第8話

 統領がバルボを遠ざけ、日本へ送ったこと自体は、統領の支配体制の安定を図るうえで正解だったと言える。

 しかし局地的に見れば、それは失敗という他ない結果にも繋がっていた。

 在東京イタリア大使館の現状が、それを物語っている。


「我が空軍が抱える問題は3つある。

 エンジンと工場、そしてパイロットだ」


 来日から半年。

 それだけの期間があれば、バルボがイタリア大使館を自らの城とするのは容易い。大使から武官、書記官はおろか、ほとんどの出入りの業者・職人に至るまでいまやバルボの支持者・崇拝者となっている。

 イタリア本国で統領と並び立つほどのカリスマと普段から接点があるのだから、心酔するものが続出しても当然といえば当然。

 統領派ゆえにここまで出世したはずの駐日大使すらもが、今ではバルボ派だった。

 統領はあまりにも長い期間、バルボを日本に滞在させすぎたのだ。


「パイロット養成についての指示は本国にも送ってある。

 日本でのパイロットも含めた募集は、陸海軍でも異存はないとの報告を受けているが、間違いないか」


 バルボの前では陸海空軍の境界は喪われる。

 それぞれの組織の利害を背負って派遣されているはずの駐在武官全員が、今はバルボの意思を遂行する忠実なしもべとなっている。

 代表して最も年かさの陸軍武官が答える。


「はい。在日の兵役年齢の男子の召集は空軍大臣に一任して良いとの回答を得ています。

 外務省では留学中の学生についても、大臣の判断に任せるとのことです」


 その回答にバルボは頷く。ひとまず問題はクリアできそうだ。

 イタリア本国でのパイロット養成については他の事業を後回しにしてでも優先的に開始しろ、との指示は送っている。

ただじっさいにそれに空軍が従うかどうかは分からない。バルボは日本では絶対盤石の地位を獲得したが、それだけ本国から長く離れているということでもある。バルボの本陣である空軍が一枚岩でバルボの指示を貫徹するかどうかは、確実とは言い難いところがあった。


 なにしろバルボは空軍大臣とはいえ、〈暫定〉空軍大臣に過ぎない。

 1933年に最初の任期を終えて統領が空軍大臣――に限らず、めぼしい各種の大臣職――を兼任するようになってからは、バルボの「空軍大臣」の肩書は付いたり剥がれたりするいかにも軽いものだった。

 さいきんは実務においてもバルボが権能を振るうことを許されており、実を伴った「大臣」として働いていたが、統領次第でどうにでもなる。

 今のところ省部からは指示通りの業務をこなしているという返信が途絶えることはないから、一応は従っているものと判断するしかない。


 しかし日本国内のイタリア人の召集は完全にバルボの自由だ。

 兵役年齢の候補はいくらもいたがそれは後回しにして、留学中の学生からとくに重点的に召集し、大使館へ呼び寄せる。遠方かつ出頭を渋る学生には、ほぼ拉致に近い強引な手段をも厭わなかった。

 多くの学生は留学にあたって徴兵免除、召集猶予といった特例を適用されている。だがバルボの一声でそれらはすべて消し飛び、留学生たちの日常は破壊された。


 日本全国から大使館に集められ、バルボの執務室に押し込められた50名ほどの留学生たち。

 伊日連絡大飛行の壮挙達成のその時には、熱狂的にバルボを迎えた学生たちも、今は憎しみのこもった目でバルボを睨みつけている。

 留学先の恩師の手紙、免除の嘆願書の束が、バルボの執務机に積まれていた。

 その山の向こうから非友好的な視線を送ってくる若者たちを、バルボは順繰りに眺めやる。

 多くのものはそれまで睨みつけていた視線を逸らすか、落とすかするが、ひとりふたりは正面から受け止めて敵意を捨てない男がいた。

 鼻を鳴らして立ち上がり、バルボは言う。


「召集猶予、徴兵免除の特例の解除、誠に遺憾に思う。

 だが諸君らの叡智はただちにイタリアに捧げられなければならない」

「お言葉ですが元帥閣下。

 我々は学問を修めてはじめて祖国に貢献できるものと信じております」


 視線を外さなかった男の一人が言った。


「優先順位が変わったのだ。

 我々に今必要なのは日本文学ではなく、日本のエンジンだ」

「文学は実学ではないから、不要だと」

「そうではない。……いや、そうでもあるがしかし、それは些細な問題だ。

 大事なのは我々の航空機のエンジンが日本に遅れており、それは直ちに是正されなければならないということだ」


 もう一人の男が声を上げた。


我が社アルファロメオのエンジンはむしろ、日本に技術供与を請われています。現に私もそのためにこの国にやってきました」

「自動車の話だろう。それも些細な問題だ。

 いいか?

 大事なのは航空エンジン。それでイタリアは日本に劣る。

 二度も言わせるな」

「ではどうしろというのですか」

「日本のエンジンの生産権を購入する。

 エンジンに関する全てを諸君らには習得してもらう。

 素材技術を学び、製造技術を学び、整備技術を学び、運転技術を学ぶ。

 半年、いや三ヶ月でその全てをイタリアの血肉とするのだ」


「そんな無茶な」


 バルボと目を合わすことすらしなかった群れの中から声が上がる。誰が言ったのかは判然としないが、それに同調するざわつきもあった。

 机を叩いて黙らせるべきか、そう思ったのは一瞬で、バルボは机の一番下の引き出しを開けると、積み上げられた嘆願書の束をその中に放り込んで音高く閉じた。


「無茶だろうがなんだろうが、やってもらう。

 諸君らに選択肢はない」


 息を呑む若者たち。バルボも気取られぬように息を吐く。

 バルボ自身にも、選択肢はないのだ。

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