第95話 リリカさん?って誰ですか?
終業式が終わると、何だか一気に疲れが押し寄せてくる気がする。
明日から冬休み。学校がない。
――と言っても、教師には仕事があり、年末まで生徒のようにのんびり休んではいられないのだが。
「……流石に疲れましたね。」
誰に聞かせるわけでもなく呟いたリアムは、はあっと溜息をついた。
通知表を返す時間が思いのほか大変だった。
この学校では、クラスが成績順に分けられている。
そして今年のリアムは1番下のEクラスの担任。
つまり、教え子の大半の成績が悪い――どころか、3割ほどが欠点保持者だったりする。
そういう生徒達と成績について話すのか、体力的にも精神的にもかなり疲れる。
幸いにもルークは大丈夫だったので、義妹の機嫌は損ねられないだろうが。
放っておけばいいのに。どうでもいいんじゃなかったのか。
早く残りの仕事を終わらせて、年末までには実家に帰りたい。
と思いながら、リアムは仕事ではないことをしている。
魔法創造学での資料整理。
仕事、といえば仕事なのだが、間違いなくする必要のない仕事である。
この資料を散らかしたのも、新しく保管しなければいけないレポートや論文を書いて、提出しているのか放置されているのかわからない状態で置いていったのも、勿論ブレアである。
いい加減にしてほしい。そろそろ自分の身の周りのことくらい自分でできるようになって欲しい。
今日もブレアは来るだろうか。
もし来たら今日こそ“身の回りのことくらいちゃんとしなさい”と言おう。
そう思っていると、ガチャリと音を立ててドアが開いた。
ノックもせずに入ってくる人など、ブレアしかいない。
「ブレア!……と、ディアスさんも一緒でしたか。」
「失礼しまーす……。」
わざと表情を険しくして言おうとしたリアムは、ルークの姿を見て慌てて笑みを作る。
布団を教室内に入れたブレアは、いつもと同じ椅子に座って大きな溜息をついた。
「彼明日から実家帰るから、寂しいんだって。」
「先輩と離れ離れなんて無理です、先輩不足で死にます……。」
萎れたように大人しいルークを見て、リアムは苦笑する。
リアムとしては、是非帰って義妹から離れていただきたい。
けれどここまで落ち込んでいるのを見ると、そうも言いづらい。
「先生、お茶淹れてー。」
「わかりました。」
そんなルークのことを半ば無視して、ブレアは書きかけのレポート用紙や大量の参考文献を広げている。
それさっき片付けたのにな……、と思いながら、リアムは紅茶を淹れようと部屋の奥へ行った。
「先輩、横顔綺麗ですね。伏目で睫毛長くて綺麗で、何日でも見てられます。」
「……そ。」
ブレアの隣に座ったルークは、至近距離でブレアを眺めている。
一方のブレアは気にならないかのようにパラパラと魔導書を捲る。
正直に言えばかなり気になるが、相手をすると調子に乗るので気にしないふりをした。
「せんぱーい、やっぱり帰るの年末年始だけにしましょうか?」
「明日帰りなよ。お母さんが寂しがってるんじゃないの。」
帰りたくない、ブレアと一緒にいたい、という想いが視線に乗って伝わってくる。
引き留めてくれたりしないかな、と少し期待したルークは、「ですよね。」とがっかりしたように呟いた。
「俺がいなくても朝起きられますか?ご飯もちゃんと食べますか?」
「休日なんだから、起きなくていいでしょ。食事は……約束できないな。」
「ちゃんと食べるって約束してください!絶対食べないじゃないですかそれ!?」
ルークが叫ぶと、ブレアは「煩。」と顔を顰めた。
いつもルークがブレアを起こすのだが、試しに休日に起こさないでいると昼過ぎまで寝ていたことがある。
ルークが作るようになる前のことを考えると、食事もろくに摂らないだろう。
ブレアと一緒にいたい、というのも帰りたい理由の1つだが、それ以上にブレアの生活習慣が心配だった。
「先輩、俺無しで生きていけるんですか!?」
「いけるけど!?僕はこれまでの2年間ずっと1人部屋だったんだから。それに冬休みなんてそんなに長くないじゃないか。」
予想外の言葉に、ブレアはつい声を荒げてルークを見てしまった。
確かに同室を提案したのはブレアだ。家事などを任せきっていたのも認めよう。
けれどそんなもの、ルークがいなくても魔法でできる。
それなのにルーク無しでは何もできないと思われていると思うと、なかなか不快だ。
「……なんだか自分は家に帰らないような口振りですねえ、ブレア?」
ティーセットを持って戻ってきたリアムは、呆れたように苦笑する。
カップに紅茶を注ぐリアムを見て、ブレアは「そうだけど。」と短く返した。
「あれ、先輩も帰省されるんですか?」
「しないよ。」
帰らないと言っていたのに。とルークは首を傾げる。
「しないよ、じゃないでしょう。仕事が片付いたら一緒に帰りますよって言いましたよね?」
「言ってたけど、了承はしてないよ。」
ブレアが答えるとリアムは呆れたように眉を寄せた。
このやりとりは毎年、毎長期休みごとにやっている。
「いつもそんなこと言いますよね、いい加減にしなさい。母様や父様が心配しますよ。」
「ええ、先生のお母さん、僕が帰ったら機嫌悪くなるじゃないか。」
リアムがカップをブレアの前に置くと、ブレアは当然のように角砂糖をいくつも入れていく。
ルークにも紅茶を淹れながら、リアムは小さく首を横に振った。
「貴女の母親でもあると、いい加減わかってください。母様だって、ブレアがそんな態度だからどう接すべきかわからないんですよ。入れすぎです。」
「バレちゃったかあ。」
リアムがルークの方を向いている隙に放り込んでいたのだが、注意されてしまった。
ブレアは渋々といった様子でティースプーンを手に取り、カップの中を掻き回した。
「先輩、ご両親と仲良くないんですか?」
ありがとうございます、とリアムに礼を言ってから、ルークはブレアに聞いた。
「よくはないね。本当の家族じゃないから馴染めないっていうか……そんな感じ。そのうちマシになるかなとは思ってるんだけど。」
「貴女、もう10年近くそう言ってますが。少しは歩み寄ろうとすればどうですか。」
前の椅子に座ったリアムに見つめられたブレアは、誤魔化すように甘くなった紅茶を啜った。
いくら言っても無駄だろうと思ったようで、リアムもこれ以上は言わない。
先輩の家は色々大変そうだな、とルークが思っていると、リアムがあ、と思い出したように口を開いた。
「あとブレア、年明けにはリリが来てくださるそうですよ。」
「うわぁ、余計帰りたくなくなったよ。」
“リリ”という言葉を聞いて、ブレアはあからさまに顔を顰めた。
心底嫌そうなブレアの様子に、ルークは首を傾げている。
「ちゃんと挨拶できますか?」
「明けましておめでとうございますリリ、リリ……ごめん名前なんだっけ。」
リアムに促されたブレアは棒読みで挨拶の文を言おうとして――困ったように眉を寄せてしまった。
「リリカです。何度会ったら覚えるんですか。」
「先生がリリ、リリって言うからだよ。」
「人のせいにしません。1文字くらい覚えなさい。」
リアムは心底呆れているが、ブレアはもう開き直った。
むしろ名前は覚えていなくとも、存在を覚えていただけで及第点だと自分を褒めている。
「リリが会いたがってましたから、ちゃんと帰りましょうね。」
「嫌だー、僕は会いたくない。」
にこっとリアムが微笑むと、ブレアは大きく首を横に振った。
全力で抵抗したい、それくらい帰りたくない。絶対に、リリカに会いたくない。
「……あの!リリカさん?って誰ですか?先輩とどういった関係で!?」
話に入れていない、と若干焦ったルークは、勢い余って大きな声で聞く。
全く誰かわからないが、ブレアの知り合いとなるとどうしても気になってしまう。
驚いたようにルークの方を見たブレアは、さらっと簡単に言った。
「婚約者だよ。」
短い言葉を聞いた途端、ルークは勢いよく、倒れるように机に顔を伏せた。
ガシャン、と音が鳴って、カップの中で琥珀色の液体がぐらぐらと揺れる。
「婚約者……?先輩の?彼氏も彼女もいないって言ったのに?そんな人がいるなんて聞いてない……?どんな人なんだ?嘘だろ……。」
ぶつぶつと独り言を呟いているルークに、ブレアは若干引いている。
どうして誤解を招く言い方をするんだ、言葉の順番というものがあるだろう、と、リアムは困ったように額に手を当てた。
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