停電よ、こんにちは。
増田朋美
停電よ、こんにちは。
その日は、とにかく暑い日で、誰もがつかれたと言わざるを得ない日だった。東京や神奈川、さいたまなどの都心部は、すでに大雨の被害を受けていた。なんでも大雨で車のフロントガラスが割れてしまうなどの被害も出たらしい。そんな中、人間には何もできないものである。電車も車もストップして、ただ大雨が行ってしまうのを待つしか無いのだった。
その日、製鉄所に新しい利用者がやってきた。名前を増田良子というその女性は、一見すると何も問題がないように見えるのだった。少なくとも、表面的には問題がありそうに見えない。体は何処にも悪そうなところが無いのだし、食事が摂れないとかそういうこともない。だけど、彼女が書いた利用者名簿には、「感情のコントロールができない」と書かれていた。
「えーとそれはどういうことですかね。ご自身で分かる範囲で結構ですから、その感情がコントロールできないということをちょっと説明してもらえませんか?」
ジョチさんは、緊張している顔の彼女にそういったのであった。
「ええ、嬉しいとか、悲しいとか、そういう感情が自分で抑えることができないで、人に迷惑をかけてしまうのです。最近そういう事ばかりなので、もう死んでしまいたいと思っているのです。」
と、彼女は言った、
「そうですか。それで、病院の診察を受けたりしていますか。」
ジョチさんが聞くと、
「はい。病名は特についてはいないのですが、でも精神安定剤をもらっています。これがないと何もできません。」
と、彼女は言った。
「そうですか。それは具体的にどんなときにそうなるんですか?」
ジョチさんは記録用のノートをとりながら言った。
「ええ。災害が起きたときとか、ああ、よくあるのは停電が起きたときです。そういうときに、特にパニックになるんです。人の言うことも何を言っているのかわからなくなって、どうしたらいいのかもわからない。ただ、苦しい気持ちをとってくれとしか言えないんです。いや、それさえも言えないのかもしれない。」
と、彼女は涙をこぼしながらそういうのだった。
「わかりました。それで、ご家族はなにか仰っていますか?」
ジョチさんがまた聞くと、
「ええ、一応は家にいさせてくれています。ですが、私がパニックになって大声を出したりすると、なんでうちの子はこんなこともできないんだろうって顔をします。だから、余計に自殺してしまいたくなるんです。どうか、家以外の居場所がほしい。利用させてくれませんか?」
そう、増田良子さんは言った。
「そうですねえ。ご家族というのは、難しいものですからね。人間であるってことがもろに出てしまうのがご家族なんですよね。だからこそ、あなたもご家族も傷ついてしまうんですよ。だから、なるべく早くご家族以外の人に助けを求めるのが必要なんですけど、それは、日本人はどうしても難しいところがあるみたいですね。ヨーロッパ人であれば、平気で支援を求められるけど、日本人は人に助けを求めることが苦手な民族なのかもしれません。」
ジョチさんはそう解説した。
「実際、ご家族に助けてもらっても嬉しくないと言ってくる利用者は大勢いるんですよ。それはあなただけではありませんから、安心してください。」
「ありがとうございます。それでは利用させていただけますか?利用している間は、裁縫して、なにか作っていればいいと思うんです。」
「ああ、お裁縫がお好きなんですか?」
「ええ、それをやっていると、何もかも忘れられるんです。裁縫をしているときの私は、いろんなところから解放されて、すごく気持ちがいいのです。」
ジョチさんの話に、彼女はそう応じた。
「そうですか。わかりました。じゃあ、それで利用してもらって結構ですよ。一応、こちらの通所での利用時間は、10時から17時までですが、それを守ってくれれば、一日でも半日でも構いません。利用頻度は毎日でもいいですし、週に一度だけでも構いません。それはあなたが決めてくれて結構です。」
「ありがとうございます。それでは、今日から早速利用させてもらってもよろしいですか?もう家の中にずっといるのはつらくて、仕方ないんです。なんでなんでしょうね。家で好きなことやってるんだから、それでいいじゃないかって人には言われるんですけど、ちっとも居心地が良くなくて。」
「そうですね。利用者さんたちは皆そう言いますよ。特に最近はこのご時世ですから余計に家にいられないという人は多いです。図書館とかカフェで、長時間居座り続けているひとは、案外そういう人かもしれません。」
「ええ。そうなんです。だから何も居場所が無いんです。何もすることも無いし、何もできることもない。ホント、ただ居るだけの存在です。死んでしまったほうがいいのではないかって、私はそう思います。やっぱり、仕事をしていないと、人間はろくなことを考えませんね。学校の先生が、仕事をしていないと頭がおかしくなると言っていましたが、正しくそうです。だから早く私は、死んでしまいたいと思うんですけど、まだ、そうなれないんですね。」
彼女はジョチさんの前でその話をずっとし続けるつもりらしかった。ジョチさんはそれ以上話をさせても、進展は無いなと思って、
「わかりました。居室があったほうがいいですか?それとも、食堂などで裁縫している方がいいでしょうか?」
とあえて彼女に聞いた。
「ああ、ごめんなさい。私喋りすぎてしまいましたね。そうですね、居室はいらないですけど、私の居場所はほしいですね。私は、一人で居るのもつらい時があるし、そうではないときも、あるんです。だから、本当にわがままですね、私。」
そういう彼女に、
「ええ、そうかも知れませんが、それも方向性が見えてくれば、また変わってくることでしょう。それは、あまり急がないでもいいと思います。じゃあ、あなたのすることには僕は何も手を出しませんから、どうぞこの製鉄所を自由に使っていただいて結構です。お好きなようになさってください。」
とジョチさんはにこやかに笑っていった。そして、こちらに来てくださいと言って、彼女を製鉄所の食堂に連れていき、ここに座って、好きなことでもやっているようにと言った。
「わかりました。ありがとうございます。」
と彼女は言って、カバンの中から小さな裁縫箱を広げた。そして、その中から、布を一枚取り出すと、なにか縫い始めた。
「ほう、何を作って居るのかな?」
杉ちゃんが、車椅子でやってきて、彼女に言った。
「巾着です。それしか作るものがなくて。」
と、小さい声で答える彼女に、
「はあそうか。じゃあ、他のものを作って見ないか。縫い方を教えてやるから、簡単な和裁をやってみないか?」
と、杉ちゃんが言った。
「和裁?」
「ああ、着物を作る技術だよ。」
杉ちゃんはそうさらりといった。
「着物なんて私、着る機会がありませんわ。」
増田良子さんはそう言うが、
「いや、着物を着て、可愛くなることで強くなれる人はいっぱいいる。」
と、杉ちゃんは言った。
「じゃあ、まずはだな、縫い方を教えるから、手を動かしてみな。口を動かすより手を動かしたほうが、気持ちが安定するってもんだぜ。」
杉ちゃんに言われて良子さんは彼に言われる通り手を動かした。そこへ食堂にやってきた水穂さんが、
「ああそういえば今日、新しい利用者さんが見えると伺いました。お名前はなんですか?」
と、良子さんに声をかけた。その水穂さんの容姿がとても美しかったので、
「すごいきれい。信じられませんわ。」
と、良子さんは言ってしまうのだった。
「そうじゃなくて、お前さんの名前を水穂さんに言うんだよ。」
杉ちゃんに言われて、良子さんは思わず、
「は、はい。私は増田良子です。富士市内に住んでいます。」
と顔をそむけて自己紹介してしまった。
「わかりました、はじめまして増田良子さん。僕は磯野水穂と言います。ずっとここで、手伝い役としていますけど、今は体調を崩していて、手伝い役は別の人に任せています。」
と、水穂さんはにこやかに笑っていった。
「ありがとうございます。こんなきれいな人に、話をさせてもらえるなんて私は夢みたいですわ。それに、何も居場所が無いって言うところも共通してる。やることが無いってことは、居場所が無いことでもありますものね。手伝いを人に任せているって、決して気軽なことじゃないですよね。」
どうやら増田良子さんは、喋りだすと止まらないらしい。杉ちゃんたちはそれをあえて止めなかった。
「ああ、ああごめんなさい。口を動かすより手を動かさなければだめですよね。すぐになんとかしなければ。」
と、彼女は、急いで布をとって縫い始めたがそれが急ぎすぎて、手を刺してしまった。
「大丈夫ですか。針で手を刺してしまうと痛いですよね。気をつけて縫ってくださいね。」
と、水穂さんは咳をしながらそういう事を言った。
「そうそう、そういう感じ。それで指をこう、、、。」
「洋裁とは全然違うんですね。」
増田良子さんは、にこやかに言った。
「まあ、それが日本の技術だよな。和裁で縫ったのは、三代くらいまで着続けられるぞ。」
と、杉ちゃんはにこやかに笑った。
「私、日本の文化は本当に嫌なことばかりで好きではなかったのですけど、和裁というのは、すごい技術だなと思いました。私、感動しましたよ。なんか素敵だなと思いました。」
増田良子さんはそんな事を言っている。
「そうなんだね。まあ、日本では当たり前にあった技術だが、それが消滅しそうになっているのが、悲しいところだな。それに和裁を知っているやつが年寄りばかりになるのが気になる。だから若いやつに和裁をやって欲しい。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうですね。若い人に和裁をやって欲しいですか。私、それなら立候補しようかな。なんか、そういう事をさせてくれるって、嬉しいですね。」
と、増田良子さんは言った。
「まあ、やるやつがいないってことよ。それでも、お前さんが和裁をやってくれるというのなら、僕らも変な芝居は打てないな。ちゃんと真剣に習ってね。」
杉ちゃんはにこやかに笑った。
それと同時に、雨が降ってくる音がした。
「降ってきたみたいですね。」
水穂さんがそう言うと、
「咳が出るから、少し休んだら?」
と杉ちゃんが言った。そのうち雨はだんだん大降りになってきて、やがて車軸を流すような大雨になった。
「夏に時たまこういう雨がふるんです。よくあることだと思ってますけどね。」
と、水穂さんがそう言うと同時に、ピカッと稲妻が光って、ゴロゴロドシャンと雷の音がした。
「全く、最近は、雨が降るとなるとこうなってしまうんだよな。そして晴れればカンカン照り。まあ困っちまうが、そのうち止むと思うよ。」
杉ちゃんもそう言うがそれと同時にまた稲妻が光って、ゴロゴロゴロゴロ、ドシーン!と大きな音がした。それと同時に増田良子さんが、
「ギャーッ!」
と人間ではないような叫び声をあげて、針もいとも放り出して、テーブルの下に潜り込んだ。
「耳栓、持ってきましょうか?」
と、近くで勉強していた別の利用者が言った。
「以前、工事現場で働いていたときに、使ってた、耳栓があるんです。」
利用者はそう言って、カバンを開けて、ヘッドホン式の耳栓を取り出して、彼女の頭につけた。それのお陰で、かなり雷の音は抑えられるのではないかと思われたが、増田良子さんはお礼さえしなかった。
「お礼くらい、しろよ。」
杉ちゃんがそう言うと、また稲妻が光ってゴロゴロゴロ、ドシーン!という音がした。良子さんは、また両手で顔を覆って、テーブルの下に潜ってしまった。
「おい。何か言ってもらえないだろうか?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ご、ごめんなさい。私が代わりに言ってもよろしいでしょうか?」
と、増田良子さんは、先程とは全然違う口調でそういったのである。
「私が代わりにってどういう意味かな?」
と杉ちゃんが言うと、
「ええ。良子さんは、雷が怖くて動けないんです。だから私が代わりにお願いしたいんです。」
と、彼女は言う。
「はあ、そうですか。でも喋ってるのは、間違いなく、増田良子さんだと思うんだけどね?」
と杉ちゃんが言うと、
「はい。良子さんが役を変えろと指示があったものですから。」
と彼女は言った。それと同時に、製鉄所の明かりが消えた。それと同時に良子さんが再びギャーッと叫んだ。しばらく良子さんは動作も何も止まったままであったが、また違う口調に戻って、
「申し訳ありません。私が代わりに謝ります。良子さんの代わりに私が謝りますから、許してあげてください。」
というのである。
「わかりました。良子さんに、そうなってしまうのは仕方ないことなのだと伝えてあげて下さい。」
水穂さんが静かな口調で、そう彼女に言った。
「多分きっと良子さんは、叫んだり泣いたりするしかできないから、あなたが代理で話をしているんですね。仕方ないことですよ。良子さんはそうするしか、手段がなかったんですから。それでは、あなたの名前はなんですか?」
水穂さんがそうきくと、彼女は、
「私は、増田良順と申します。」
と違う口調で答えた。
「いつから、良子さんの代理人を勤めているのですか?」
水穂さんが聞くと、良順さんは、
「ええ、良子さんが、家に居場所がなくて、こんな惨めな思いをするのはもう嫌だといったので私が呼び出されたのです。」
と答えた。
「つまり、多重人格だね。」
と、杉ちゃんが言うと、水穂さんがそれを止めた。
「杉ちゃん、こういうときに他の人格さんを否定してはいけません。彼女はそうすることでしか生きるすべもなかったということですからね。それをまず認めてあげないと。では良順さん、あなたはどうして、ここに呼び出されたのでしょうか。良子さんが、あなたを呼び出さなければならない事情を、知っていますか?」
水穂さんはそう良順さんに聞いた。
「それを話して何になるというんです。彼女がそれを話して、救われると思いますか?それができないから私が呼び出されなければ、いけないんじゃありませんか。」
良順さんは、そう言っていた。確かにそういうことであれば、良順さんが現れる必要があったということになる。そしてそれが、大事なことであることもはっきりわかった。
「良子さんは、雷とか、大雨のような自然災害で恐怖を感じているようですね。それは、なぜなのでしょうか?彼女は、なにか重大な事を自然災害で経験しましたか?」
水穂さんは、そう彼女に聞いた。
「それを教えなければいけませんか?」
良順さんは、すぐに水穂さんに言った。すると、応接室からジョチさんがやってきて、
「ええ、これで良子さんが抱えている問題がはっきりしましたので、彼女を治療に導いていかなければなりません。そのためにも、良順さんがなにか真実を知っているのであれば、ぜひ教えてもらいたいんです。」
と言った。これを聞いて、良子さん、いや良順さんは、えらく怒った顔になり、
「治療って、私は必要だから呼び出されました。これからも良子さんは、私が必要だし、私がいなければ何もできないんですよ。私は、彼女が叫び声を上げたときに呼び出されて、それ以来ずっと良子さんと一緒に暮らしていますが、皆さんは、私を何処かへ追い出そうとしているようですね。でも、私がいなければ良子さんが、生活できないのを、皆さん誰もご存知ない!」
といったのだった。
「このままでは、良子さんが完全に交代人格に乗っ取られてしまう。精神科とか、そういうところで、なんとかしなければいけません。雨がやんで停電が終わったら、すぐに影浦先生のところに電話しましょう。」
ジョチさんがそう言うと、
「待ってください!私が、なんとかしなければ、良子さんはとても生活できないんです!」
と良順さんはそれを止めた。それがあまりにも逼迫した言い方で、良子さんが良順さんを必要としているというか、それに依存していることがわかる様な言い方だった。そして、良順さんも、彼女がそう思っていることを知っているのかもしれなかった。
「そうなんですね。確かに僕たちは知りませんでした。良子さんが、恐怖をコントロールできなくて、良順さんが彼女を助けていることも知りませんでした。」
水穂さんがそっと良順さんに言った。
「まず初めに、良子さんの代わりに、僕たちと話をしてくださって、ありがとうございます。それは感謝しなければなりません。この場でお礼させてください。」
「はあ?別の人格にお礼なんか言ったって。」
と杉ちゃんが言うが、水穂さんは話を続けた。
「いえ、本人ができないことを良順さんがやってくれているのですから、まずそれはお礼しなければいけませんよね。きっと良子さんご自身は、雷とか、停電などに耐えられないので、良順さんに代理で話してもらうことを頼んだのでしょう。ですが、良順さんに頼りっぱなしでは、良子さんがこれから生きていくことはできなくなります。まず初めに、あなたが、もう良子さんが大丈夫であることを確認していただきましょう。そうすれば、あなたは良子さんにさようならをして、良子さんではなくて、別の方のものになればいいでしょう。」
「はあ、えーとそうですか。それで、良順さんに、代理で話をしてもらうように頼んだのか。なんだか人間って不思議だね。どうしても耐えられないことがあると、そうやって別の人間に頼むんだね。」
杉ちゃんは、でかい声でわざとそういう事を言った。
「きっと、良子さんは、そうやって話してくれる人がいなかったから、自分で発言することができなかったのでしょう。だから、良順さんを呼び出したんです。それはきっと、良子さんが、良くなってくれれば、また変わってくるのではないかと思います。」
水穂さんがそう言うと、やっと雨は静かになって、相次いでなっていた雷も静かになっていった。それと同時に停電していた製鉄所のエアコンがまた動き始めた。
「そうなんですね。」
と、良順さん、良子さんは言った。
「ごめんなさい私。」
と、良子さんの声に戻って小さい声で言った。
「大丈夫です。症状がわかったから、あなたの治療を考えることができました。」
「そう考えると水穂さんが言う通り、良順さんには感謝しなければならんな。」
ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「きっと良子さんは居場所を見つけて楽になることができますよ。」
水穂さんはそう優しく言うのだった。
停電よ、こんにちは。 増田朋美 @masubuchi4996
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