第11話

 1939年末。

 バルボは汽車で呉に向かっていた。既に購入した諸々の品は荷造りして大連に前もって送ってあるから、これが日本での最後の仕事になるはずだった。


 けっきょくのところ、バルボがもっとも力を入れていた12試艦戦の購入交渉は不調に終わった。

 それどころか、日本軍はバルボの乗った機体も含めて、12試艦戦の試作機・増加試作機を根こそぎ中国戦線へ派遣し、特別編成の部隊で実戦に投入するというのだから慌ただしい。

 浮足立っているといってもいいかもしれない。秋口に中国空軍(実態は欧米その他の列強義勇軍)によって主力部隊の飛行場が奇襲されて大損害を受けたから、その反撃のために総力を結集するのだというが、試作機まで持ち出すのはよほどのことだ。

 もともと機体構造、主翼桁に日本の機密である超々ジュラルミンE S Dを用いているため、輸出許可の下りる可能性は絶無に近いと三菱側からも言われていたが、機体そのものが払底しているのであれば可能性は完全にゼロである。

 強引に不可能を可能にしてきた男バルボでも、さすがにそれは覆しようがない。

 代わりに中島が開発している12試艦戦の廉価版(輸出仕様)の構造計算書と、火星を用いた大馬力・高速戦闘機の企画書・設計原図を購入する。こちらは構造材に機密の材料も使われておらず、実機もないので格安に獲得できた。

 次善の策、というにはやや不足感は否めないが、なにも得られないよりはずっとマシだった。



 12試艦戦の試乗以来、バルボはずっと買い付ける側だった。

 それがここ呉では逆転する。バルボは今度は購入客としてではなく、売り主として交渉に当たることになっている。勝算は相応にあったものの、緊張は否めない。

 バルボ一人では不安のある大物の売却交渉であったから大使館付の海軍武官も同行していて、これも悩みのタネの一つだった。

 今まで手に入れた様々な品は帰国後のバルボの支持を広げるのに大いに役立つと見込まれていたが、あくまでその広がりは空軍にとどまる。

 バルボは帰国後、空軍を超えた広範な、あらゆる層からの支持を取り付けたいと願っていた。そうでもしないと統領に追い落とされることは必定という危機感がある。


 そのためには海軍にも何かしらの土産は必須。

 今回の呉出張に海軍武官を同行させたのも、バルボが交渉で得る土産がイタリア海軍にとって好ましいものであるかどうかを見極めるためだった。

 欲を言えば陸軍にもなにか土産を、と思っていたのだが、派手な大物についてはあいにく時間切れで諦めざるを得なかったぶん、(海軍の要望をあまり把握はしていないけれども)ここでは必ずなにか成果を得たい。

 これが日本での最後の本格的な商談ということもあり、バルボはただならぬ決意を持って乗り込んだ。


 イタリアの誇る豪華客船「レックス」の売却交渉は拍子抜けするほどに簡単に終わった。

 日本海軍側の手配で三菱重工長崎造船所・川崎重工業神戸造船所の担当者も呼びつけられ、軍民同席の場でほぼバルボの言い値での売却が成立する。

 日本では天皇の2600年紀を記念した大祝賀事業の一環として、豪華客船建造事業が軍民共同で進められているが、日中戦争の影響もあり建造の進捗が捗々しくないという。特に豪華客船に必須の瀟洒な内装の製造が遅々として進んでいないそうだ。


 そこでバルボは、ドイツがはじめた今次の欧州戦争のために、地中海に封じ込められて無聊をかこっているイタリアの保有する豪華客船の売却を打診したところ、日本側が飛びついてきた。結果、「レックス」が日本に売却される運びとなったのである。

 日本側は大祝賀事業の目玉である豪華客船の完成が遅延することを何よりも怖れていた。「レックス」から取り外した内装で体裁を取り繕っても、就役が間に合うのならそれで十分と考えているようだった。


「レックス」がほぼ満額で売却されたことに安堵したバルボだが、海軍武官がそれだけでは満足していないことにも気づいている。

「レックス」が世界に誇るイタリアの顔、といっても、バルボにとってはさほど思い入れのあるフネではない。事前に海外業者も含めて建てた査定の評価額にも「そんなものか」と納得していたが、その建造に全面協力したイタリア海軍武官としては安く売り飛ばしたように見えたようだった。


 その不満を和らげるのになにかいい材料はないか。

 バルボは大急ぎで想像をめぐらす。イタリア海軍が欲しがっていて、日本海軍がもっているもの。色々とイタリアにはないものを持っている日本海軍だが、その中でも特にイタリア海軍が欲しがっているもの、日本海軍が売り渡しても不満を抱かないちょうどいい塩梅の交換材料。


 交渉の舞台となった戦艦「長門」の長官公室の舷窓から見えた影にバルボは閃いた。アレならば日本海軍も売ってくれるのではないか。もちろん現物などでなくて、設計図でもなんでも良い。イタリア海軍には影も形もない代物だ。

 そしてそれは、バルボがこれまでずっと陰に陽に取得を阻んできた代物でもある。


 しばし、バルボは逡巡する。

 今でもそれの保有を海軍に許すのは不満がある。

 川の堤の蟻の一穴のごとく、そこから空軍の裁量にまで浸潤してくる虞れはおおいにある。それを警戒していたから、これまでも阻止してきた。

 だが、バルボのこれからの野望を思えば、海軍の支持なしにこの先にバルボが命脈を保つのも難しいというのも事実。

 ここは折れる場面だ、そうバルボは結論するとニヤリと笑ってGF長官に伝えた。


「あのフネに乗ってみたい」


 商談が成立して穏やかな雰囲気の日本側は、そうしてバルボが指さしたフネを見て快諾する。彼らにとってとりたてて言うところのないフネだったからだ。

 いっぽうでバルボに同行の海軍武官は驚愕している。

 およそバルボが存在を許すようなフネではないからだ。 


 バルボは驚きに目を見開いている海軍武官の反応に、内心で拳を固めた。

 上手くいった。これを得られれば海軍の融和も期待できるだろう。


 日本人はイタリア人たちが興奮しているのをみな少しばかり不思議に感じていた。

 あんな小さなフネ空母鳳翔がそれほど珍しいのか。


 ドイツ軍の海軍将校らが「赤城」を見学したときの反応との差に、日本人たちはイタリア海軍に対する偏見をあらたにする。


 相互の意識のすれ違いは滑稽なほど。

 だが、それでも互いに欲しい物を得ためずらしい交渉の終幕だった。

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