第18話
「統領がエチオピア侵攻を決断したときの本邦の戦争準備についてはどの程度知っているかね?」
レンツォとおなじく公職を追われた男が、古びた狭い校舎の教壇に立って言った。
答えを聞かないうちに彼は振り向き、黒板に書き連ねる。
師団の充足 5割に満たず。
弾薬
小銃弾 4会戦分に満たず。
野砲兵 1と半会戦分。
燃料 ガソリン
陸軍 半年分。
空軍 1年分 ※ただし平時換算。
後になるほど叩きつけるように記し、白墨を何本か折っている。
ダン! と黒板にピリオドを穿ち、そして少し息の乱れた彼は振り向く。
「これが!
足りるはずがないだろう。しかも次はスペインと来た。
国庫の準備金はあっという間に枯渇したよ。従軍から戻ってみればスッカラカンだ。
さらにさらに、そう言って男は声を高める。
「かてて加えてなにしろ統領は馬鹿だからな! 取り巻きもまあ似たようなものだが、今度の戦争を止めただけ『si,si,』と鳴くしか能のないイヌよりはマシか。
さてドイツ人に同調して始めようとしたときはどうだったか知りたいか」
レンツォの答えを待たずに男は黒板を振り向く。
ただ一言で逮捕されても仕方がないほどの反国家的呪詛を吐き散らすこの男、前財務大臣のグイド・ユングである。レンツォよりもより激しくファシストであり、そして党に裏切られた男だ。
生粋のイタリア人ファシストよりもファシストたらんと振る舞った結果、彼はユダヤ人コミュニティから排斥されて久しい。そして昨年の反ユダヤ法により公職からの完全追放を受けてどこにも寄る辺がなくなり、今はこの潰れかけの大学受験のための私塾の雇われ講師となっている。息が乱れているのは興奮だけではないらしいことは、声を高めるたびに漂うアルコール臭で察することが出来た。
孤立を深めて落ちた男に、相手の反応を見て会話することを求めるのは酷であろう。レンツォは説明されずとも分かり切っていることを、グイド・ユングが落ち着くまで黙って傾聴する。
「……さてさて、兵備のお寒い事情はこれくらいとして、次は生産の点だ。
統領が最優先と指定した軍需について、鉄鋼が二週間、精錬前の鉄鉱石が半年、そしてニッケルが三週間。
いやはや大したものだな、我がイタリアは」
一気に言い終わってグイド・ユングはふぅっ、と息を吐いた。呼吸が落ち着くのを待ってレンツォは声をかけた。
「多少は改善しましたが、現状もたいして変わりはありません」
「だろうな。それにもかかわらずバルボは統領の対英参戦方針に合意しているんだな?」
「やむなく、ですよ。彼も賛成はしていません。しかし止めようがない」
「だからこそベストを尽くす、か」
軽蔑したような声音でグイド・ユングが語るのに、レンツォは動じずに言った。
「そのとおりです。
貴方が大臣を辞した後に志願してアビシニアで戦ったように。
バルボも、私も、戦争となればベストを尽くすのみです」
グイド・ユングは鼻白んだようにレンツォを睨んだ。
「なにしろ見てのとおり蚊帳の外なんでな。
現状は把握しておらなんだが、戦争資源の備蓄は一年前から多少なりと回復したのかね?」
「ほとんど変わりありません。消費を抑えるのがやっとで、市中からの回収を進めているようですが成果は上がっていないようです」
「君も詳しくは知らんのか」
「私も公職…といっても非公式に過ぎませんが…復帰はつい最近ですので」
「良い友をもったな」
皮肉たっぷりのグイド・ユングにレンツォは黙ってやり過ごす。レンツォが乗ってこないのに興を削がれたのか、グイド・ユングはすぐに本題に入った。
「では何故、ニッケルを日本に売ろうと考えた。
備蓄が足りないというのを承知の上でのことなんだろう?」
「恩を売るためですよ」
レックスそのものの売却だけでは、バルボが日本で買いつけた種々の資産・技術の代価にはまだ足りなかった。バルボはレックスの内装に手を加えない範囲で最大限の乗客を乗せることを画策し、それでもって支払いの足しにしようと考えた。
乗せるのはドイツの暴風から逃れんとするユダヤ人たち。
国内外から出国希望者は後から後から押し寄せてくるのだから、運賃はいくらでも吊り上げられる。それでも限界はあった。
正式に積算してみたところ、そうした船価と運賃だけでは支払いにやや足りないとなり、どうしたものか悩んでいたところに日本の商社から、至急ニッケルを調達したいと問い合わせがあったのに飛びついた格好だ。
イタリアでも不足がちな資源だから当然のように足元を見て交渉する。
日本商社の方もイタリアの事情は了解しているから、相場より大分高く売りつけることが出来た。恩着せがましく増量もしてやった。
日本人はひどく感動していたがこれにはからくりがある。
「アルバニアか」グイド・ユングがうなる。
「併合後の集中調査で新鉱山が発見されました。まだ公表されていませんが、油田も新鉱脈が発見されたので、一服するくらいにはなります」
「戦争をするにはとても足りんよ、それでも。
日本に譲ってやるほどの余裕とはとても思えん」
「しかし本邦は、日本から
「それほどのものかね」
「現在我が国が保有する主力エンジンの五割増しの出力、と言えば分かりますか」
グイド・ユングはその驚きを沈黙で示してみせた。
その沈黙に乗じて、レンツォは訪問の本当の目的を告げる。
「つきましては、グイド・ユング閣下。
貴方にはこの
そして、指摘されたとおり貧弱極まりない我が国の戦争資源の管理をお願いしたい」
「統領の指示か?」
「いいえまさか。
グイド・ユングはレンツォに少し待て、と言って席を立ち、教室から出ていった。
開け放した扉から、洗面所の激しい水音がしばらくほとばしったかと思うとパン、という音とともに途絶える。
濡れそぼった髭から水滴を垂らしながら、両頬を赤くしたグイド・ユングは目をギラつかせながら歯をむいて笑った。
「先に言っておく。
私が財務省にいた頃にやったことは、君も、もちろんバルボも承知しているな?」
「はい」
「戦争とはいえ、軍需の絶対優先は私は許さない。バランスで最優先することは指示に従うが、均衡を崩す偏重については断固として拒否する。
それは前もって言っておくぞ」
「分かりました。
ちなみにその均衡をどのあたりに見出すかはバルボ次第であることを、私も前もってお伝えします」
「ふん。まあいいさ。
それでどの程度まで私が扱えるようになるのかの目処は立っているのか」
イタリアぜんぶ、というのはさすがに期待しちゃいないがね、とグイド・ユングは軽口を叩く。
場合によっては、とレンツォが応じる。
「イタリアぜんぶ、を任されるかもしれませんよ。
しかし当面はバルボの職掌する範囲がすなわち閣下の扱える範囲とお考えください」
「当面は、か」
グイド・ユングはそう繰り返した。
レンツォの言葉の意味がもしも自分の想像どおりであれば――
迂闊に言葉にしかけたのを飲み込んで、 グイド・ユングはうなずいた。
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