温泉計画
「よくきたわね、リヒト!」
「まるで自分の家みたいに言うね」
里の中央部にある最も大きな屋敷。
里長であるマーリトの住まうその場所へとやって来たリヒトを待っていたのは、腰に手を当てて堂々と声をかける少女、緋袴を身に纏った修行用の装束を身に纏ったアニタだ。『巫女』という神に仕える立場を目指しながらも、神に仕えるどころか誰かを侍らかしていそうな尊大な態度である。
「……ねぇ、リヒト。クラースと母上は上手くやれてるわよね?」
「……うん」
マーリトか、はたまたトゥーラから直接話を聞いたのか。
アニタが唐突にクラースとトゥーラの関係について訊ねてきた事に驚きながらも、リヒトは驚きに僅かに目を瞠りつつも、静かに肯定を返した。
リヒトも不安ではあったのだ。
アニタがいない間にクラースとトゥーラの関係が進展している今の状況は、アニタを邪魔者のように扱い、引き離されていると捉えられてもおかしくはなかった。
しかしアニタは、様子を窺うように視線を向けてくるリヒトに対し、以前リヒトに見せたような不安そうな表情とは一変して、少し大人びた、苦笑にも似たものを浮かべてみせた。
「心配いらないわ。もう納得しているもの」
「そうなの?」
「えぇ。オババからも母上からも、話は聞いたわ。クラースが大人の仲間入りをした以上、これから大変になっちゃうってことも、そんなクラースの最初の相手が母上である方いいってことも」
「そっか」
「えぇ、そうよ。母上だって、女手一つで私を育ててくれたんだもの。わたしも大きくなって余裕が出ているのだから、女の幸せを手にする事をわたしが邪魔するなんてダメなことよ!」
「偉いね、アニタ」
「ふふん! もっと褒めて!」
嬉しそうにリヒトに抱きついて頭を撫でさせるように突き出してみせるアニタに、「これで大きくなった、ねぇ」と苦笑しつつ撫でて応えておく。あまり余計な事を口にして角を立たせるつもりはないため、言葉は呑み込む事にしたようだ。
「それでそれで、今日はどうしたの? あっ、わたしのこと心配してきてくれたのね!」
「ううん、オババに用事があって」
「そこは冗談でもわたしに気を遣いなさいよ! まあいいわ! オババはいつもの部屋よ! いきましょ!」
ぷくーっと寒さで赤らんだ頬を膨らませたアニタであったが、リヒトがそういった気遣いをするような性格ではないと理解しているため、怒ってみせたのはあくまでもポーズに過ぎなかったようだ。
さっさと気持ちを切り替えてリヒトの手を取ると、ずんずんと屋敷の中を進んでいった。
「――――……なるほどね。コイツは凄いじゃないか」
アニタに連れて行かれた先、マーリトの部屋へと辿り着いたリヒトは、マーリトとその横に座るアニタを前に湯沸かし術の術符の束を手渡して術の効果を説明する。
一頻り話を聞いていたマーリトが、アニタに鍋と水を用意させてテーブルの上に置いた術符の上にそれを置いて水を温めてお湯へと変わったところで、マーリトは感嘆の声をあげて鍋の中のお湯に皺が刻まれた指をつけてみた。
「温度はちょいと熱いが、触っていられないって程じゃないね」
「もう少し温度を下げる事もできるけど?」
「いや、これぐらいの温度の方がちょうどいいってもんさ。今の術で温めたのはちょいと熱すぎるからね」
「ん、そうね! わたしもお湯が熱すぎてすぐに浴びれないもの!」
里で使われているシャワーは土間にある専用の水桶に水を注ぎ、術をかけて温め、少し冷めてから浴び始めるという形になる。一人でシャワーを浴びようとすれば水を用意して温め始め、少し冷めてからでないと浴びれない。
そのため、シャワーを浴びるのであれば前もってその準備を済ませなくてはならず、逆に時間が遅れてしまえば今度は冷め過ぎてぬるくなってしまう事も珍しくない。
しかしリヒトが今回生み出した術ならば、お湯にするまでの時間も短く保温も可能だ。温度についても調整をしようと思えば調整できるという利点もあり、里での生活品質の向上に直結する。
クラースがトゥーラの洗い物などにも使えると考えたように、自由にお湯を使える生活というのは心惹かれるものがある。
「で、こいつで『温泉』を再現しようって?」
「うん。初代里長がたまに言ってたっていう、いつでも温かいお湯に入れるっていう『温泉』って場所を作れるんじゃないかなって」
「いつでも入れるっ!? 川遊びのあったかいヤツ!?」
「うん、イメージとしてはそんな感じかな?」
初代里長ソウジ。
元々この里のシャワー設備などもソウジの案で設置されるようになったが、ソウジは本当は温泉を生み出したかったらしく、いつでもお湯に入れる場所で寛げる空間、というような話だけは伝わっている。
これまでの術では温泉やお風呂のような巨大な桶に大量に注がれた水を用意するというのも、術の影響範囲も術力消費の効率もリヒトが作った術とは違い、大量の水を温める程の術を発動、維持する事も難しかった。
リヒトのように大量に術力を宿した者がいない家では、なかなかお湯を用意する事が難しいなどの問題もあったが、そういった問題を改善する事にも繋がる。
「いいじゃないか。冬の間にどうにかできそうなのかい?」
「術符は紙媒体だから、劣化したら変えたりしなきゃいけなくなるし、できればもっと長持ちするもので術を発動させておきたいんだ。だから、雪が落ち着いたら『
「『
「うん。クラースと狩りをしてる時に、子育ての時期に使っているらしい卵嚢の残骸がついた大木を見つけたんだ。で、その卵嚢を調べたんだけど、どうも術力を滞留させる性質を持っているみたいでね」
卵嚢とは、卵を外敵から守るための袋のようなものを指す。その中に卵を入れ、外敵の届かない場所に卵嚢をつけて孵化を待つという性質を持つ生物は多いが、巨大な魔物であってもそういった性質は受け継いでいる。
リヒトの言う『
過去にクラースと共に山奥の森に足を踏み入れた時に見かけたもので、最初は何かよく分からないままリヒトが素材の性質を術の改良に使えないかと試した経験があった。
術力を滞留させるという特殊な性質はうまく活用できるのではと考えていたが、滞留されても発動タイミングが操作できないため、使い所が見つからなかった代物だ。
「数年経っても崩れずに使えるみたいだし、卵嚢は一度の産卵でそのまま放置してるんだよ。今の時期なら巣を守る『
「ふむ……」
「それに、ダンジョン行きも春に向けて始めるまでに近くの魔物は倒しておく必要があるだろうし、目的地の森もあのダンジョンの向こう側だしね。都合がいいんだ」
「なるほどね、分かったよ。なら、クラースと一緒にタイミングを見て行っておくれ。ただ、問題はどこに作るかだねぇ。温泉とやらは裸で入るんだろう? バカタレ共が覗いたりできないようにしっかりと建物も用意する必要があるだろうさ」
前科があるような者もいるため、しっかりと対策を打つ必要がある。
可能であればしっかりと建物を用意する必要もある事を考えると、術が完成したとは言えそれだけでは事足りない。
「オババオババ、男衆に建てさせればいいわ! 女衆が見回りしておかしな細工をさせなければいいのよ!」
「ふぅむ……、まあそれが妥当だろうね。どうせ冬は暇して
「そうね!」
男衆の
その点についてリヒトが問いかけようと視線をマーリトに向けたところで、マーリトがふっと微笑むように目を細めた。
「心配いらないよ。男衆連中も今のままじゃダメだってことぐらい、分かっているだろうからね」
「そうなの?」
「あぁ、そうさ。リクハルドや年齢が高くなった男衆なんかは女衆からの信頼を得られるように、冬でもお湯を使える術を家々を回って使ってやってたりするのさ。身を固めるには遅すぎるけれど、若い衆を止められなかったせめてもの償いとしてね。最初の内はリクハルドに反抗していた連中も、歳を重ねる毎にリクハルドに協力するようになっていった。今でもそういう事をしてない連中は、ラディムの取り巻き一派ぐらいなもんさ」
「らでぃむ……?」
「……あんたねぇ。いくら興味がない相手とは言え、名前と顔ぐらいは覚えときなよ?」
「仕方ないわ! リヒトだもの!」
聞き覚えのない名前を挙げられて小首を傾げるリヒトに呆れた様子でマーリトが注意すれば、何故かアニタが得意げに胸を張って答える。
そんな様子に溜息を吐き出して、マーリトは煙管に火を点け、一つ深呼吸するように薬草の煙を吸い込んだ。
「フゥーー……。ま、そんな訳で女衆も
「意地を張っていたってことね! 愚かだわ!」
「お前さんが言うんじゃないよ、アニタ」
「ふふーん、わたしは意地なんて張らないもの! クラースと母上の事だって許したんだから! さっきもリヒトに褒められたばっかりの大人よ!」
「……それで素直に喜んでいるような子を、大人って言うのかねぇ……」
ぼやくように呟くマーリトの一言は、敢えて触れるまいと口を噤んで聞き流す事にしたリヒトであった。
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