八章 来訪神

 風が吹き、雨が降っていた。

 ラ・ド・バーンの大地を埋め尽くす広大な森のなか。

 風によって煽られる木々の枝葉が立てる音は一〇〇万の人間が一斉に団扇うちわあおいでいるかのよう。したたり落ちる水音は流れ落ちる瀑布のよう。空にはひっきりなしに光が走り、人の恐怖心を刺激する音が鳴り響く。見ているはしから一筋の稲妻が降りかかり、大地を貫く。

 そんなひどい嵐の日であった。

 森のなかに通された細い街道の上を一台の馬車が走っている。

 街道と言っても粗末なものだ。単に細く切り開いた森のなかに盛り土をしただけのもの。舗装などもちろん、されていない。手入れもろくにされておらず、表面には草どころか若い苗木まで生えている。

 馬車を引く馬たちも豪雨に打たれてグズグズになった道を進むだけではなく、水を吸ってジットリと重くなった草に阻まれ、あちこちに生えた苗木に邪魔をされ、ひどく歩きづらそうだ。疲れ具合も普段の比ではないだろう。

 過酷に過ぎる大自然に覆われたラ・ド・バーン大陸。

 街道を整備するにも巨大な恐竜や魔物たち、様々な脅威と戦わなくてはならずなかなか手がまわらない。そのため、どうしても荒れ放題になってしまう。

 それもまた、古くから陸上の移動をあきらめて空を飛ぶ方法が研究されてきた理由。そして、現実に〝竜伯〟という飛行ひこう魔機マギが実用化されている現在、街道の維持整備はますますおざなりにされている。

 それでも、そんな街道をわざわざ通らなければならないものもいる。こうして嵐の日でも旅をつづける『笑顔座』のように。

 「……ふう。ひどい雨だ」

 グロウがずぶ濡れの体でボヤいた。馬車の見張り台からなかに戻ってきたところだった。

 「なにも、こんな日にまで移動しなくてもいいと思うんだけど」

 愛する夫のために乾いたタオルと着替えを用意しながらローデが言った。その口調は心配と不安と呆れた思いが同量ずつ、と言ったものだった。

 妻の言葉にグロウは反論した。

 「そうはいかない。『笑顔座』の到着をまっている人が大勢いるんだ。雨が降ろうが、魔物が降ろうが、旅の予定をかえるわけにはいかない」

 「それはわかっているけど……」

 「わかっているなら見張り台に向かってくれ。君の番だぞ」

 「わかってるわよ。行ってくるからちゃんと体を拭いて、着替えておいてよね。あなたが病気になったりしたらそれこそ台無しなんだから」

 「ああ、わかっている。ありがとう」

 ローデはグロウにタオルと着替えを手渡して見張り台に向かった。もちろん、こんな嵐のなかに見張り台に立って風雨に身をさらしたくなどない。しかし、ラ・ド・バーンの大自然のなかを旅するなら見張りは欠かせない。こちらが見つける先に相手に見つけられるわけにはいかない。

 相手に先に見つけられ、それで逃げられるほどラ・ド・バーンに潜む脅威は甘くはない。見つかるより先に相手を見つける。それができなければ生き残れない。そのためには見張りは常に立たせておかなくてはならないし、夫ひとりに任せるような妻でいる気はない。それぐらいなら最初から、過酷な大自然のなかを旅する道化魔導士の妻になったりはしない。

 その過酷な旅を分かち合いたい。

 そう思ったからこそ強引に口説いて妻の座を射止めたのだ。

 ローデが見張り台に向かったあと、グロウは妻に対して誠実だったとは言えなかった。

 『きちんと着替えて』

 そう言われて『わかっている』と答えたにもかかわらず、着替えもせず、体も拭かず、髪の毛を乱暴にタオルで拭いただけだったのだ。

 それだけでグッショリ濡れたタオルを肩にかけ、馬車の窓辺に向かった。そこにはいくつかの妖精を模した人形が置かれていた。

 「……魔結晶も残り少ない。使い果たすことにならなければいいが」

 過酷なるラ・ド・バーンの大自然。

 そのなかを旅するからにはそれなりの備えはしてある。馬車全体を気付かれにくくする隠蔽の魔導法と防御力を高める障壁の魔導法とをかけてある。馬たちを雷雨にさらしつづけるわけにはいかないので雷雨除けのための防壁も展開している。

 とは言え、これだけの魔導法を常時、自分の力でかけつづけられるわけではもちろんない。そんなことをしていたら魔力があっという間に尽きてしまうし、そもそも、人間の集中力はそんなに長い時間つつかない。

 そこで、重要になるのがこの妖精の人形、〝手伝い妖精〟。

 ひとつにつき、ひとつの魔導法が使えるように出来ており、原料となる魔結晶さえ補充しておけば自動的に魔導法を発動しつづけてくれる。ひとつにつき、ひとつの魔導法しか使えないので汎用性という点では人間の魔導士にはるかに劣る。反面、持続性と信頼性という点では人間より数段、勝る。

 〝竜伯〟が実用化されたのもこの〝手伝い妖精〟が出来たおかげだ。〝手伝い妖精〟が自動的に重力場を発生させることで、その方向に落ちていくことによって、〝竜伯〟は空を飛ぶ。

 「……飛翔法は使わずにすめばいいが。飛翔法は魔結晶の消費が激しいからな」

 グロウは不安げに呟いた。

 魔結晶そのものはラ・ド・バーン大陸の西北翼から豊富に産出される。いまではそうめずらしいものではない。

 とは言え個人で大量にストックしておくのはやはりキツい。まして、さしたる収入もない旅の道化魔導士にとってはなおさらだ。

 「しかし、やっかいな怪物に目をつけられれば空を飛んで一気に逃げるしかない。そんなのに出っくわさないことを祈るしかないが……」

 グロウはそう呟いたがその願いは叶えられなかった。あるいは、あまりにできた妻を手に入れたことに神が嫉妬したのだろうか。グロウの懸念は現実のものになってしまった。

 「大変よ、グロウ!」

 ローデが叫びながら馬車のなかに戻ってきた。ずぶ濡れであることなど忘れて叫んだ。

 「来訪らいほうしんがいるわ!」

 「なんだと⁉」

 グロウは叫んだ。急いで見張り台にあがった。ローデも一緒だ。空を見上げると風が吹き、雨が降り、雷鳴が轟くなかを翼をもった獣と言うべき影がフワフワと漂っていた。それを見てグロウは忌々しげに舌打ちした。

 「……下級の来訪らいほうしんか。よりによって」

 「ど、どうするの、グロウ……」

 ローデが不安そうにグロウの腕にしがみついた。

 来訪らいほうしん

 妖魔・妖怪・妖精。

 それらの種族を総称して魔物と呼ぶ。

 来訪らいほうしんは魔物のなかでも最上級の存在。いまこの場にいる来訪らいほうしんはそのなかでは下級とは言え、魔物としては上位の力をもっている。

 グロウにしてもローデにしても魔導士である以上当然、戦う術はもっているし、実戦の経験もある。道化魔導士であるグロウにとっては行く先々で人々のために魔物退治をするのも仕事の内だ。とは言え、好んで戦いたい相手ではない。やり過ごせるならそうしたい。

 「落ち着いて、ローデ。来訪らいほうしんは基本的には人間に興味を示さない。ただ、その場にいるだけだ。こちらから手を出さなければ襲ってくることはそうはない。それに……」

 グロウはいったん、言葉を切ってからつづけた。

 「来訪らいほうしんはこの世界にいられる時間は限られている」

 「……異界の存在である来訪らいほうしんにとって、この世界にいることは、火の玉が水のなかに飛び込むようなもの。存在できる時間には限りがある……だったわね」

 「そうだ。下級の来訪らいほうしんであれば存在できる時間もそれだけ少ない。うまいことやり過ごせれば……」

 グロウはそう言ったが、この日のグロウはつくづく運に見放されていたようだ。やはり、神が嫉妬に狂っていたのかも知れない。普通であれば人間に興味を示さないはずの来訪らいほうしんがこのときばかりは馬車をめがけてまっすぐにやってきた。

 「いけない! なかに戻るんだ、ローデ!」

 グロウは妻の体を押すようにして馬車のなかに戻った。〝手伝い妖精〟を手にとった。飛翔法の〝手伝い妖精〟を。

 「それを使うの⁉」

 ローデが叫んだ。

 「飛翔法の〝手伝い妖精〟は魔結晶の消費が激しいんでしょう? いま使ったら予備の魔結晶まで使い果たしてしまうわ」

 「仕方がない! こんなところで来訪らいほうしんにやられるわけにはいかない」

 『笑顔座』の訪れをまっている人が大勢いるんだ!

 グロウはそう叫びながら〝手伝い妖精〟を発動させた。

 〝手伝い妖精〟は魔結晶に含まれる魔力を吸収し、自分の特性として組み込まれた魔導法を発動させる。馬車の上空前方に強力な重力場が生み出され、馬車は馬ごと上空の重力場めがけて落ちていった。

 まさに、間一髪だった。

 馬車が飛びあがったまさにそのとき、来訪らいほうしんの放った稲妻が大地を撃ったのだ。ほんの一瞬、飛びあがるのが遅れていれば、グロウもローデも馬車ごと稲妻に撃たれて黒焦げになっていた。

 「ローデ、ありったけの魔結晶をもってきてくれ! 全速で振り切る」

 「はい!」

 ローデは文字通り保管庫に飛んでいって予備の魔結晶をありったけもってきた。グロウはそれらの魔結晶を〝手伝い妖精〟に食わせ、その力を極限まで引き出した。

 風と、雨と、稲妻が降りそそぐなか、馬車はグングンと空を飛んでいった。


「やれやれ。なんとか振り切ったようだな」

 見張り台から戻ってきたグロウが溜め息交じりに言った。それを聞いてローデも大きく息を吐き出した。

 「ああ、よかった。稲妻を撃たれたときにはもうダメかと思ったわ」

 「まあ、基本的になにか目的をもってやってくるという手合いではないしな。振り切ったと言うよりも向こうが興味をなくしたんだろうが」

 グロウはそう言いながら〝手伝い妖精〟を確認した。『やれやれ』と首を左右に振った。

 「もう少しで魔結晶を使い果たし、真っ逆さまに落ちるところだったな」

 「本当に間一髪だったのね」

 ローデは改めて胸をなで下ろした。そして、ラ・ド・バーンを旅することの困難さを改めて感じた。

 ラ・ド・バーンの大地を旅していれば敵の襲撃などいやでも慣れてしまう。それでも、来訪らいほうしんに狙われた恐怖は生々しい。

 「……グロウはずっと、こんな危険な旅をつづけてきたのね」

 「……まあな」

 「人々を笑顔にする。そのために」

 「……ああ。おれにとって、それだけが自分の存在を生かせる方法だったからな」

 ローデは黙ってグロウに近づいた。そして、かのの首に両腕をまわし、キスを交わした。


 馬車を地上に降ろし、再び街道を進みはじめた。ほどなくしてあれほど荒れ狂っていた嵐が嘘のようにやみ、穏やかな青空が広がりはじめた。

 「わあ、なんかすっかり晴れちゃったわね」

 「そうだな。もしかしたら、あの来訪らいほうしんが原因で起きていたのかもな」

 「来訪らいほうしんが? でも、あれって来訪らいほうしんとしては下っ端なんでしょう? 嵐まで起こせるものなの?」

 「下っ端とは言っても来訪らいほうしんはれっきとした異界の神だ。それぐらいのことはやるさ。と言うより、存在自体が世界にとっての災厄だからな。来訪らいほうしんがこの世界にくるのは火の玉が水のなかに落ちるようなもの。いずれは自然に消滅するがそれまでの間に水は沸騰し、蒸発し、火の玉のまわりでは環境が激変し、多大な被害が出る。それど同じで来訪らいほうしんは存在するだけで世界の在り方をかえてしまう。この世界の存在にとっては災厄そのもの。天候をかえてしまうこともある」

 その説明を聞いて――。

 ローデは『はああ』と、溜め息をついた。

 「本当、つくづく怖いところね、ラ・ド・バーンって」

 「ああ、その通りだ。おれと一緒にいる限りこれからもずっとこんなことがつづくぞ。それでも、本当におれと暮らしていくのか?」

 その言葉に――。

 ローデは両手を腰に当てて怒ったように詰め寄った。

 「もう。なにを言っているのよ。あたしはもうあなたと人生をともにするって決めたの。でも、それはあなたのためじゃない。あたし自身が『人を笑顔にする』っていう人生を望んだから。それなのに、そんなことを言っていたら怒るわよ」

 「……ごめん」

 「ふふ。わかればいいわ。それより、こんな危険が当たり前なんだから、あたしもちゃんと対処できるようにならないとね。魔導法そのものは『母の家』で習ったし一応、実戦も経験したけど……やっぱり、こうして本物の旅をつづけるにはまだまだ力も経験も足りないわ。これから、きちんとあたしを鍛えてね、先輩」

 「ああ。もちろんだ。魔導士としても道化師としてもビシビシ行くからな。覚悟しておけよ」

 「はい!」

 まるで部活にいそしむ一〇代の少女のように、真摯しんしに、そして、初々しく答えるローデであった。

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