。いや、会話はしてるけど。なんていうか、辺境伯夫人として相応しい言葉遣いをするよう、常に気を遣わなきゃいけなくて、……」
「……ちょっと痩せたわね」
テーブル越しにクレメントはジゼルの頬へ触れた。柔らかな手のひらは、冒険中、ジゼルの傷を癒し続けてくれたときと何ら変わりない。
クレメントが、ジゼルをしっかりと見据えて言葉を続ける。
「十五年間、戦うことしか知らずに生きてきたのに、突然、社交と政治の渦に飛び込んだんだもの。その決断がそもそも偉いことなのよ」
「えっ?」
ぽろ、とジゼルの瞳から雫が落ちて、紅茶の水面に落ちた。
「まぁ、大体思いつきで行動して痛い目ばっか見てきたあんたから、性懲りもなく思いつきで結婚を決めたって言われたときは、どうなるかとは思っていたけれど。あはは」
「ぐすっ……そんな風に思ってたの……」
「忠告したって聞かないのはよーく知ってるし。もしあのまま王都に残ったとしてもうまいこと言いくるめられて、殿下の手籠めにされただろうから。それなら、あんたは思うように羽ばたいていけばいいって思ったの」
ジゼルが堪えるのをやめると、堰を切ったように涙と鼻水が流れ出した。
「結婚して、楽しいこともあったでしょ」
ジゼルは頷く。
「旦那のこと、大好きなんでしょう?」
もう一度、しっかりと頷く。
「期待に応えなきゃって真面目にがんばりすぎるのも、あんたらしくて好きだけどね。冒険中は国民のために。今は、旦那と、領地のために、ってか」
子どもの頃は歳を取ったら自動的に大人になれると思ってたけれど、意外とそんなことはないのよね、とクレメントは笑った。
「あんたの向こう見ずだけど頑張り屋なところ、子どもの頃から全然成長してない真っ直ぐさ。そういうところ、いいと思うわ」
「褒めてんの? けなしてんの?」
「ばーか、このあたしが手放しで褒めてるのよ。まずは顔を拭きなさい。せっかくのお化粧が台無しじゃない」
涙を流したことで、ジゼルはようやく澱んでいた感情が整理されていくような気がしていた。
クレメントが言葉を続ける。
「歳をとるとさ、与える側に回らなきゃいけなくなるじゃん? こっちはまだ求めたい側だっていうのに」
「分かる。なんだろうね、この感覚」
ジゼルは瞳を赤く腫らしながらも、久しぶりに心から笑顔になる。
「……なんか、すっきりした。ありがと」
「持つべきものはすばらしい友人でしょう」
「本当にそう。ありがとうございます、大神官サマ」
「相談料は特別にまけておいてあげるわ」
「え、お金取るの?」
するとクレメントは立ち上がり、両手を胸の前で組んだ。
「『偉大なる我らの主は、清らかな水から我々人間をお創りになられました。ゆえに、我々は水を失えば命を保つことはかないません。ところが、ひとりの人間が有する水は、すべて澄みきってはいません。心のなかには濁っている部分もあれば、乾いているところだってあるでしょう。しかし、それでいいと、寛大なる我らの主は仰るのです』」
わざと大げさに教義を諳んじる。
「いついかなるときも主はあんたの行いをみているんだから、大丈夫よ。吹っ切れたみたいね。辺境くんだりまで来てよかったわ」
クレメントが帰ってから、ジゼルは自室の隅に隠していた薬草の本を開いた。
香りはだいぶ薄まってしまったが、実際に自分で摘んで乾燥させたものを、栞にして挟んでいる。
(人間、そんな簡単に変われたら苦労しない。わたしはわたしなんだから)
分かってもらえるように、自分は自分のやるべきことをするだけだ。
(決めた。やりたいことを諦めたくない。辺境伯夫人としての務めも、薬師になることも)
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