第9話
12試艦戦に乗ったあの日から、バルボは日本の社交界にいっさい顔をだしていなかった。伊達男がとつぜん居なくなったことで、何も言わずに帰国したのかと気を揉む婦人も数多いたが、じつのところ帰国は伝手すらまだ掴めていない。興味の対象が完全に離れただけだ。
社交界から離れたとはいえ、そこで培ったコネは存分に利用している。いま相対している相手は朝香宮孚彦王の口利きにより会談を取りつけた相手だ。
とうぜんと言うべきか、相手の男は渋い顔をしてバルボの願いを拒絶した。
「あのエンジンはまだ試作中ですよ」
「孚彦王からは既に制式化の内定は出ていると聞いている。
友邦に売るのに支障はないと思うが」
「……」
三菱重工名古屋製作所発動機部長は渋面をますます深くする。
なぜかは知らないが、今年からやけに航空行政に皇族筋が絡んでくるようになって、各界の反応や経営環境が好転していたのは事実。
だがそうして贔屓されるようになると望まぬ付き合いも増えてくるわけで、いままさにそれが目の前にいた。
派手なヒゲのやたらとツラのいい男。その要求は図々しいにもほどがあるが、不思議と不快感はない。そういう事を言う男だ、というのはすんなり受け容れられた。
これほどの自信満々な伊達男ならば、このくらいの図々しさは当たり前だろう。
ただその要求に答えるのは無理だから深尾は難渋していた。
どうやってここを乗り切るべきか。
「海軍の採用が内定しているのは事実です。しかしまだ過給器の最終調整が未了でして、それが済むまでは――」
「それよ」
バルボは通訳の翻訳するのを遮って深尾にぐい、と身を乗り出した。深尾は面食らったが、通訳も随員の男も驚いている。
「二速過給器。我が国にはこんなものはない。
あれもこれもどれもそれも、一速だけだ。なぁ!?
それに比べてまったくもって日本は、いや
言いながらバルボは随員の方を振り返り、そして深尾を振り向いて満面の笑みでその手を握って大きく上下に振る。
深尾は愛想笑いを浮かべながらバルボに圧倒されていた。
通訳はそのセリフをだいぶマイルドに意訳していたが、彼がどれほど深尾のエンジン、A10を高く評価しているのかは伝わってくる。
しかし腑に落ちない。彼がA10の性能をふかく知る機会などないはずだ。
一体どこで?
「ジロウとキロウに聞いたぞ!
まったくキミのところの若者は揃いも揃って優秀だな。羨ましい」
そこまで聞いて納得する。
たしかに二人とも東京に出張するたびに
とはいえ、深尾は二人をつよく責める気にもなれなかった。本人と直接対峙すれば分かる。この男の強引さに抵抗するのは難しい。踏み込んでくるくせに憎めない妙な魅力、不思議な魔力がある。
げんに深尾も「A10の生産権契約の拒否は難しいだろうな」と傾き始めている。
どれほど言葉を弄したところで、この男は無理矢理にでも目的を果たすだろう。
ならば少しでも高く売りつける方が良い。
金勘定については軍も絡んでくるからそれは措いておいて、もう少し即物的なものを要求しよう、深尾はそう考えた。
「わかりました。
国軍の採用前でもかまわないのであれば、弊社としてはイタリアとのA10のライセンス生産契約の締結については了承する方向でまとめます。細かい条件ものちほど調整しましょう。
それは措くとして、弊社からも空軍元帥閣下にお願いがございます」
深尾はそこで一つ、呼吸を挟む。向こうがA10を欲しがっているのは手応えとして実感した。ならば、バルボはそれを手に入れるためにどれだけの対価を払えるか、一つ勝負を仕掛けることにした。拒絶されてとうぜんの要求をふっかけてみる。
「聞こう」
「弊社はただいま
「わかった。どれが欲しい。アルファロメオか、ピアッジョか」
バルボはどうやら「18」という単語に反応したらしく深尾の言葉に被せるようにして応えた。
狼狽したのは深尾。そして、バルボの随員の男だった。食ってかかっているその男をいなしてバルボは続けた。
「アルファロメオ135ならすぐに用意できる。
ただし一速しかないぞ。それに18気筒とはいえ、馬力もキミらの
「我々の18気筒エンジンはつい先月に試作機が完成したばかりで、試運転もこれからです。
すでに長時間運転の実績のあるエンジンは、いかなる形であれ非常に参考になります」
「そういうものか。
分かった。直ちに日本に送るように手配しよう。
アルファロメオで用意している改修案の幾つかも添付する。それでいいな?」
「ありがとうございます!」
「ついては早速だが、来週からウチの者がキミらの工場にお邪魔するよ。
なに日本語はできる者ばかりだ。
遠慮はいらない。しっかり教育してやってくれ」
「は…」
トントン拍子に話は進み、予想していたよりもはるか先まで段取りが決まってしまったのに深尾が半ば放心しているのを置き去りにして、バルボは立ち上がった。
彼はそのまま部屋を出る。
随員の男に「本社にはどう説明するのです!」と責められながら涼しい顔で連絡機に乗り込むと、伊達男は颯爽と飛び立っていく。
連絡機の軽やかな爆音が上空を駆け抜けていくのにようやく我に返った深尾は、糸が切れたように椅子に深く沈み込む。
嵐のような男だった。
あれが、イタリアの英雄なのか
――と、彼とわずかな時間で取り決めたことが多すぎたおかげで山積する事務仕事も忘れて、深尾は妙に納得してしまっていた。
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