六章 ラ・ド・バーンの魔法1

 その日、ローデは馬車のなかの調合室で魔導薬を作っていた。

 原料となる植物をすりつぶし、煎じてエキスを取り出し、混ぜあわせる。混ぜあわせた液体をフラスコに入れる。そこに『魔導法』を使って癒しの効果を与える。

 「うん。これはなかなかいい出来かも」

 ローデは液体の詰まったフラスコを片手でゆらなしがら、満足そうに呟いた。

 魔導薬と言っても、売り物ではない。売り物を作るための練習である。

 売り物の魔導薬を作ることはグロウから禁止されている。理由は単純。まだまだ下手くそだからだ。

 「グロウと結婚して道化魔導士になる!」

 そう決意したときからもちろん、道化師としての修業の他に魔導士としての修行もつんできた。そもそも、『母の家』とは子育てをするためだけの場所ではない。将来に備え、経験を積み、技量を磨き、社会に出たあと蓄えた力を一気に爆発させるための場所でもある。

 だから、学ぼうと思えば一通りの書物や参考書はそろっているし、実験室もある。希望すれば個人的に導師についてもらうことも出来る。

 ローデもそうして何年もの間、魔導法を学び、魔導薬の作り方を学んできた。とは言え、それはあくまで『学生』として励んできたと言うだけのこと。『プロ』であるグロウから見ればまだまだ未熟なのは当たり前。とくに、魔導法は混沌こんとんの力を用いる技術であるだけに危険も大きい。たやすく許可されないのも当然だった。

 ラ・ド・バーンには三種類の『魔法』がある。

 巫女の『呪法』。

 魔導士の『魔導法』。

 そして、神官の『奇跡』。

 この三つを総称して『魔法』と呼ぶ。ただし、神官は自分たちの『奇跡』を『魔法』と呼ばれることをきらう。『魔法』という表現はあくまでも一般人の間で使われる俗称である。

 では、それぞれの『魔法』の特徴はと言うと、これにはラ・ド・バーンにおける宗教についても話すことになる。

 まず、巫女の『呪法』。

 そもそも『巫女』とはなにかと言うと『天地てんち七曜しちようことわり』に従い、呪法を使う『神の妻』たる女性のこと。『神の妻』なのだから当然、女性にしかなれない。その理由は不明なのだが、とにかく歴史上、男性で巫女の呪法を使えた人物はひとりもいない。

 その巫女の学ぶ教えが天地てんち七曜しちようことわり

 これは、ラ・ド・バーン最古と言われる『道』であり、現在に至るまでラ・ド・バーンで最も広まっている『教え』でもある。

 地の五曜、すいもくきん。これに天の二曜、にちげつを加えて天地七曜。この七曜の作用によって世の中のすべては構成されている。それが天地てんち七曜しちようことわりの考え方。厳密にはここに外曜がいようと呼ばれるくうせいもあるのだが、このふたつは人の世とは別次元の存在なので、通常は省かれる。

 とにかく、この世のすべての存在はにちげつすいもくきんのいずれかの属性をもっている。その属性に応じて対応する呪法を使うのが巫女。例えば、水属性である水曜の巫女であれば、水曜の呪法と木曜の呪法、そのふたつを使える。同様に、木属性である木曜の巫女は木曜の呪法と火曜の呪法を使える。火曜の巫女であれば火曜の呪法と土曜の呪法、土曜の巫女であれば土曜の呪法と金曜の呪法、金曜の巫女であれば金曜の呪法と水曜の呪法と、それぞれに二種類の呪法を使うことが出来る。

 「二種類ずつ、使えるのか?」

 知らない人間はたいてい、不思議そうにそう尋ねる。水曜の巫女なら水曜の呪法だけしか使えないのではないか、と。

 これは五行相生の理による。

 すいもくを生み、もくを生み、を生み、きんを生み、きんすいを生む。そうして、地の五曜が循環することで世界は成立している。ために、自分の属する曜と、その曜が生む次の曜、ふたつの力を使える。

 にちげつは少し特殊で、日曜は天の曜として地の五曜すべてを生み出し、循環させる力となる。そのため、にちは地の五曜すべてに対して優位に立つ。唯一、げつだけがにちの力を押さえる。

 日曜の巫女は理論上、地の五曜すべての力を使える。とは言っても、実際にそんなことのできた巫女がいた試しはない。どんなに優れた巫女でも日曜を含めて三種類が限界とか。

 月曜の巫女はさらに特殊で他の曜の力は一切、使えない。にちの勢いを押さえ、五曜循環の流れが行き過ぎないようにするのがその役目。そのため、げつ巫女みこは強制的ににち巫女みことペアを組まされる。

 巫女は『神の妻』なので当然、男子禁制。恋愛などは絶対禁止。まして、妊娠・出産などもっての外。男性に心を移せばその時点で巫女としての力を失う。

 そのため、巫女の大半は一〇代~二〇代の若者。ある程度の年齢――大体、三〇前後――になると引退して、普通の人間として暮らす。もちろん、なかには生涯、神に仕える巫女として過ごす女性もいるわけだが。

 次に魔導士。これは『来訪らいほうしん』の力を使い、魔導法を駆使する人間のことである。

 では、来訪らいほうしんとはなにか。

 天地てんち七曜しちようことわりにおいては、世界は当初、混沌こんとんに支配されていたと説く。その時代、神は人であり、人は動物であり、動物は神であった。生者と死者の区別もなく、すべては自在に他の何者かへと変化できた。そんななか、一柱ひとはしらの神が飛び出した。その神は世界を覆い、混沌こんとんを秩序へと組み替えた。

 それが高神たかかみ

 この高神たかかみが巫女の仕える神。

 高神たかかみが世界を秩序立てることで神は神、人は人、動物は動物と固定化され、他の何者かに変化することはできなくなった。生と死の区別もこのときに生まれた。高神たかかみは世界にあまねく存在し、秩序を保っている。もし、高神たかかみの力が失われれば世界は再び混沌こんとんに戻り、この世界は存在できなくなる。

 天地てんち七曜しちようことわりはそう教えている。

 さて、高神たかかみによって混沌こんとんは払われ、秩序に取って代わられた。だが、混沌こんとんの神々は消えてなくなったわけではない。秩序立てられた世界から去り、異世界に渡って星となった。これが外曜のうちの『せい』。人の世の外にあって、人の世を淡く照らし、それでいて、人の世に影響を与えることはない存在。

 ただし、完全に去ったわけでもない。ときにはこの世界を訪れ、あるいは幸いを、あるいは災いをもたらす。

 来ては帰る異界の神。

 これが来訪らいほうしん

 そんな『人の世に現れた来訪らいほうしん』のことを一般には『魔物』と呼ぶ。

 高神たかかみに仕える巫女の呪法と、来訪らいほうしんの力を使う魔導士の魔導法のちがいはその特性。巫女の呪法は秩序の神たる高神たかかみの力を借りるもの。炎や雷と言った自然の力を操ったり、怪我や病気を治すことはできるが――つまり、自然に起こることは人為的に起こせるのだが――秩序から外れることはできない。土を金属にかえたり、動物を人にしたり、死者を蘇らせたり……と言ったことはできないのだ。

 魔導法はわけがちがう。来訪らいほうしんはもともとが混沌こんとんの神だから、なんでもあり。土を金属にかえることも、動物を人にすることも、死者を蘇らせることも、本当になんでもありの万能の力である。理論的には。

 あいにく、現実にはそううまくは行かない。一定の制限はある。代表的なのが、

 『魔導法で食べ物を作ることはできない』

 と言うもの。

 正確には『食べ物を』ではなく『生き物を』作ることができない。

 そもそも、なぜ、魔導法はあるモノを別のモノへとかえることができるのか。それはモノの『意之霊いのち』を操るから。

 では、意之霊いのちとはなにか?

 天地てんち七曜しちようことわりにおいては、世界はすべて同じ、単一のものからできているとする。それが、外曜がいようのうちの『くう』。一塊のくうがダンスを踊ることで土となり、金属となり、生き物となる。踊るダンスがかわれば別のモノへと変化する。このダンスが意之霊いのち

 原初の混沌こんとんの世界ではどの空も好き勝手に踊るダンスをかえていた。だから、神は人となり、人は動物となり、動物は神となった。それではイカン、ややこしすぎる。と、そう考えた――のかどうかは知らないが、とにかく、高神たかかみは自分の息吹で世界を満たすことにより、すべてのくうが自分の指示のもとで踊るように世界を作り替えた。

 言わば、高神たかかみとは世界を満たす音楽そのもの。すべてのくうはその音楽に従ってダンスを踊る。そのために、神は神、人は人、動物は動物という秩序立てられた世界となった。

 だが、魔導士は自分の奏でる音楽で踊るダンスをかえさせることができる。例えば、土のダンスを金属のダンスに、と言うふうに。そのために、魔導法はあるモノを別のモノへとかえることができる。

 では、なぜ、生き物は作れないのか。

 それは、生き物のダンスは複雑だから。無生物のダンスは単純である。それは、言ってみればソロのダンス。ひとつの意之霊いのちだけを操ればいいから、作り替えることができる。

 それに対し、生命ははるかに複雑。単純な生命でも、ユニットによる集団パフォーマンス。人間のような複雑な生き物になると、それこそ何万という集団による壮大な演舞となる。

 生き物を魔導法で作ろうと思ったら何万という意之霊いのちすべてを再現し、しかも、全体として調和させなくてはならない。そんなことは人間の能力ではとうてい無理。だから、魔導法で生き物を作ることはできない。

 食べ物ももとは生き物だから意之霊いのちの複雑さは無生物の比ではない。

 だから、食べ物も作れない。

 そういうことである。

 洪水帝ウィッチタブルーは『史上最強』と呼ばれるほどに強力な木曜の巫女であり、同時にきわめて優れた魔導士だったが、そのウィッチタブルーでさえ生き物はおろか、食べ物さえ生涯、作ることは出来なかったと言われている。

 とにかく、魔導法にも限界はある。それでも、あるモノを別のモノにかえ、無から有を生み出すことができるのだから便利な力にはちがいない。とくに『死者を蘇らせることもできる』という点は誰もが憧れる。だが、その分、危険な力でもある。

 巫女の呪法は自然に起こることを起こしているだけだから、制御に失敗しても大したことはない。

 魔導法はちがう。

 なにしろ、この世とは相反する混沌こんとんの力を使う技法。とくに『死者を蘇らせる』と言うことは、この世に混沌こんとんを引き込むと言うこと。混沌こんとんを引き込むことでいったん、生と死が分かたれていない原初の状態へと戻し、その後、生きている状態だけを取り出し、固定化する。

 それが蘇生法。

 言葉で説明すれば簡単だが、実際には恐ろしく緻密な制御が必要となるため危険が大きい。制御に失敗すれば世の破滅。この世に混沌こんとんが漏れ出し、すべてがかわってしまう。混沌こんとんが世界を覆い尽くせば、いまの世にあるすべてのモノは、そのままでは存在できなくなる。もちろん、その『すべてのモノ』のなかには人も含まれる。

 そのために『邪悪なる悪魔の業』として危険視されることも多い。とくに唯一神を奉じる神官たちはその傾向が強い。神官たちが自分たちの行使する奇跡を『魔法』と呼ばれ、魔導法と一緒くたにされるのをきらうのはまさにこのため。魔導士と魔導法の根絶を声高に訴える神官も多い。

 ちなみに、魔導士には巫女のような特定の資格はない。男でも、女でも、それ以外でも、修行さえ積めば誰でもなれる――そのための才能さえあれば。

 恋愛はもちろん、結婚もできる。妊娠・出産したからと言って力を失うこともない。そのために、巫女を引退した女性が魔導士に転職することもある。

 『だったら、最初から魔導士になれば?』

 そう思うだろう。しかし、前述の通り、魔導法には危険がつきまとう。そこで、まずは巫女となって修行を積み、魔法の制御に自信がついたところで転職する。そういうパターンが多いのだ。

 なお、巫女のまま魔導法を扱う人もいる。巫女にして魔導士たるこの人たちのことを『魔女』と呼ぶ。

 巫女の呪法と魔導法を両方――しかも、どちらも極めて高度に――使いこなした洪水帝ウィッチタブルーは史上最強級の魔女であったのだ。

 ちなみに、混沌こんとんの神々のすべてがこの世から去ったわけではない。混沌こんとんの神々のなかでも力に劣る下級の神々はこの世に残り、秩序に組み込まれ、別の存在へとかわった。それが妖魔・妖精・妖怪などと呼ばれる存在。言わば『零落れいらくした神々』である。

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