第12話

 1940年が明けて早々に、バルボは日本を発った。

 思えば長い滞在だった。統領の妨害と覚悟していたが、ここまで長くなるとは思いもよらなかった。

 しかしそれによって得たものも多くある。この国で過ごした日々が無為であったか有意義であったか、それを決めるのはこれからの自分にかかっている。

 半年前は一飛びで済んだ旅程が、今は一月近い日時を浪費することに焦りがちな気持ちを鎮めようとバルボは努めていた。


 それでも苛立ちを押さえられないことはある。

 帰国便に仕立てられた列車に、バルボが遅れて海拉爾ハイラルで乗り込んだ時に知り合った男にやたらと絡まれて往生する。専用列車といえども密封されたのは貨車だけで、ソ連に入るまではバルボら一行の専用客車が用意されているわけではない。ドイツと日本の貿易仲介でいま多忙を極めると自慢するその国籍不明の白人は馴れ馴れしくバルボに絡んできた。適当にあしらっていたが、満州で買い付けたモノを嗅ぎつけられたと分かっては無視も出来ない。


「満州飛行機から購入したのは液冷エンジン用の工作機械でしょう?

 新京の貿易仲間の間でも大きな取引だと話題になりましたよ。

 しかし、いい買い物をしましたな。これでダイムラーDB601の生産も安心ですな」

 イヤめでたい、そう貿易商の男は無邪気に言う。

 バルボをなかば無視する形で進められたドイツの液冷エンジンのライセンス生産権の交渉妥結は極東のイタリア人界でもそれなりに話題になっていた。

 ドイツは空軍の活躍をさかんに喧伝していたし、そのドイツの最新精鋭機が積んでいるのとまったく同じエンジンを生産できるとなれば騒がないほうがおかしい。

 だがそれでより、統領らがドイツにのめり込むことになったと言う事実のほうがバルボには頭の痛い話だった。

 エンジン開発での劣勢を思えば当然歓迎すべき決定ではあるが、それと引き換えに失うものを考えれば……。

 それでもそれを気取られぬよう、バルボは応じた。

「とはいえ少し足元を見られた。高い買い物だったかもしれん」

「いやいや。日本人の作るモノを買うよりはずっと賢いです。アメリカ製の工作機械がほとんどだと聞いてますよ。なら安心じゃないですか」

 日本人に個人的な恨みがあるのか、男の声が怒りと嘲りを含んだものに変わる。

「そういうものかね」

「そらそうでしょう」

 男はそう言って、手にしていた新聞を広げてみせた。日本語の新聞だからバルボにみせても意味のないものだが、飛行機が舞う場面が大きく刷られているのが目に止まった。

「昨年末某日、勇敢なるわが海鷲は長駆、崑崙関の強敵を爆砕せり、だそうですよ。 

 新型戦闘機、支那空軍を完全破壊! などと威勢のいいこと言っていますが、日本人がそんな飛行機を作れるわけがない。将軍に売り渡した機械だって使いこなせないからに決まってます。

 だいいち、漢口から崑崙関までどれだけあると思っているのか……とと、拙い」


 捲し立てる男が、国境前最後の満州国軍(実質は日本軍)が現れたのに気づいて慌てて新聞を畳む。

 車内検閲と見て、すばやく旅券と書類を出して白人らしからぬ卑屈な笑みを浮かべる男を一瞥もせずに、検閲のボスらしい男がバルボに敬礼をする。バルボもまたそれに応じた。

「小官らはここまでです、元帥閣下。旅の安全をお祈りしております」

「ありがとう。ここまでご苦労だったな」


 そのやり取りに唖然とする貿易商の男にバルボは言った。

「男なら堂々としていろ。このバルボに絡んできたときのようにな。

 それと、日本人の作るものもそう捨てたもんではない。

 いちど機会があればその目でたしかめることだ」

 男の返事を待つことなく、バルボは席を立った。


 国境の町、満州里では貨車の車輪を標準軌からロシア広軌に変更するために一泊する。貨車を密封したままで国境が超えられるのは願ってもないことだが、このために足止めを食らうのが玉に瑕。

 鉄道貨車の軌間合わせで足止めされる間、バルボは現地の名士から国境警備・検閲にあたる日本とソ連、双方の役人・軍人から厚遇された。どちらも階級の別なくバルボのサインを欲しがり、応じると上機嫌で戻っていった。


 満州里駅/ザバイカリスク駅で専用客車に乗り込んだのは、バルボと僅かな随員、そしてバルボによって留学を中断され、技師や操縦士に転身させられた47人の若者だった。

 専用客車といえどそれぞれに与えられたスペースは大差ないほぼすし詰め状態。密封された貨車をつなぐ特別運賃に予算をとられたために、客車の手配台数が削られた結果だった。

 しかし、これが二週間もの長い旅路ではかえって好都合で、他にすることがないのでバルボは自身に人生設計を捻じ曲げられた人々と長いこと話し込む。

 モスクワにつく頃には、バルボは将棋のルールを一通り覚えてしまっていたし、日本滞在中からずっと悪感情が支配していた若者たちのバルボへの評価は一八〇度転換することになった。狭い車内で頻繁に接触した結果、彼らもまたバルボの信奉者・崇拝者になってしまったのである。


 ようやくのこと到着したモスクワでも、バルボを「歓待したい」と希望する者は続々と現れたが、バルボはその全てに断りを入れた。


 現在、ソ連はフィンランド戦争を行っているからだ。


 広告塔としての自身の利用価値を自覚しているバルボは、(もし万が一、相手に私心がなかったにしても)ただバルボが動いた、というそれだけで国際社会に要らぬ刺激を与えかねないことを恐れた。そのために全ての招待や要請をすべて断ったのだった。


 こうしたバルボのつれない反応に対する報復なのか、到着後のイタリア帰国便としてモスクワ〜オデッサで汽車と船を手配していたのに、ソ連の都合で急きょ、モスクワ〜ロストフ・ナ・ドヌー〜タガンログに旅程を変更させられた。

 汽車はソ連が用意しても、タガンログに船を呼び寄せるのは間に合わない。

 そう思っていたが、前世紀の名残でタガンログにはコネのあるイタリア人も多く住んでいる。そうした住人らがバルボのためなら、となんとか貨物船を一つ押さえてくれたおかげで、タガンログで足止めを食らうことなく、一月のうちにボスポラス海峡を抜けることができた。


 イスタンブールに寄ることなくまっすぐにイタリアへ向かうことを残念がるようなものは一人も居ない。バルボと、バルボの新たな47人の志士は、一刻も早くイタリアに帰らねばならないと固く決意している。

 海峡を抜ける間、両岸の絶景には目もくれず、バルボはただ前だけを見つめ続けた。

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