第83話 僕の名前、呼んでみて

 全く集中できていない様子のルークに、ブレアは呆れたように溜息をついた。

 何故さっきまでちゃんとできていたことが、名前を呼んだくらいでできなくなるのだ。

 むしろ“呼ばれたい”という願いを叶えてあげたのだから、やる気を出して欲しい。


「名前呼ばれたくらいで、何がそんなに嬉しいのかな。」


「それはもうめちゃくちゃ嬉しいですよ?しかも相手は“誰だっけ?”とか言う先輩です。好きな人に認知されてる〜!っていう嬉しさと好きな人に名前を呼ばれた嬉しさがダブルでくるんですよ!?」


 熱弁されたブレアはええ、と眉を寄せた。

 流石にルームメイトを認知していないほど馬鹿ではない。

 全く共感できないのだが、そういうものなのだろうか。


 ふといいことを思いついたようで、ブレアは体を起こす。

 グッと体を伸ばしてから、再びルークの隣に座った。


「呼んでみて。」


「……何をですか!?」


 ルークは若干食い気味に聞き返す。

 ブレアは呆れたような顔で人差し指を立てて、指先を自分に向けた。


「僕の名前、呼んでみて。」


「ですよね……。」


 ブレアは「それ以外何があるの。」とでも言いたそうな顔をしている。

 別にルークだって本気でわからなかったわけではない。

 そんなことを言われるとは思わなかっただけだ。


「君、名前で呼ばれたいって言うわりに僕のこと名前で呼ばないじゃないか。何で?」


 ブレアは不思議そうに首を傾げる。

 名前で呼ばれたいのに自分は名前で呼ばないのは、変ではないか。


「それは、先輩が名前で呼ばないでって言うからですよ!?俺だって本当は名前で呼びたいです、何なら連呼したいです……!」


「キモい、それはやめて。」


 冷ややかに拒否しながら、ブレアはそんなこと言ったっけと記憶を辿る。

 言った。ブレアは全く覚えていないが言っている。

 初めて会った時に言っている。


「まあ僕が言ったのなら取り消すよ。ほら、呼んでみて。」


 思い出せなかったブレアは諦めて適当に流す。

 ブレア本人でも覚えていないことを覚えているなんて、やっぱり怖いなと思った。


「本当に呼ぶんですか……?」


「何でそんなに渋るの。もしかして君こそ僕の名前覚えてないんじゃないの?“ブレア”って言ってくれたらいいだけだよ?」


「覚えてますよ!でも、先輩は先輩じゃないですか!その、名前呼びしてもいいのかなって……。」


 ルークは顔を真っ赤にして目を逸らす。

 本人がいいと言っているのに渋る意味が、ブレアにはさっぱりわからない。


「いいよ。先輩とか気にしないで呼び捨てしてくれたら。」


 ずいとブレアが前のめりになって顔を近づけてくる。

 いつも思うが、その姿勢は色々際どいのでやめてほしい。


「……うぅ、わかりました、いきます。」


 覚悟を決めたルークは、真剣な表情でブレアの方を向く。

 ルークだってずっと名前で呼びたかったが、ずっと駄目だと言われていたものが急によくなると、やはり戸惑ってしまう。


 長い間紫色の瞳と無言で見つめあった後、ルークは意を決して口を開いて――すぐに閉じる。

 また開いて、閉じる。

 しばらく視線を彷徨わせて、口をぱくぱくと開閉した後、ようやくその口が音を出した。


「……ブ、レ…………ァ先輩っ!」


「え、ちゃんと呼んだ?聞こえなかったんだけど。」


 顔を真っ赤にしたルークがようやく言うと、ブレアは目を丸くする。

 ルークは日和った。勇気を出したが、無理だった。


「できません……!先輩の名前綺麗ですよね、似合ってます。いつか呼ばせてください……!」


「情けな。いつかって、いつ……。」


 ブレアが呆れたように眉を下げると、ルークはすみません、と俯いたまま謝る。

 どうしてルークはそんなに照れているのだろうか。

 全く理解できないブレアは、少しがっかりしたように眉を下げた。


「……呼びたくないなら、別にいいよ。君が言うその“嬉しさ”を、僕も味わってみたかったのになあ。」


「すみません、俺が不甲斐ないばかりに……。あっ。」


 ブレアは小さく息を吐いて、再び寝ようと立ち上がる。

 しゅんと項垂れたルークは、はっとしたように小さく声をあげた。

 駄目だろう。これだってブレアを悲しませる行いじゃないか。と思った。


 ルークは立ち上がって、ベッドに寝転ぼうとしているブレアを止めるように腕を掴んだ。


「――ブレアっ!!」


 ルークはブレアに名前で呼ばれた時、当然すごく嬉しかった。

 大好きなブレアに呼ばれたのだから当然だ。


 もし、そんな小さなことで、ブレアも喜ばせてあげられるのなら――名前くらいいくらでも呼ぼう。

 そのくらいの勇気、絞り出してでも出そう。


 力みすぎた大きな声に、ブレアは素早く振り返った。

 宙を踊った綺麗な長い銀色の髪に目がいかないほど、ルークはその顔に釘付けになっていた。


 唖然としたように小さく開かれた口と、それを縁取る桜色の唇は小さく震えていた。

 じっと見つめてくるブレアの目は、驚いたように見開かれていて――瞳が潤んで、キラキラと輝いている。

 何より目を引くのは、その端正な顔が――髪の間から少しだけ見える耳まで、真っ赤に染まっていることだ。


「え、先輩可愛……え??」


 ルークは驚いて、ブレアと同じくらい目を丸くする。

 そんな顔、初めて見た。

 照れているのか、驚いているのか、怒っているのかはわからない、とにかく可愛らしい顔をしていた。


「――意味わかんないっ!」


 ぎゅっと唇を引き結んだブレアは、吐き捨てるように言う。

 突き飛ばすようにルークの手を振り解いて、布団に潜ってしまった。


「ええぇっ!?すみません先輩!嫌でしたか?やっぱり後輩が呼び捨ては不味い……いや、好きでもない男に馴れ馴れしく呼ばれたらキモいか!?」


 ルークはブレアが好きだから嬉しいが、ルークを好きではないブレアは、何も感じないかもしれない。

 そう思ってはいたルークだが、まさかこんな反応をされるとは思っていなかった。


「そ、そうだよ、君なんて好きじゃないから!話しかけないでっ!」


 反省会のように独り言を言い出すルークに、ブレアは潜ったまま返す。


「す、すみません……!申し訳ありません!許してください先輩〜!」


 “好きじゃない”という言葉にかなりショックを受けたルークは、ベッドの前に正座をして全力で謝っている。


 ルークの気配を感じながら、ブレアは布団の中でぎゅっと体を抱き寄せるように丸めた。

 意味がわからない。おかしい。


(何これ、僕変じゃない……?)


 もう冬だと言うのに、身体が少し熱い。

 全くと言っていいほど体を動かしてないのに、心臓が大きく脈打っている。


 ――嬉しいなんて、嘘じゃないか。


 そう思うのは、自分がルークを好きではないからだろうか。

 それとも、ルークが嘘をついたのだろうか。

 けれど――


(……もう1回、呼んでみてほしい……。)


 『もう1回言ってください!』と言ったルークの気持ちには、共感できてしまった。

 ルークは『先輩の気持ちがわかりません』と言ったが、ブレア自身が1番わからない。


 本当に、おかしくなっているな。

 そう思って、ブレアは不安定に回っている気がする頭を押さえた。

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