第5話 弟子入り宣言
***
(……朝だ)
窓から差し込むやわらかな光は、すべてを淡く縁取っている。
(じゃなくて、えぇと、その)
己の置かれている状況を確認したジゼルがまずしたことは、両手で顔を覆うことだった。一通り思い出して悶えた後、瞳を閉じる。
(こんなにぐっすり眠れたのは、いつぶりだろう)
敵襲に備えて浅い眠りでも体力を回復させる習慣を身につけたジゼルにとって、驚くべき事実でもあった。そのまま二度寝する勢いでベッドに身を沈めようとすると、横から不満げな溜め息が聞こえてきた。
「そろそろその手をどけてくれないか? キスがしたい」
「⁉」
勢いよくジゼルが横を見ると、アーサーがすかさず有言実行してくる。
ジゼルも流石にそれくらいでは赤面せずに済むようになってきた。何事も、慣れというのは大事なのだ。
「ずっと見ていたが、かわいい寝起きだった」
「み、見てたなら言ってよ」
「言う訳ないだろう。叶うならこの腕のなかに閉じ込めて、永遠に眺めていたい」
ジゼルを抱きしめる力が強くなるアーサー。
帰郷してからずっと忙しそうにしてきたアーサーを見ているからこそ、彼の活き活きとした様子にジゼルは笑みを零した。
「……朝から絶好調だね?」
「ついに最愛の人と初めて一夜を共にしたんだ。嬉しくない訳がないだろう。もう少しこのままいさせてくれないか?」
「もちろん」
今度はジゼルから、アーサーに口づけた。そして顔を見合わせると、こつんと額がぶつかってしまう。どちらからともなく、はにかんで、もう一度キスをするのだった。
***
「あたし、ジゼル役がいい!」
「おれがジゼルだよ」
「ジゼルは女の人だから、男の子がやっちゃだめなんだよ。魔王をやってよ」
「えぇー」
「じゃあ、僕は勇者の剣をやろうかな。魔王を永遠に封じ込めてやる!」
子どもたちが大通りで勇者ごっこをしている。勇者と魔王の物語ではありながら全員はしゃいでいて、とても楽しそうだ。
横目で見ながら、ジゼルは笑みを浮かべた。
(わたしがジゼルだって名乗ったら、びっくりされるかな?)
最初にジゼル役を主張した少女は、見事希望通りの配役となったらしい。堂々とした姿で、なかなか板についている。かなりおてんばのようだ。
眺めていると口元がつい緩んでしまう。
(筋がいい。教えたら、ぐんぐん伸びそう。というか、わたしも鍛えなきゃ)
二十五歳を超えた頃から、一日動かないだけで体力が落ちるという自覚はある。
体が鈍っているのは自覚しているし動かしたいとも思っているが、そうできないのが現状だった。
今日のジゼルは、傍目からでは勇者にも辺境伯夫人にも見えない。
ドレスは脱ぎ捨てて、使用人の倉庫から質素な服を拝借していた。白い襟付きの黒いワンピースと、歩きやすい布靴。紅い髪色は目立つので、フードを被っている。
目立ってはいけない理由はひとつ。現在、イネスの夫人教育から逃亡中なのである。
(イネスも、悪い子じゃないんだけど)
青空を仰いで溜め息を零す。
完璧しか許さない家庭教師は、なかなかのスパルタだった。
『辺境伯夫人たるもの、歩幅の小ささや会釈の角度ひとつとっても査定される側になるのです』
『音を立ててスープを飲まないのは当然です。カトラリーと食器が触れたときに音をさせるなんて、言語道断』
『次に宝石を買ったときはお招きします、という表現は婉曲的なお断りの返答です』
(テーブルマナーは王城でも散々叩き込まれたからいいとして、貴族の隠語っていうの? やんわりと違う意味を持たせるってやつ、あれがどうにも馴染めないのよ)
ただ、今頃イネスは辺境伯の館で怒っているに違いないと反省しつつ、ちょっと楽しくなっているのも事実だった。
剣術の修行を始めた頃も街へ逃げ出す、いや、繰り出すのが好きだったことを不意に思い出す。
(そうだ! せっかくだし、ジルの家へ行ってみよう)
不意に思い出したのは薬師のエルフのこと。助けた日以来、ジルの元へは行っていない。
(いつでもおいでと言ってくれていた。貴族ではないし、拒絶の言葉ではない筈。うん、大丈夫だよね?)
そうと決まれば足取りはさらに軽くなる。ジゼルは国境近くへと急いだ。
***
「こんにちは」
「おやおや、珍しい客人だね」
「お言葉に甘えて来ちゃいました」
ジゼルがジルの家に入ると、テーブルの上には作りかけのリースが置かれていた。
その視線に気づき、ジルが口角を上げる。
「魔除けの薬草を組み合わせて編んでいたところさ」
「これは、マンネンロと……なんですか?」
「よく覚えていたね。ユーカだ。デザインに凝れば凝るほど、いい値段で売れるんだよ」
ユーカはマンネンロに比べると、丸くて小さな葉っぱをしている。ジゼルはまじまじと観察した。
「魔力のない人間なら家の扉に飾るといい」
二人の会話を遮るように声がした。
「師匠。お茶の準備ができました、って、誰だアンタ」
ぺたりと撫でつけた金髪に、赤い瞳のエルフの少年。
白いカッターシャツに、サスペンダーをひっかけた半ズボン。身なりに気を遣っているようだ。
少年の見た目とはいえ、人間より年齢を重ねているだろうとジゼルは判断する。
「はじめまして。わたしはジゼル」
「あぁ、師匠を魔物から助けてくれた人間ですか。その節はありがとうございました」
「ロビン。ジゼルの分も、焼き菓子とハーブティーを用意しておくれ」
「分かりました」
ジルの指示を受けて、ロビンは再び奥に引っ込んだ。
「わたしの分までいいんですか?」
「もちろん。せっかくだから、リースも編んでいくかい?」
「……是非!」
ジゼルはジルの隣に腰かけた。
手渡されたのは魔力の込められた細い輪っか。これに編みつけるのだとジルは説明する。
「茎を折ったりちぎらないように力を調節しながら編んでいくんだよ」
ジゼルの手を取って、編み方を教えてくれた。すると、あっという間に半円まで編み進めることができた。
「上手だね。筋がいい」
(たっ、楽しい……! イネスには注意されてばかりなのに、ジルさんはたくさん褒めてくれる……)
何故だかうれし泣きしそうになって、ジゼルは慌てて鼻をすすった。
そこへロビンが戻ってくる。
「お待たせしました」
「今度こそお茶にしよう。休息は仕事よりも重要だ」
木のテーブルに、ティーポットとティーカップ、焼き菓子が置かれる。ロビンも空いている席に着いた。
「今日のハーブティーは、リラックス効果のあるカミツ。焼き菓子はくるみのスコーンです」
「ロビンは下手なパティシエよりも美味しい菓子を作る」
「勿体ないお言葉です」
どうぞ、と促されて、ジゼルも冷めたてのスコーンを手に取った。
ほわ。ハーブティーとは違う甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「美味しいです。館で出されるお菓子とはまた違う感じで」
「それはそうだろう。辺境伯家には一流の菓子職人がいるのだから」
「あっ、そういう意味じゃなくて」
むせるジゼル。ハーブティーを口にして、深呼吸を一回。ハーブの効果なのか、どんどん気持ちが落ち着いてくるようだった。
あの、と口を開く。
「どうやったらジルさんの弟子になれますか?」
「面白いことを言うね。あんたには辺境伯夫人という大事な務めがあるだろうに」
「それはそれ、これはこれとして。薬草の知識を身につけたら、役に立つと思うんです」
「……生半可な興味で始めるなら辞めておいた方がいいですよ? 人間はすぐ死ぬんですから、無駄な時間を過ごすことはない」
「ロビン」
やんわりと、ジルがロビンを制した。
「まぁ、いいんじゃないかい? 弟子というものに明確な決まりはない。来られるときに、教えられるものを教えてあげよう」
「ありがとうございます!」
立ち上がったジゼルは頭を下げた。
(これまで剣を握ってきたように。今度は、別の形で誰かを守れるようになりたい)
具体的なことはまだ何も決まっていないが、そんな決意を胸に秘める。
指先に移ったハーブの香りは、館に戻るまで残っていた。
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