いつか霧の向こうで

白神 怜司

第一章 常識外れの里暮らし

Prologue 今日も霧は晴れない




 山の上にある切り立った崖。

 そんな場所を吹き抜けていく風は、季節が冬である事も相まって、肌を露出していては耐えられない程の刺すような痛みを伴う程に冷たいものだ。標高の高いこの場所は風も強く、容易く身体の熱を奪っていく。


 故にこの場所には、人はもちろん、動物も、魔物でさえもそうそう立ち寄ろうとしない。住処にするにはあまりにも厳しい場所だ。


 ただでさえ険しい山の中の、切り立った崖の上だ。

 ましてや、真冬で空気はあまりにも冷たく、何者かが気紛れに足を伸ばすような事さえないようなその場所に、人影があった。


 その人影は迷う事もなくひょいひょいと身軽に跳んで崖の頂上へと躍り出た。


 現れた人影は、小柄な子供だ。

 黒い布の手拭いで頭を縛り、首巻きをそのまま鼻の上まで覆うようにしているせいで一見して男女の判別はつきにくいが、それは少年であった。


 少年は、祈るように一度目を閉じて深呼吸。

 そうして、ゆっくりと目を開けて眼下に顔を向けた。


 切り立った崖から見える先に広がるのは、霧が雲海のように広がっているばかり。

 今日もこの場所から霧の向こう側に一体何が広がっているのかを窺い知る事はできない。


 ――――変わらない光景。

 それを目の当たりにして、「案の定だ、分かってはいた」などと、期待通りにいかない現実に折り合いをつけるように自らに胸の内で言い聞かせてみる。

 もっとも、言い聞かせてみたところで都合良く落胆の色が隠れてくれるという事もなく、吐き出したため息にしっかりと表れていた。


 そんな自分を誤魔化すように、少年が鼻の付け根近くまで覆っていた首巻きを苛立ち混じりにぐっと下ろして、頭に巻いていた手拭いを乱暴に解けば、黒く、男の子にしては長めの髪が吹き抜ける風に踊らされる。


 少年の顔はまだ幼さを残していた。

 年の頃は十代前半といったところか、まだまだ子供らしい顔立ちだ。


 細く引き締まった体を包む黒い装束はとある島国の〝忍〟を彷彿とさせる。

 もっとも、『里』の外に出る際に着込む機会が多く、狩りや修練で利用する修練用の装束はところどころがほつれているようだ。だらりと垂れた布の切れ端が強い風にはためいていて、もしもこの場所に少年を知らぬ第三者がいたとすれば、遠目にはまるで真っ黒な幽鬼のようにも見えたかもしれない。


 何せ少年は、人であれば多少なりとも前後に揺れ、左右に揺れといった動きがあってもおかしくないというのに、完全に静止しているのだ。

 そんな姿を少年を知らない常人が遠目に見たら、確かに幽鬼にも見えるというものであった。


 そのまま微動だにせずに佇み続け、冷たい外気に曝された少年の鼻先が赤くなる。

 それでも少年はその黒い双眸を眼下の霧の海――【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】と呼ばれるそれから逸らそうとはしなかった。


 そうして、身動ぎ一つしないまま、五分から十分程度が経った頃。


「――っと。またここか、リヒト」


「……うん」


 背後に現れた気配に、少年――リヒトはさして驚いた様子も見せずに、それどころか振り返ろうともせずに小さく頷いて答える。視線を【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】に向けたまま、振り向こうともしない。


 そんなリヒトに声をかけたのは、リヒトと同じような装束に身を包んだ背の高い青年であった。

 背後からリヒトの隣に並ぶような位置へと足を進めた青年もまた、鼻まで覆い隠していた首巻きを下げてから【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】を覗き込んだ。


「……変わらないな」


「うん。何も」


「ま、なんせオババが生まれるずっと前から【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】はあのまんまだって話だ。俺らが知る五年や十年なんかで大きく変わったりはしないってことか」


「……分かってる」


「……まったく。変わらないのはお前も・・・、か」


 肩をすくめながら零した言葉に何も答えないリヒトを一瞥して、青年もまた頭に巻いていた手拭いを解けば、銀色と灰色の中間にあるような、これまたリヒト同様に男にしては少々長めの髪が風に踊らされる。


 ここまで駆けて跳んでと体を動かしていたせいで籠もっていた余分な熱を奪ってくれるようで心地良く、赤い双眸を細めながら髪を解すように乱暴に頭を掻いていると、ふとリヒトの呟くような少年らしい高めの声が青年へと向けられた。


「――クラースは」


「ん? 俺がなんだって?」


「クラースは、あの【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】の向こう側に興味はないの?」


「……霧の向こう、か。確かに、何があるのか、どんな世界が広がってるのか興味がないと言えば嘘にはなるな。俺もどんな世界が広がってるのか知りたいと思った事はある。が、【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】は呪詛・・らしいからな。近づいただけで死んじまうんじゃ、どうしようもない」


 眼下に広がる霧の海、【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】は名のある竜が死に際に世界を呪った呪詛だという。

 それ故に生者が近づけば竜の呪いによってみるみる肉体が汚染され、力尽きるという話はリヒトもよくよく聞かされていた。


「でも、『呪詛避けの護符』があれば行き来ができるんでしょ?」


「作り手がいないせいで護符は厳重に保管されてる。麓にある町に買い物に行く男衆以外の持ち出しは禁じられてるしな。しかも、『呪詛避けの護符』を確実に持って帰って来れる腕利きの大人じゃないと麓まで降りる事はできない。『成人の儀』すら受けていない俺とお前が行ける訳ないって」


「……それはそうだけど……」


 『呪詛避けの護符』とは、あの【拒絶の霧ダツィーオ・ニーヴ】の呪詛の霧を一時的に遠ざける効果を持った術具だ。しかし、そんな便利なアイテムとも言える『呪詛避けの護符』を作れた唯一の存在であった【巫女】は、リヒトやクラースが生まれる前に亡くなっており、『呪詛避けの護符』は今や予備すらままならないような状態であった。

 そんな状態で、まだ子供でしかないリヒトやクラースに、『里』で手に入らない塩や布といった貴重な品々を手に入れる為に必要となる護符を持たせるはずもない。


 リヒトとてそれは理解している。

 それでも、理解しているからと言って納得しているかと言えば、それは別の話であった。


「まあそう落ち込むなって。オババが今、アニタを鍛えてるだろ? アニタなら先代程まではいかないけれど、護符を作れるかもしれないって話だ。いずれはどうにかなる、かも……しれない」


「……あの・・、アニタが、本当に?」


 吹き抜ける風の音が妙に大きく感じられる程度に、痛い沈黙がその場に流れる。

 リヒトのじとりとした視線を受ける事となったクラースが言葉を探すかのように視線を彷徨わせて、結果、明後日の方を見つめて固まり――ため息を吐き出した。


「……はあ。望み薄だな」


「……アニタだし、ね」


 アニタと言えば、二人の生まれ育った里の中でも一番のお転婆娘だ。

 今年で十四になるリヒトよりも三つばかり歳下ではあるのだが、減らず口を叩いては大人達と口喧嘩に発展し、逃げ出す。

 運良く捕まえたとしても、今度はヘソを曲げ、里の大人たち総出で捜索して見つけてくれるまで自分からは帰らなくなったりと、何かと騒ぎを引き起こす、そんな少女であった。


 リヒトやクラースも、何度もアニタに対して年長者として大人たちの言う事を聞くよう、時には説教して、時には説得を試みてと手を尽くしてきた事もあった。

 もっとも、これまでにその努力が功を奏しているかについては……二人の物言いと絶望的な表情から推して知るべし、というものであった。


 そんな少女が、将来立派な大人となり、護符を作れるような立派な【巫女】となれるかもしれない未来を想像して……二人は思わず押し黙った。


「……冷えてきたな。帰るか」


「……うん、そうだね」


 場所が場所だけに冷えてきたのか。それとも、とある少女の未来を想像したせいなのか。


 お互いに何に冷えた・・・・・かは言及しないまま、二人は手拭いを頭に巻き直し、首巻きを鼻上まで押し上げるなり、山中の深い森の中へと駆けて飛び込み、『里』への帰路についた。





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