第58話 僕のこと好きだから、僕も好きなの

 揺れないように丁寧に、けれども急いで寮室まで帰ってきた。

 所謂お姫様抱っこされ、無言で目を閉じているブレアはもう寝ているのだろうか。

 起こさないように小声で術式を唱えて中に入る。


 ここで困ったことに気づいた。

 ブレアの不調の原因は恐らく寝不足だろう。

 すぐに寝かせるべきだ。

 しかし、寝かせる場所がない。


 寮室には当然ベッドがあるのだから、そこに寝かせればいい。

 そう思うだろうが、ブレアが移動手段として使っている部分を持って帰ってきていない。

 つまり今、ブレアのベッドは使える状態にないわけだ。

 となると――


(……俺のベッドしかないんじゃ……!?)


 深呼吸をして、落ち着いてもう一度室内を見回すが、やっぱりそれしかない。

 意を決したルークは、起こさないようにそっとブレアをベッドの上に寝かせて布団を掛ける。


 何もない、決して何もないのにドキドキしてしまう。

 緊急事態とはいえ、ブレアが――好きな人が自分のベッドで寝ているのだ。

 何も考えるなと言う方が無理だ。どう頑張っても色々考えてしまう。


 ベッドの前に持ってきた椅子に腰掛けたルークは、ぶんぶんと頭を振って煩悩を取り払おうとする。

 眠っているブレアに目を向けると、長い髪が顔にかかっているのが気になった。

 髪を払おうと優しく触れると、ブレアが「うぅ。」と小さく唸った。


「すみません病人には絶対手を出さないので安心してくださいっ!」


 起きていたのか、と驚きつつ慌てて手を引っ込めようとするが、目を閉じたままのブレアがその手を握ってきた。


「うぇ!?どうしました?」


 鼓動の速くなったルークが聞いても返事はなく、ブレアは気持ちよさそうに柔らかく微笑んだ。


「ん……お母さん……。」


 小さな声で甘えるように呟いたブレアは、すうすうと寝息を立てている。

 寝言だろうか。ブレアでも寝言を言うことがあるのか。初めて聞いた。


「〜〜っ!」(……可愛ずぎる゛っ゛っっ!!)


 叫びたい気持ちを必死に堪えたルークは、声にならない声で悶える。

 可愛い。寝言が“お母さん”。可愛すぎる。

 可能なら「お母さんですよ!」と細い手を強く握り返したいくらいだ。


 嫌な夢を見るから寝られないと言っていたが、この調子ならいい夢を見ていそうだ。

 いい夢を見て、はやく体調が良くなればいいな。

 そう思ったルークは、握られた手を軽い力で握り返した。






 少し殺風景だがごく一般的な、平凡な家の一室。

 窓の外はすっかり夕焼けのオレンジ色に染められていて、頼りなくなった陽光の代わりに、暖かい色の照明が部屋内を照らしている。


 部屋にいる長い金色の髪をした女性は、夕食の支度をしていた。

 できたばかりのスープを2つの器によそい、サラダやパンの並べられたテーブルに置く。


 たったった……と子供が駆ける軽い足音がして、後ろからぎゅっと抱きしめられた。

 何も持っていなくてよかった、と思いながら振り返ると、銀色の髪をしたまだ幼い少年が、紫色の瞳でこちらを見上げていた。

 少年の姿を見るなり、女性は嬉しそうに微笑んだ。


「お帰りなさい、ブレア!」


「ただいま。あのね、いくよ?見ててね?」


 少年の名はブレア――幼い頃のブレアだ。

 挨拶も程々に女性から離れたブレアは、顔の前で両手をギュッと握った。


「なあに?見てるよ。」


 女性が屈んでブレアに目線を合わせると、ブレアは短い術式を唱える。

 開いた小さな手のひらには、綺麗な白い花が乗っていた。

 5枚の花弁の小さな花が束になって、半球状のブーケのようになっている。

 ブレアがよく遊んでいた場所に、沢山咲いている花だ。


「まあ、素敵!」


「でしょー!でもね、もっと素敵にできるよ!」


 胸を張って言ったブレアの姿が一瞬ぼやけ、短かった髪が胸辺りまで伸びる。

 女体になったブレアはもう一度両手を握って、再び同じ術式を唱える。

 ぱっと手を開くと、両手に収まりきらない程沢山の花がこぼれ落ちた。

 ブレアが両手を高く上げれば、白い花が雨のように舞う。


「どう?」


「素敵!とっても綺麗!」


 1つの茎に沢山の花がついているこの花は、1輪でも小さなブーケのように華やかだ。

 ブレアは1番綺麗なものを選んで、女性に渡した。


「でしょ。これはお母さんにあげる!」


「嬉しい。ありがとう!」


 受け取った女性は愛おしそうに小さな花弁を撫で、もっと愛おしそうにブレアの頭を撫でた。

 優しく撫でられたブレアは、嬉しそうににっこりと笑う。


 この女性こそがブレアの母親で、ブレアが唯一知っている自分の血縁者だ。

 父親は知らない。とうの前に死んだのか、物心ついた頃には既に家にいなかった。

 父親の存在を示唆しているのは、彼の趣味らしい魔導書達と、恐らく父親似なのであろうブレアの容姿だけ。


 ブレアと母親は似ていない。

 サラサラとした銀髪にアメシストのような目を持つブレアだが、母の金髪は少々癖があり、優し気な目はトパーズのような黄色だ。

 ブレアは母の暖かい色をした目が大好きで、同じような綺麗な黄色い目に生まれたかったと思っていた。


「本物そっくり、すごいね。リアムくんに教えてもらったの?」


「うん!リアムすごいの、むえーしょー無詠唱でもできちゃうんだよ。でもね、僕の方が沢山お花出せるから、僕の方がすごいの!」


 得意気に言うブレアを見て、母は黄色い目を細めて柔らかく笑った。

 人見知りで自分以外に滅多に懐かないブレアが、嬉しそうに人の話をしてくれるのが嬉しかった。


「すごいすごい!あなたは本当にリアムくんが好きね。」


「好きだよ!リアムは僕のこと好きだから、僕も好きなの。」


 にっこりと笑ったブレアの言うことが少々以外だったようで、母は首を傾げた。


「ブレアのことが好きなら好きなの?なら、みんなのこと好きなんじゃない?」


「うーん。」と首を横に振ったブレアは、少しだけ寂しそうな顔をする。


「みんなの“好き”は嘘だよ。ペラペラかどろどろだから嫌。」


 子供の感性とは不思議なもので、大人にはわからないことを沢山抱いている。

 ぺらぺらかどろどろ、の意味はよくわからなかったが、ブレアが好きという言葉をあまり好んでいないことはわかった。


  少し悲しくなって、ブレアをぎゅっと抱きしめた。

 触れ合った温もりから母の気持ちを察したのか、ブレアは「でも、」と再び口を開く。


「でも、お母さんとリアムの“好き”はあったかくて気持ちいいから、好きだよ。」


 “好き”といったような愛情、好意を表す言葉は、心に直接干渉する。

 子供の愛は薄っぺらくて、表面を撫でるだけで消えていく。

 大人の愛は泥のようで、べったりと心に張り付いてくる。

 どちらも気持ち悪く、心の芯までは届かない。


 愛情とは綺麗で、素敵なものだと母は言う。

 ならばこれらの愛は偽物で。

 母やリアムがくれるような、優しく心の中まで入ってきて、暖かく溶けていく愛だけが本物なのではないだろうか。


 同じ言葉をかけられて、ブレアと同じことを感じる人がいるかはわからない。

 それでもブレアにとっては唯一絶対のものさしで、揺るぎないものだった。


「嬉しい。あのねブレア、愛情は1つじゃないんだよ。例えばお母さんが言う好きと、リアムくんが言ってくれる好きは、全く一緒かな?」


「うーん、似てるけどちょっと違う……かも。」


 抱擁を解いた母は、ブレアとしっかり目を合わせて問いかける。

 うんうんと頭を捻って考えたブレアは、なんとか答えを出した。

 2つともよく似ているが、全く同じかと聞かれると違う気がした。


「でしょ。人によって、相手によって愛情の形が違えば、伝え方も大きさも違う。だから感じ方にだって色んな差が出てくると思うの。」


 白い花の花弁を撫ながら言った母は、にこりと柔らかくブレアに笑いかける。


「ブレアが嘘だと思っている気持ちの中には、本物も混じってるかもしれないよ?嘘か本当かわからない愛をもらうこともあるかもしれないでしょ?」


「ないよ。お母さんとリアムしかいないもん。」


 怪訝そうに否定するブレアに「もしもの話だよ。」と言って、眉の寄った眉間をつんと指でつつく。

 くすぐったくてブレアの表情が緩むと、母はくすりと笑った。


「だからね、無理に本当かどうか決めなくていいんだよ。ゆっくり少しずつ、納得できるまで考えていけばいいんだよ?」


 ブレアはまだあまり納得がいっていなさそうだったが、「うん。」と小さく頷いた。

 少し難しかったかな、と思いながら、母は再びブレアを抱きしめた。


「お母さんはブレアのことがこんなに大好きなんだもの。ブレアを大好きな人が他にも沢山いないとおかしいってこと。」


「……うん。僕もお母さん大好き!」


 母の言いたいことは、ブレアにはよくわからなかった。

 けれども優しい言葉から強い愛を感じて、ブレアは心地よさそうに目を細めて笑った。

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