第6話 辺境伯夫人として
***
館の
ジゼルは横並びに座ったイネスから、刺繍を教わっていた。『刺繍は貴婦人の大事な嗜みです』と言うだけあって、イネスの刺繍はクオリティが高いし、領地内で高く評価されている。
「今日こそは、お兄様の持ち物に縫うための紋様を習得しましょう」
イネスがテーブルにずらりと刺繍糸を並べた。
夫の持ち物に刺繍を施すのは妻の大事な務めのひとつである。
オルレアン家の家紋は花と馬、鳥を組み合わせた複雑なものだ。
これまでのレッスンでは、それぞれのモチーフを別々に刺繍してきた。がたがただった模様がなんとかそれらしく見えるようになってきたので、次のステップへ進もうという訳だ。
「うん、わかった」
「何かいいことでもありましたか?」
弾かれるようにジゼルは顔を上げた。
「えっ?」
「昨日までは眉間に皺を寄せて針に糸を通していたのに、今日は鼻歌交じりですね」
「あ、明日、アーサーと領地内を巡るのが、楽しみで?」
(それはそうだし、それだけじゃないけど)
エルフの薬師の元へまた行けるという『権利』を手に入れた今、ジゼルにはふしぎな高揚感と安心感があった。
「お兄さまもなかなかお忙しそうですものね。もっとジゼル様とお過ごしになる時間を取ればいいのに」
「仕方ないよ。忙しいのはよく分かっているから」
「ですが、妻の大事な務めのひとつは、世継ぎを産むことです。もっと協力的になってもらわなければ、困ります」
「ごほっ」
予想しなかった方向へ進む話題に、ジゼルは盛大にむせた。
「失礼を承知で申し上げますが、まだ何もないという訳ではないでしょう?」
「あー……、……うん」
何故、夫の妹とそんな話をしなければならないのか。
ジゼルの表情は引きつっていたがイネスは気にも留めない。
「お兄様もようやく初恋の相手と添い遂げたのですから、一族の、ひいてはオルレアン領のためにもっと真剣になってもらわないと。子どもというのは女性一人で産むのではないのですから」
「えーっと、イネス?」
そして怒りの矛先はどうやら兄へと向いているらしい。
ひとしきり言語化して落ち着いたイネスは、こほん、と咳払いをした。流石に冷静になると恥ずかしかったようだ。
「それはそれとして、皆、ジゼル様とお話しできるのを待ちわびていますわ。待ち望んだ辺境伯夫人でもありますし、それ以上に、ジゼル様は救国の女勇者様ですもの」
イネスが瞳を輝かせる。
「勇者様の故郷がこの地であることは、わたくしたちの誇りでもあります」
「ありがたいことだね」
「さぁ、だからこそ、刺繍の続きをしましょう」
「はーい」
しばらくの間、ふたりは無言で針を布に刺していた。
ふと興味本位でジゼルは口を開く。
「そういえば、エルフの薬師の話をちらっと耳にしたんだけど」
「ジル様のことですか? 義父の取引先で、ハーブティーや魔除けのお守りを取り扱っています」
「へぇ、そうなんだ」
ジゼルはわざと知らないふりを装った。
「わたくしも枕元にジル様特製のサシェを置いていますの。今度、香り袋に刺繍をする話も出ています」
「付加価値がつきそうだね。痛っ」
話しながらやっていたからか、ジゼルは指に針を刺してしまう。うっすらと指先に血が滲む。
「気になっていたのですが、勇者様でも針を刺したら痛いんですね」
心底大真面目にイネスが驚くので、ジゼルはぷっと吹き出した。
「それはそうだよ。わたしだって、人間なんだから」
***
ジゼルとアーサーは箱馬車に揺られていた。
「馬でもよかったのに。ううん、むしろ、馬がよかった」
「何を言っているんだ。もしものことがあったら大変だろう」
「もしもの方が難易度が高いよ」
ジゼルの紺色のドレスはアーサーの瞳と同じ色。胸元にはグレーグリーンのブローチ。長い髪もしっかりとまとめて結い上げられている。全体的に落ち着いたら装いだ。
向かい合うアーサーの装いは辺境伯の正装。金縁で黒いジャケットの下は白いシャツ。光沢のあるパンツはジャケットと同じデザイン。
今日の仕事は辺境伯とその夫人としての各地歴訪である。
結婚後初めての公務だ。辺境領は決して広くはないものの居住地が点在している。各地を回って人々の声に耳を傾けることも、領主の大事な務めである。
「アーサー? 何、笑ってるの?」
「いや、久しぶりにジゼルと顔を合わせて話をした気がして」
「忙しそうだもんね……。ちゃんと寝られてる?」
ジゼルは、アーサーが山積みの書類と深夜まで向き合う姿を目にしていた。
夜を共にしたのも結婚式当日のみ。
改めて、辺境伯の多忙さを目の当たりにしていた。
「老人たちからはもっと新婚生活を満喫しろと言われているし、自分もそうは思う」
アーサーは大げさに溜め息を吐き出した。
それから、自然な仕草でジゼルに近づき、頬に手を添えて口づける。
「……!?」
「今ので気力は全回復した」
くしゃ、と表情を崩すアーサー。
普段は見せることのない満面の笑みに、かえって赤面したのはジゼルだ。
「そういうの、どこで習った訳?」
「習ってはいないがずっと想像はしていた。ジゼル相手に」
「……っ」
「まだまだ全て実践できてはいないから、お楽しみに」
ジゼルは肩を落とす。
(本当に、こんなたらしに成長したなんて聞いてない)
動揺しているジゼルを宥めるように、アーサーは咳払いをした。
「まだまだ代替わりして日が浅い分、目の行き届かないところがないように配慮したいと考えている」
「そういう真面目なところ、尊敬するよ。わたしもわたしでイネスに怒られながら勉強してるし、ちょうどいいんじゃないかな」
ジゼルがおどけてみせると、アーサーは目を細めた。
「目標なんだ。私たちがこの世を去った後も、平和な時代だったと語り継がれるようになりたい」
アーサーの手にジゼルは自らの手を重ねた。
「アーサーなら、大丈夫だよ」
そして、今度は自分からアーサーへと口づけた。
「……!」
「仕事が落ち着くことはなかなかないと思うけれど、手伝えることがあったら何でも言って」
「そうだな。まずは、今日を成功させよう」
アーサーが言うのとほぼ同時に馬車が停まる。
先に降りるのはアーサー。手を添えられて、ジゼルも馬車から降りた。
「お待ちしておりました。アーサー様、ジゼル様。この度はご結婚おめでとうございます」
近寄ってきたのは集落の長らしき初老の男性だ。周りにも老若男女問わず人々が集まっている。
「なかなか来られずにすまない。今日は色々と話を聞かせてほしい」
「とんでもないです。アーサー様は先代よりも我々を気にかけてくださっていますよ」
「ジゼルです。今日はよろしくお願いします」
ジゼルがよそ行きの表情と声で挨拶すると、歓声が巻き起こった。
(カーテシーも、散々練習した甲斐があったかな)
とはいえ、勇者時代とは違う筋肉の使い方にはまだ慣れそうにもない。
なお、今いちばん力を入れているのは表情筋だ。
「お美しい勇者様。いえ、今は奥様ですね」
「この度はご結婚おめでとうございます」
集まった人々は老若男女問わずふたりの一挙手一投足に注目している。
(優雅、優雅、っと……)
背筋はぴんと伸ばし、肩は少し後ろを意識する。両手は体の前に軽く重ねる。つま先は、軽く開く。
「なんておしとやかな方なのかしら」
聞こえてくる称賛に快哉を叫びたくなるのをぐっと堪えて、ジゼルは頬と口角に力を入れ続けた。
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