違和感




 魔物が通るその場所は、左右に背の高い崖が伸びて囲まれている。

 リヒトやクラースの生まれ育った里の初代里長とその仲間たちが、かつての邪竜との戦いの際、邪竜の攻撃によって大地が穿たれてこの崖が生み出されたと言われている場所であり、里の者たちが町へと向かう道として使われている幅広い道だ。


 崖上から見下ろし、突き進む魔物の軍勢を左手に追い越すようにリヒトが駆け抜け、その先頭をようやく眼下に捉えた。


「――見つけた」


 先頭を進む魔物は里の付近では見かけない、人のような形をした二足歩行型の黒い影のような存在であった。

 肩を落とし、ふらふらと彷徨うような姿。まるで敗残兵よろしく力のない姿ではあるものの、その足が止まろうとはしない。


 これまでに見た事のない魔物。

 じっと見極めるように崖上からその存在を見つめていると、不意にその魔物が顔をあげ――真っ黒く塗り潰された顔のようなものに浮かぶ赤く光った瞳が、リヒトを捉えた。


 ――見つかった。

 ぞわりと背を走る悪寒と、幾度となく経験してきた戦いで培われた反射神経だけで、リヒトは咄嗟に崖から見えない位置へと離れるように飛び込むように跳んだ。


 刹那、リヒトのいたその位置を真っ黒な刃が崖を貫き、空へと伸びる。

 それがあの黒い人影のような魔物が放った攻撃だと理解すると同時に、リヒトはその切っ先を一瞥しつつも、即座に身体を起こし、大地を蹴って駆け出した。


 まさに間一髪での回避に成功した

 しかしリヒトはそれを喜ぶでもなく、焦るでもなく、ただただ思考を巡らせていた。


 攻撃の予備動作、その一瞬すらも確認せずに跳んでなお、余裕はなかった。

 もしも一瞬、ほんの一秒であっても動きを止めていたら、あの黒い刃が己を穿っていただろうとリヒトは思う。

 万が一そのまま黒い刃が自分を追いかけてきたら、とも思ったが、しかし空へと伸びた刃はその場所で動きを止め、吸い込まれるように崖下へと戻っていった事が視認できた。


 その動きを見て、足を動かしつつもリヒトは得られた情報を整理する。

 あの魔物は確かにリヒトを視認してから攻撃に移っていた。つまり、視覚に頼って敵を確認するタイプである事が窺える。

 追撃が来ないという事からも、その情報はほぼ間違いない、と確信する。


 魔物は視覚、嗅覚、聴覚など、周囲の敵を察知する方法がその種類によって異なる。

 それらの中で最も御しやすい魔物こそが、まさに視覚に頼る類の魔物だ。


 もちろん、距離が近くなれば視覚だけではなく聴覚などによって察知するようになるなど、多少は変わるかもしれない。だが、先程の魔物の攻撃前の仕草、そしてその後に追撃がなかった事を考えれば、あの魔物は視界に入った敵だけを狙う傾向にあるのは間違いない。


 攻撃の速さは凄まじいものがあったが、嗅覚や聴覚、あるいはその他の何かによる感知であった場合は術を仕掛けても看破されてしまう可能性もあったかもしれないが、視覚に依存するのであれば欺くのは容易い。


 ――見えない位置から一気に畳み掛ける。

 仕掛ける方針が決まったリヒトが、今更迷うことはなかった。


 魔物を置き去りにして駆け続けた先、崖の溝が徐々に低くなり始めようとしたその場所で崖下へと降りたリヒトは、『〝理外〟の術装具』の中に大量に保管していた、術符をごっそりと取り出した。


 溢れんばかりにあるそれらを左手に掴んで眼前へ持ち上げ、リヒトがその前で右手で印を組む。


「――行け」


 握りしめていた左手の指を広げると、術符が次々に突風に煽られたかのように飛び上がり、周辺の崖、そして足元にと暴れ回った先で貼り付いていく。


 ダンジョンで神に与えられた『ことわり』を上手く使えないかと試行錯誤する上で、リヒトが最初に手を出した実験は、新たに強力な術を生み出す事ではなく、「棒手裏剣や苦無に術符をわざわざ括り付けなくとも、いっそ術符がそのまま飛べばいいのに」という幼い頃から考えていた、術符の自動操縦を試みるというものであった。


 その開発のために睡眠時間を削って試行錯誤を続け、結果としてうまく術符に『空を飛び、最初に触れた場所に貼り付く』という術符の開発に成功した。

 本来ならば試しに数枚程度の実験用の術符を作ってテストを行うのだが、しかし完成したのはもうすぐ夜が明けるだろうというような時間。外に実験をしに出るには不向きな時間であった。


 睡眠時間を削っていたのだから、素直に眠れば良かったのかもしれない。

 しかし、自分が最初から組み上げ、作り上げた術という事もあり、寝不足であったが故の妙な高揚感も相まって、失敗しているかもしれないという思考を放棄し、「どうせいつかは大量に作るのだから、明るくなるまでに作れるだけ作っておこう」とおかしな方向に舵を切ってしまい、実験も行う前から大量に作ったのが、この大量の術符であった。


 そうして朝が訪れ、テストをしてみた結果、『空を飛び、最初に触れた場所に貼り付く』という効果は確かに発揮したのだが、しかしあちこちに飛び散ってしまい、狙った方向に飛ぶ事はなく、実験は失敗に終わったのである。

 寝不足と高揚感から妙なテンションのせいで、要改良の失敗作となった術符が大量に生まれる事になったという、ほろ苦い失敗によって生まれた術符である。


 現状、『空を飛び、最初に触れた場所に貼り付く』だけの術符をばら撒いただけのようにも思えるが、しかし、事個々に至ってはこれで良かった。

 期待通りにあちこちにばら撒かれ、岩肌と地面にくっついたそれらを見届けて、今度は魔物の群れとは反対方向に進みながら、ちゃんとした術符を棒手裏剣に括り付けて投げ飛ばしたり、転がっている岩を転がして背面に突き立てたり、あるいは地面に置いて砂をかけたりと仕掛けていく。


 そうして一通りの設置を終えて、リヒトは再び崖上に戻って行き、魔物の群れを待つ事にした。


 冬が明けて春が訪れたとは言え、まだまだ頬を撫でる空気は冷たい。

 それでも、ここで失敗すれば里が危険だと考えるせいか、妙に喉がカラカラと乾いて息苦しさを感じて、リヒトは頭に巻いていた手拭いを取って、口元を覆っている首巻きを下ろした。


 熱が押し流されていき、思考がクリアになっていくような、そんな気がする。

 空を見上げ、どこまでも続く青い空を見つめて、深く深く深呼吸した。肺を通して身体の熱を全て吐き出し、冷たさをその身に沁み込ませるかのように。


 足元から伝わってくる振動。

 魔物の軍勢が徐々に近づいてきている事を感じ取りながら、胸の内で己へと言い聞かせる。


 ――冷静に。


 ――冷徹に。


 ――一切の容赦もなく。


 ――迷うな。


 ――余計な事を考えるな。


 ――情を捨てろ。







 ――――必ず、殺せ。






 まるで呪詛のようにも思えるそれらの言葉を、リヒトは己に言い聞かせて、ゆっくりと視線を戻した。


 それはクラースと共に狩りをするように――否、に身を投じるようになる前まで、常に格上との戦い、試行錯誤の中での魔物との殺し合うための意識へと切り替える時に行っていたもの。

 外気を吸い込んで血が冷えるような感覚に陥りながら己に言い聞かせる事で、リヒトの思考も冷えていき、如何に効率的に敵を殺すか、どのような攻撃が有効かという事のみに絞られていく。


 意識が切り替われば、たとえ魔物の攻撃を受けて痛みを味わったとしても、体力の限界に苦しさを感じたとしても、それらを無視していられる。

 それが、力なき少年であったリヒトが術を磨き続ける事ができた理由。

 人間ならば感じる死や痛みに対する忌避感、恐怖心といったもの。それらを無視して、殺す事にだけ集中し、感情を排除して、ただただ効率的に敵を屠る事だけに思考を割けるが故に、リヒトは術を鍛えあげ、強さを手に入れる事ができたのだ。


 リヒトにとっても、その感覚にまで己を研ぎ澄ますのは久しぶりだった。

 ある程度の力を手に入れ、クラースと狩りに出るようになってからというものの、こうも命懸けの場面というのは訪れようとはしなかった。

 めっきり減っていたその感覚に、懐かしさと居心地の良さのようなものを感じて、リヒトは僅かに口角をあげた。


 そんなリヒトの視界に、魔物の軍勢がようやく映り込む。

 壁から地面、そのあちこちに飛び散った術符を見ても、魔物たちが特に反応を示す事はなく、歩みを止めようとはしない。


 あちこちに飛び散った術符は明らかに不自然な光景とも言える。

 魔物の軍勢とも言えるような集団を引き連れるともなれば、もしかしたら知能があるのではないかという疑問もあったが故に隠しもしなかったのだが、どうやらそういう訳でもないらしいと結論付けつつ、リヒトは両手で印を結び、術力を大量に込めて地面に触れる。


 リヒトの両腕の周囲を、まるで放電したかのように青白い光の帯が奔った。

 数瞬の後、魔物の半数近くが術符の上を通過しようというタイミングで、術符がリヒトの腕の周囲を奔った光と同様の光を放った。


 さすがに突然輝き出せば、魔物たちも無視してはいられなかったのだろう。


 何事かと術符に目を向けた、その瞬間――周辺に貼り付けられた術符が激しく爆発し、その炎と炎がぶつかり合うように荒れ狂い、行き場を失って空へと伸びる。


 術の暴走によって引き起こされる爆発を利用したトラップ。

 爆発に飲み込まれて全滅してくれれば最良、次点で魔物の群れの分断を目的としただけの、単純な暴力とも言えるようなそれは、リヒトが想定していた以上の勢いで爆発を引き起こした。

 直後に襲ってきた衝撃と轟音に思わずリヒトも「ちょっとやり過ぎたかもしれない」と我に返る程度には凄まじいものだ。


 とは言え、さすがにその一撃だけで魔物が全滅してくれるとはリヒトも思っていない。

 今の一撃はあくまでも分断が主目的であり、最初から次の、またその次の術も仕掛けてある。

 再び印を結び、崖の中腹から上部にかけて設置していた術符の術を発動させ、崖の上部を崩して岩が降り注ぎ、先頭に近い位置にいて爆発から逃れた魔物たちを押し潰させる。

 さすがに崖下全てが埋まる程ではないが、横に広がる形となった魔物たちは逃げきれず、突然空から転がり落ちてきた大岩に潰される魔物も多い。


 非常に効果も出ている。

 しかし一方で、リヒトはその光景に違和感を覚えずにはいられなかった。


 ――……なんで、慌てないんだ……?

 脳裏に過ぎる疑問に、返ってくる言葉はない。


 魔物から見れば、予期せぬタイミングで突然自分たちを襲った大爆発も、この落石も、混乱し、逃げ惑ってもおかしくはない。実際、そうして魔物を散らす事も視野に入れた上での作戦だった。

 だと言うのに、魔物の軍勢は逃げ惑い、鳴き声をあげる事もなく、ただただ真っ直ぐ、変わらない速度で歩み続けている。


 ――……どう考えてもおかしい。


 これまで多くの魔物と戦ってきたが、魔物は威嚇もすれば逃げようとする事もある。

 異常な事態に見舞われれば、獣のように混乱し、暴れ回り、逃げ惑う事だってある。

 なのに、魔物の軍勢は何も変わっていない。


 僅かな困惑。

 しかしそれでも止まる訳にはいかない。


 暴れ回らないなら、いっそ好都合。

 このままやりたい放題やらせてくれるというのなら、思う存分やってやろう。


 そんな風に割り切って、次の攻撃を仕掛けようと動こうとして――リヒトの真横で突如、痛い程に激しい光が弾けて思わず足を止める。




 そうして、ドン、と。




 横合いから突然己を襲った衝撃に、視界が眩んだまま突き飛ばされ、その身体が今なお歩み続ける魔物の群れの方向へと吹き飛ばされ、宙に浮く。





 突然の衝撃に身体が放り出されているその最中、リヒトはようやく回復した目で、衝撃を与えてきた何者かを見やる。

 リヒトの視線の先には、ニタリとした笑みを浮かべている知り合いの男――ラディムの姿があった。





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