2. 望み

 おれは今壁を登っている。一軒家、スーパー、コンビニ、床屋、洋食屋、公園、駐車場、路傍の草・・・文化人の営みに十分ながらまるで享楽を与えそうにない、平凡な街並みに、それは現れた。真っ黒く凸凹のない無表情な壁、しかし多くの人々は磁石のようにそれに引き寄せられた。おれもその一人だった。壁はこう言ったのだ。

「人間ども、この壁の向こうに何があると思う?登ってみせろ、さすれば貴様らは望むものを手に入れるだろう」

人々は壁の発言を疑わなかった。壁の向こうからとろけそうな程美しい光がもれていたからだ。何より、その光を欲する者ほど壁に強く引き寄せられるのだ。


 人々はすぐさま我先にと壁を登り始めた。壁を登るには引力に任せて、這うように手を上へ伸ばすだけで良かった。しかし何故だろうか、登り始めて半刻という時、ほとんどの者が上に登れなくなっていた。ふと疲れて一度休もうとすると夢に入ったように、登ることを忘れてずり落ちてしまうのだ。四半刻分ほどずり落ちたところでハッと夢が覚め、また登り始めるが、すぐにまた夢に入ってしまう。そうして95%超の者が登るのを諦めてしまう。おれも夢に入ったり覚めたりを繰り返したが、なんとか現状維持することができた。ふと上を見上げると、終わりが無いと思える程壁は高かったが、一度も休む事なく登った者が豆粒のように見え、それが壁の方に消えていくのを見た。登り切ったのだろうか。そうだ、おれも登り切るんだ。そして望むものを手に入れる。

 そう思うと、夢に落ちることは無くなった。それから一刻程経つと、壁の向こうからもれる光がだんだん近づいてきたのを実感した。しかし心なしか光は登る前見た時程明るくはなかった。おれはがむしゃらに登った。


 そのときだった。急に壁の引力が消えた。人々は次々に落下し、上の方まで登った者たちは体勢を崩して落下、下の方の者を下敷きにして凄惨な有り様だった。おれも落下したが、その際体勢を崩さずずり落ちていく者を見つけた。おれはその襟元を掴み、その者を引き落として踏みつけることで、辛うじて急激な落下を免れた。

 良心が痛まないわけはなかった。足元の死屍累々とを見、悲痛な断末魔を聞いて思わず嘔吐した。その汚物が血や臓物と混ざり合う様を見て更に嘔吐した。おれはもはや光を求める資格などないのだ。足元の屍達と俺は、惨めさという点では、本当に何も違っていない。絶望的な気分だった。

 壁が何か言っている。おれは重たい体を起こして耳をすませる。

「この程度で諦めるのか。所詮貴様ら人間はその程度か。それほどまでに命が大事か。それで望みなど手に入るものか。」

おれは激怒した。そもそもだ、お前が光など見せなければこんなことにはならなかったのに。

 俺は壁を睨んだ。しかし壁は何食わぬ様子でこう言った。

「諦めたらいいではないか、この壁が信用ならないというなら。」

確かにその通りだった。しかしおれは再びがむしゃらに登っていた。引力は弱いものの復活していた。腕は重たくて中々上がらず、気を抜けば体勢を崩して落ちてしまいそうだったが、そんなことはおれには全く重要ではないように思えた。背中に熱した鉄を当てられて、必死に逃げなければという感触だった。もし上から見ている者がいたならば、おれの登る姿はあまりにみっともなくて半刻笑いが止まらなかっただろう。汗と鼻水と涙を垂らして嗚咽を漏らしながら、ゴキブリのように壁を這っていたのだから。

 おれは壁を登り切ることができた。なぜ登り切れたのか、それだけは全然思い出すことができない。しかし途方もなく高い壁の上に立っていたことは確かだ。光はもう消えかけていた。光の方に道があり、進むと扉が用意されていた。おそらく先に登り切った者はこの扉の向こうに行ったのだろう。しかし俺は幸運だった。光が弱まったお陰で、その扉の向こう側にことに気付けたのだから。

「壁よ」とおれは言った。

「お前は人間が嫌いか。」

「嫌いもなにもない。某は空間を塞ぐだけ、そして貴様らが無理に登ってきたから、それに答えただけだ。」と壁は答えた。

「なぜ光を見せた。あれはただの光ではなかろう。」

「光など、某にとっては吸収反射するだけ、光が美しく見えたなどど言うのは、貴様らが勝手に決めることだ。」

「登る途中で落下する結果、登り切り扉の向こうに消える結果、お前の上で寝そべる結果、それもお前にとっては同じことなのか。」

「最後のはいかんな、もうここに立ち塞がる必要はないと伝令があった。某はもう消えるとする。お前だけは、無事に帰してやってもいい」

 俺は思わずブハハハと笑った。腹を抱えながら自分の街を見下ろした。道が紅く染まっている以外は何も特徴は見つけられなかった。

「帰して、それが壁の言うことかい。何がともあれ、俺の望みはどうやら叶ったみたいだ。」

「ふん。それはよかったな、人間風情が。」

 そして壁はみるみる縮み、俺は人口が10分の1に減った街に残された。人が減った代わりに路傍のいじらしい花が2、3割増えた。


[2023/9/2改変]

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外れたネジ ライリー @RR_Spade2

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