第5話

「本命」としてバルボが示したのはサボイア・マルケッティSM.81爆撃機で、とくに傑出した性能でもない二線級の機体だった。

 スペイン内戦では活躍したが、その頃からすでに性能の陳腐化が目立っていて、今では爆撃隊の装備機として書類の上では扱われているものの、なかば輸送機のように用いられている。

 爆撃機としては旧式化著しいものの、元々が民間機の旅客機を応急改造したものだから機内容積が大きく、それが輸送任務のほか、飛行実験や装備開発の試験機として好都合だったために転用後の評価は上々であった。


 眼前にあるSM.81もそうした機体の一つであろうが、通常のSM.81と大きく異なるのは機首下部にも大きな車輪を備えて、両翼のエンジンナセル下の主脚と合わせて3つの大きな車輪を持つ、首輪式降着装置を持つ点。

 尻餅をついて頭をもたげたような格好で佇む多発機を見慣れた目には、機体が地面とほぼ並行に保たれた状態で駐機するSM.81改はそれだけで奇妙に見えた。

 もう一つ、ひと目で分かる違いが機首のエンジンだった。

 左右の翼に取り付けられたものより一回り以上大きく見えたが、バルボを追いかける三人には具体的にそれがどのエンジンなのかたしかめる余裕もなかった。


 バルボに続いた三人が機体後部の昇降口に取り付けられた梯子を登り機内に入ると、すでに先客でほぼ機内は埋まっていた。空いた座席に体を押し込めたのは二人で、残る一人、フィアットの設計技師ジュゼッペ・ガブリエリは操縦席のすぐ後ろ、防御用の旋回機銃が撤去されたあとに残された小さな丸椅子に座るしかなかった。


 主操縦席についたバルボは、丸椅子に座ったジュゼッペに

「適当なところに掴まっておけ。

 コイツはかなり加速がきつい」

 と声をかけると、ヘッドセットを装着して正面に向き直り、機内放送を始めた。エンジンが始動して騒がしくなった機内のスピーカーを通して雑音混じりの声が響く。


「離陸する。

 少し揺れるかもしれん。

 ベルトを忘れんように」


 放送が流れた時、マッキの設計技師マリオ・カストルディは隣席がピアッジョの社員と気づいて機首のエンジンは御社の新型なのかなどと尋ねていたが、バルボの放送で腰ベルトを慌てて締める。ピアッジョの社員によれば心当たりがないらしい。しいて言えば最新の18気筒エンジンがちょうど機首のエンジンくらいの大きさだと思うが、それはまだ社内テスト中で空軍には引き渡していないという。

 ピアッジョの18気筒と同じくらいとなると、あとはアルファロメオの18気筒があるくらい…というところまで考えてマリオは不安になった。

 アルファロメオの18気筒は去年出てきたものだが、大出力なのはいいがいかんせん故障がちで、マッキの設計陣も敬遠していたエンジンだからだ。


 もしも機首のエンジンがそうであるなら…

(いくらか覚悟をせねば)とマリオが思う間もなく機体は滑走しはじめた。

 予想していたよりも強い力で体が座席の背もたれに押し付けられる。腹に力を込めてそれに抵抗しようとした矢先に体がふっと軽くなった。


 座席に押し付けられていたのは時間にして10秒たらずか。

 あまりにあっけない離陸に、ピアッジョの技師とマリオは顔を見合わせた。


 ジュゼッペは昇降口すぐ近くの座席で小さな窓から外を眺めていた。

 地上がぐんぐん遠ざかっていく。はるか先の地平線の傾きは小さく、この機体が緩やかな角度で上昇しているのを示している。

 急上昇に近い速度で駆け上っているにも関わらず、機体の姿勢はほぼ水平に保たれている。感覚が少しおかしくなりそうだった。


 しばらくして地平線がほぼ平行に見えてきたあたりで、再びバルボの声が響いた。


「両翼、エンジンを停止する」


 轟音が響き渡る中でもその声はハッキリ聞こえた。

 エンジンが見える座席に座っているものが

「本当に止まっているぞ!」

 と叫ぶのが機内に響き渡り、少しのあいだ動揺するものの、機体が落ちる気配を見せないためにすぐに落ち着いた。

 乗っている全員が航空機メーカーの人間だから、こういう状況は見聞している。

 バルボはエンジンが「停止した」ではなく、「停止する」と言った。

 ようはエンジン試験の一環なのだろう。

 

 そうして安堵した乗員たちは機体に気づく。息を整えて座席に体を預ければ、かすかな上向きの加速を知覚できる。

 機首のエンジン一基だけで、この機体はなお上昇している。

 その事実に驚きを隠せない乗員たち。 

 そこに畳み掛けるようにもう一度、バルボの声が響いた。


「高度四〇〇〇。

 二速に切り替える」


 唸りを上げるエンジンの轟音がこころなしかひときわ大きくなった。その中で声にならないざわめきが広がる。

 二速過給機など、この機内の誰も知らない。


 ジュゼッペは機銃座跡を覆う小さなドーム状の丸窓から、咆哮する機首のエンジンと、両翼の停止したエンジンを一望する。

 微動だにしない両翼のプロペラ。たしかにこの飛行機は今、機首のエンジンだけで飛んでいる。水平飛行ならば試験で見ることも乗ることもあったが、この機体は緩やかに上昇し続けている。単発で、五〇〇〇mを超えた今もじわじわと。


 ヘッドセットを外したバルボは操縦輪を握ったまま、ジュゼッペを振り返り叫んだ。


「ジャンニ!

 これがMarte火星だ!!」


 自分はジョバンニではない、そう言い返すジュゼッペを気にする素振りも見せず、エンジンの轟音にも負けぬ大声で、バルボは笑った。

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