第122話 ――あなたが、大好きよ

 エマは力の抜けたブレアの手から、するりと自分の手を抜いた。

 そのまま手を伸ばして、紫色の瞳から流れる涙を拭う。


「ごめんなさい。酷いこと言って。ブレアは怖がられたくないんだって、わかってたわ。わかってたのに、言ったの。」


 そっとブレアの頬に触れて、ブレアの顔を自分の方に向ける。

 ブレアは涙の溜まった目を見開いて、エマのことを見た。


 わかってて酷いことを言ったのはブレアだ。

 今エマが言ったことは全部、ブレアがエマに言わなければ、謝らなければいけないことだ。


「ブレアだけじゃないわ。リサもアーロンくんも、ルークくんもヘンリーくんも、みんなが怖いの。」


「……そうなの?」


 意外な答えに、ブレアは小さな声で聞き返した。

 弱々しい子供のような声にそっと寄り添うように、もう片方の手も、ブレアの頬に添えた。


「そうなの。私、弱虫だから、みんなのこと大好きだから。みんなのことじゃなくて――関係が壊れるのが、怖いの。みんなに見放されるのが、怖いのよ。」


 関係が崩れるのが、怖い。

 見放されるのが、怖い。


 エマのいう恐怖はきっと、ブレアがずっと抱いていたものと同じものだ。

 相手が生きているかいないか、それだけの違い。


「こうして自分の想いを伝えれば、幻滅されるかもしれない。軽蔑されるかもしれない。距離を置きたいって思われるかもしれない。――みんなのことを、傷つけるかもしれない。いつも、そう思ってるの。」


「……エマは、そんなこと言わないじゃないか。」


 悲しそうにサファイアの瞳を潤ませて、それでも唇は笑みの形を作っていた。

 弱くて脆い、少女の目をした、けれども大人びた顔。

 ブレアは魅せられたように、涙を流すことすら忘れて見ていた。


「言うわよ。私がいいと思って言ったことが、誰かには悪いことに聞こえたりするから。誰かに好きって言われる度に、ブレアが嫌な思いをするみたいにね。」


 リアムには話した、アーロンにも話した、けれどエマにはそんなこと――言っていない。

 知ってたんだな、なんて、小さなことで驚いてしまった。


「さっきだって、ブレアが傷つくようなこと言ったわ。」


「それは、違うでしょ。」


 ごめんなさい、と謝ってくるエマを、ブレアは悲しそうな顔で否定する。


 それは違う。エマはきっと、ブレアが共感してほしがっているのを知って、わざと言った。

 実際は関係が壊れるのが怖いのであって、ブレア自体が怖かったわけじゃなかった。


 ならばあれは、ブレアを傷つける発言じゃない。


「違わないわ。確かに私は、ちょっと変わったブレアが怖くない。私よりすごいブレアが怖くない。でも、そうやってブレアが傷つかない言い方ができたのに、しなかった。十分、酷いことよ。」


 ブレアは無言で大きく首を横に振った。


「私ね、どれだけ頑張っても勉強でも、魔法でもブレアに勝てないでしょ。それを気にしてないって言ったら、嘘になるの。努力じゃ埋められないものを持ってるのが、羨ましかったわ。でも、ちっとも、怖くないのよ。」


 柔らかく微笑んだエマは、ブレアの首に腕を回す。

 不思議そうにしているブレアを、そのままぎゅっと抱きしめた。

 見た目通りの、年齢のわりに軽い重みと、暖かさが乗っかって、エマはさらに腕の力を強めた。


「――そのちょっと変わったところが、ブレアのいいところだもの。大人みたいに頭がよくて、誰よりも魔法が上手な――あなたが、大好きよ。」


「……そう、なのかな。……うぅ、ん、ありがと。」


 途切れ途切れに言ったブレアはそのまま、泣き出してしまった。

 さっきよりも多くの涙が零れて、必死に抑えているのに、嗚咽が漏れる。

 何年も前に言われた、嬉しかった言葉に酷似していて、どうしようもなく、嬉しくなってしまった。


「さっきも言ったけど、怖がることは悪いことじゃないわ。でも、ブレアだって、ルークくんのが、好きなんじゃないの?」


 本当に、エマはどこまで、ブレアのことをわかっているのだろうか。

 サファイアの瞳は冗談じゃなく、ブレアの心を見透かしているんじゃないかなんて思えてくる。


「……好きじゃないよ。」


「本当に?」


「好きじゃない。」


「素直じゃないわね。」


 泣いていながらもきっぱりと答えたブレアに、エマはくすりと笑う。

 抱擁を少し緩めて、ブレアの髪を優しく撫でた。


「ブレアがそんなに真剣に悩むってことは、そういうことじゃない。」


「……勝手に勘違いしてて。」


 拗ねたように言ったブレアに、エマはあははっと声をあげて笑いだした。

 ほら、やっぱり素直じゃない。

 なんて言葉は、心の中に留めておくことにした。





 暫くそのまま、涙が収まらなかった。

 エマはずっとブレアの頭を撫でてくれていて、なんだか申し訳ない。


 想定よりずっと遅くなってしまったが、やっと寮室に帰って来る。


「あっ、お帰りなさい先輩!……あれ、なんか目赤――」


「見ないで。」


 ブレアの姿を見るなり嬉しそうに笑ったルークの顔が、不思議そうな顔になる。

 ルークに見られないように顔を伏せたブレアは、そのままルークのすぐ傍まで近づく。

 視線を合わせないまま、もう1歩近づいて、ルークに抱き着いた。


「えっせっん、ぱいっ!?」


 驚きすぎて、思わずカレンダーに目を向けてしまった。

 初めてじゃないのに、やっぱり慣れない。


 一気に鼓動が速くなり、顔に熱が上っていく。


「どう、したんですか?」


 前のように、ルークに見られないよう顔を埋めているブレアに、恐る恐る問いかける。


「……この前、逃げちゃったから。――抱き返して、いいよ。」


「でも……。」


「いいから。」


 無理だったと言っていたじゃないか。

 抱き返したい、抱きしめたいのは勿論だが、ブレアに無理をさせたいわけじゃない。

 それに、自分勝手だが、2回も拒まれると傷つく。


「大丈夫だよ。僕がいいって言ってるんだから、すればいいでしょ。」


「無理してないですか?」


「……してない。……僕が、抱き返して欲しいんだ。」


 迷うように視線を彷徨わせたルークは、「失礼します。」と小声で言う。

 顔を上げぬままブレアが頷くと、ルークはそっとブレアの背に腕を回し、触れた。


 瞬間、少しだけブレアの身体が震える。

 慌てて手を離そうとすると、「やめないで。」と強い口調で言われた。

 

 やっぱり華奢で、抱き締めたら怖がらせてしまいそうだったから、そっと、触れるだけにしておく。


「先輩……?大丈夫ですか?」


「大丈夫。」


 触れられた瞬間は、少しだけ怖かった。

 けれどその恐怖はすぐに収まって――その後に感じたのは、驚くほどの安心感だった。

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