『里』



 山の中腹あたりから麓付近まで広がる範囲を【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】が覆っているため、山の上部は外界との繋がりが完全に遮断されている。


 リヒトとクラースの生まれ育った『里』は、周辺に連なる山々よりも一際背の高い山の、さらに上部である頂上近くに築かれているため、当然ながらに一度たりとも霧の向こう側に行った事もなければ、外がどんな世界であるかも、そもそも『里』の者以外には人すら見た事もなかった。


 何せここで見かける人と言えば、見知った『里』の者しかいないからだ。


 近くの他の山に人はいないかと言われれば、答えは「いない」の一択となる。

 事実、『里』の大人達によって連なる山々の捜索も狩りと物資調達を行うために頻繁に行われているが、何年経ってもそこに人が現れたという痕跡は一切見つかっていない。


 そんな場所である以上、リヒトとクラースの知らない人が『里』へとやって来るとするならば、【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】を突き抜けて進んで来るか、あるいは空でも飛んでくるような存在ぐらいなもの。

 そんな稀有な存在は、この数十年どころか百年単位でやって来ていないというのが現実であった。


 故に、リヒトのクラースの生まれ育ったその場所に名前は必要なく、ただ『里』という呼び名だけが定着していた

 誰かに『里』を伝える事もなければ、『里』を区別する必要もない以上、そうなるのも必然の流れとも言えた。


 そんな『里』の建物は、建築様式からして独特であった。


 まず、傾斜の大きい赤瓦屋根によく似た特徴的な平屋の戸建てが多い。

 屋根は建物に対してかなり大きく背も高く、すっぽりと建物そのものを覆うようにして日差しを避けた造りになっている。


 冬は雪に閉じ込められないように、そして雪の重さで屋根が崩れないよう傾斜を大きくする事で雪を滑り落とし、夏は強烈な陽射しを避けるための形だ。

 色については、視界さえ奪われかねない程に吹雪いた時のために赤色の屋根をすると定められている。支柱や負荷のかかる箇所は魔物の骨などを用いて補強するのも『里』では当たり前の家造りのルールであった。故に、どの家も似た形になる。


 そんな『里』の周囲は石垣で覆われているが、高さはせいぜい二メートルというところだ。もっとも、これらは魔物に対する防御の為に設けられたというわけではない。

 そもそもこの『里』の周辺に住む危険な魔物は『里』の者達によって狩り尽くされてしまうため、石垣に防衛機能は求められてすらいないのだ。

 この石垣は単純に縄張り意識の低い獣や、『里』の内部で栽培している野菜等を食い荒らされないよう、入り込めないようにしているだけに過ぎない。

 そういう意味では、『里』に住まう者たちにとって、魔物よりもただの猪などの獣の方が余程面倒で手のかかる存在だと言えたりもする。


 足元はしっかりと研磨された白い石が敷き詰められていて、『里』と呼んでいるが霧の向こう側の町とそう大差のない程度には環境が整っていた。


 そんな『里』の朱色の門の下にいた人物は、前方の森の切れ目に姿を見せた二人の人影を見つけるなり嬉しそうに笑顔を浮かべ――何かに気が付いたようにぶるぶると頭を勢いよく振って、大きく息を吸った。


「――待っていたわ、リヒト、クラース! おかえりなさい!」


 切り立った崖から、襲いかかる魔物を必要最低限だけ屠って帰ってきた二人を待っていたのは、気の強さを表すような赤髪につり上がった瞳、金色の瞳を持った少女ことアニタであった。


 何故か非常に得意げな表情を浮かべつつも、まだまだささやかな胸を張って顎をくいっと上げている。

 両手を自らの左右の腰に当てて大股を開き、挑発的に「ふふん」と笑ってみせる。それはさながら、悪の親玉か何かが満を持して姿を現したかのような、そんな堂々たる姿であった。


「怪我とかしてないわよね!? わたしが心配したんだから、ちゃんと気をつけなさい!」


「あー、うん。ありがとう、アニタ」


「俺とリヒトを傷付けられるような魔物なんて、この辺りにはいないからな。でも、心配してくれたのか。ありがとうな、アニタ」


「心配なんてしてないわ! 私に心配させたあなたたちを責めているのよ!」


「ちょっと何言ってんのか分からないよ、アニタ」


「いや、心配したって自白してるんだが……」


 次代の【巫女】。

 しかも数少ない『里』の子供であり、その栄誉と期待を一身に受けて可愛がられているのがアニタだ。

 彼女に対する『里』の者による扱いぶりは、限界集落が他人事ではなくなりつつある程度の田舎に帰ってきた娘夫婦が、娘となった女の子を連れてきている時の祖父や近所のご高齢者がたのそれに近い。


 元々『里』は七十人程が住まうだけの非常に小さな集まりだ。

 一時は倍以上もいたのだが、大型の魔物が突然襲いかかってきた際に激しい戦いとなり、多くの若者が死んでしまった。リヒトとクラースの両親もまた、その時の戦いで命を落としている。

 その結果、今では若い夫婦も減ってしまい、年寄りが多いのだ。


 ともあれ、そういう環境にもあるせいか、アニタが何をしても基本的には「おーおー、そうかいそうかい。アニタちゃんは偉いのう」とでも言わんばかりに全肯定されてしまうのである。

 そんな全肯定教育にどっぷりと浸かってしまった結果、よく分からない全能感に満ち溢れた結果、最近は尊大な態度を意識的に取る傾向にあった。


 もっとも、それでも行儀良く「おかえりなさい!」と言っていたり、怪我をしてないか、心配していたのだと伝えるあたり、根は素直でいい子なのだという事を雄弁に物語っているのだが、当の本人はうまく怒っている事を訴えられたと言える出来栄えであったようで、実にご満悦な様子であった。


「ふっふーん♪ ……ん? あ……っ、そうよ! わたし、心配させられて怒ってるんだからねっ!」


「いや、取り繕うの下手過ぎだろ。情緒どこいった」


「わたしに怒られたくなかったらちゃんと謝らなきゃダメよ! もうそう簡単に笑顔とか見せたり、喜んだりしてあげな――」


「――アニタ、お土産にデカ蜂の蜜あるよ」


「わーい! ありがと! だいすきよ、リヒト!」


 それはそれは眩い程の満面のえみであった。


「うん、どういたしまして。クラースが見つけてくれたんだよ?」


「ホント!? クラース、あなたもだいすきよ! ありがと!」


「……お前……。それでいいのか、アニタ……」


 クラースの冷静なツッコミも、ご満悦なアニタには一切聞こえていないようだ。

 リヒトが懐から取り出した瓶に入った黄金色の美しい蜜に目を爛々と輝かせており、不機嫌モードは霧の彼方へと飛んでいってしまった。

 かくいうクラースもまた、アニタのお転婆ぶりはともかく素直で根はいい子だという事は理解しているだけに、ここで余計にゴチャゴチャと口にして機嫌を損ねるつもりもなかったのか、肩をすくめるに留まった。


「あっ、そうよ! リヒト、クラース! オババが帰ってきたら来なさいって言ってたわ!」


「オババが?」


「へー、珍しいな。んじゃアニタ、一緒に行くか?」


「うん!」


 満面の笑みで元気良く返事をしたアニタが、リヒトとクラースの間に駆け寄るなり二人の手を取ろうとする。いつも二人と出かける時はこうするのがアニタのお気に入りだった。

 しかし今、アニタは蜂蜜の瓶を持っているため片手が塞がっている。

 どうにか二人と手を繋ごうと試行錯誤するが難しく、ならば片方は諦めようとして、今度はどちらの手を取るかで悩み始めた。


「うー、うーーっ! 両手が繋げないわ!」


「そりゃそうだろ……。で、どうしてほしいんだ? リヒト、言うなよ」


「うん、分かった」


「何よ! 教えてくれたっていいじゃない!」


「あのな、アニタ。ちょっとは自分で考えるようにしろって。いつも言ってるだろ」


「ふんっ、クラースのバカ! ケチ!」


 ちょっとしたお説教じみた話になった途端、アニタの反抗が始まってしまうのは相変わらずのようである。

 ヘソを曲げた結果、結局アニタは蜂蜜の瓶をリヒトに持っているように頼む事もなく、リヒトの手を繋ぐだけで満足したようであった。


「さ、いきましょ! ぐずぐずしないの!」


 自由なアニタの振る舞いにリヒトとクラースの二人が一度視線を交わして、お互いに小さく苦笑を浮かべる。

 そうして、二人はアニタに連れられるまま『里』の奥にあるオババの元へと向かう事になったのであった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る