四章 約束

 そして、いま、ローデは約束通り、ムーングロウのもとへと向かっていた。

 あまりにも広大なるラ・ド・バーン大陸。その地域は北頭、央胴、南尾、北東翼、南東翼、北西翼、南西翼の七つのエリアにわけられる。その広大さと恐竜や異界の魔物、様々な脅威が満ちた過酷に過ぎる大自然から各エリアの行き来が難しく、かつては七つのエリアがそれぞれに孤立し、各エリア間の行き来はほとんどなかった。そのため、各エリアに固有の文化文明が発達した。

 いまでは翼竜型の飛行ひこう魔機マギ・〝竜伯〟と、魔法ネットワークである〝飛蝗ひこう〟の発達によって空を飛んで安全に、短時間で、移動出来るようになったし、大陸の端と端にいても一瞬で会話できるようにもなった。しかし、ラ・ド・バーン大陸はあまりにも広大に過ぎる。竜伯の〝巣〟や〝飛蝗ひこう〟ネットワークが普及しているのは全体の三分の二ほど。

 それも、大国周辺や都市部に集中しており、辺境の地の人々は昔ながらの質素な暮らしを送らなければならない。

 当然、そのような辺境の暮らしは厳しいものだ。

 巨大な恐竜や魔物たちに襲われても助けを求めることも出来ず、自分たちだけで対処しなければならない。巫女や魔導士の数も少なく、病気や怪我の治療、薬品作り、防壁の修復などにも事欠く。情報も行き渡らず、娯楽にも乏しい。そんな状況のなかだからこそ、ムーングロウのように辺境の〝丘〟を巡る道化師の存在が大きくなる。

 ローデがムーングロウに惚れたのも『自分もこんな風に人々を笑顔に出来る人間になりたい!』と思ったからだ。

 そうしていま、ローデは約束通りにやってきた。

 ムーングロウの家であり、工房であり、舞台ともなる馬車の前へと。

 今回は実に穏やかな旅だった。

 〝竜伯〟の航路が通っているもっとも近くの〝丘〟まで〝竜伯〟で飛び、そこから辺境に向かう相乗り馬車を使い、さらに、個人的に護衛を雇ってここまでやってきた。

 その間、起きたことと言えば、道中で野盗に襲われ、肉食恐竜の襲撃を受け、すぐそばを竜脚類の巨大な恐竜が通り過ぎて踏みつぶされそうになり、ちっぽけな魔物がふいに現れて炎を吐き散らして去って行ったぐらいだ。なんとも幸運なことに穏やかで安全な旅だった。

 野盗と肉食恐竜たちは護衛が追い払ったし、竜脚類の巨大恐竜は何事もなく通りすぎた。魔物もとくに目的があったわけではないらしく、すぐに姿を消した。ラ・ド・バーンの大地を旅していれば雇った護衛が実は野盗の一員で、その手引きによって襲撃が行われてさらわれるとか、肉食恐竜の群れに襲われて全滅するとか、いきなり魔物に襲われ皆殺しにされるとか、そんなことは普通にある。

 それを思えば本当に安全な旅だった。

 なにしろ、ラ・ド・バーンの大自然はあまりにも過酷すぎるので、古くから比較的、安全な空を飛ぶ方法ばかりが研究されてきた。陸の旅は護衛任せだった。そして、〝竜伯〟という飛行ひこう魔機マギが実用化したいま、わざわざ陸上を旅する意味はない、と言うことで陸の旅を安全なものとする工夫はほとんど為されていない。その分、陸の旅は〝竜伯〟登場以前より増しているとも言える。〝竜伯〟の航路が通っている都市部と、それ以外の辺境地域の格差は開くばかりである。

 ――あの人は、グロウはそんな危険な辺境のなかでたったひとり、何十年にもわたって道化師と魔導士、ふたつの役割をこなしてきた。ただひとつ、『人々を笑わせる』という思いだけで。

 それを思うとグロウに対する尊敬の念と愛情とが心の奥底から沸き立ってくる。

 ――でも、もうだいじょうぶ。これからはひとりじゃない。あたしが一緒にいる。あたしだってあの人と暮らすために魔導法を習ってきた。炎や雷ぐらいなら出せるし、魔導薬だって作れる。絶対、あの人の役に立てる。そして……絶対、あの人と一緒に人々を笑顔にする!

 そう思い、高鳴る胸を押さえながら馬車に向かった。

 『……そのときのために』とグロウから渡されていた魔導錠をかざした。馬車の扉が開いた。なかに入った。そこでは六〇近い、世にも珍妙な顔をした男がひとり、黙々と魔導薬の調合に励んでいた。

 「……グロウ」

 ローデは呼びかけた。

 ムーングロウ、辺境の道化魔導士は人の訪れに気がついた。振り向いた。表情が驚きに強張った。立ちあがった。全身から戸惑っている様子があふれていた。ローデはかまわずグロウの胸に飛び込んだ。

 「来たわ、グロウ! あなたと結婚するために!」

 ローデは思いきりグロウに抱きつき、自分の唇を相手の唇に重ね合わせた。


 ……それは、有史以来はじめてのことだった。

 グロウの馬車のなかのベッド。そのベッドがひとりで寝るためではなく、女性と愛しあうために使われたのだ。

 ローデとグロウは行為のあとの火照った体のまま、全裸同士で抱きあっていた。ローデは愛する男の胸に顔を埋め、幸せそのものの微笑みをたたえている。そんなローデにグロウはそっとささやきかけた。

 「……ごめん、ローデ」

 「なにを謝っているの? グロウ」

 「……正直、思っていなかったんだ。君が本当におれのもとにやってくるなんて。そんなのどうせ一時の気の迷い。どうせ、おれのことなんてすぐに忘れて他の男を見つけてそいつと結婚する。そう思っていたんだ。でも、君は本当におれの所に来てくれた」

 「もう、グロウったら。なんで、そんな風に思ってたわけ?」

 「なんでって……当たり前だろう? 二〇以上も年上でしかも、こんな珍妙な、一目見て誰もが吹き出すような顔の男が本当に愛されるなんて、思うわけがないじゃないか」

 「ばかね。あたしはあなたを愛している。あなたの心を、あなたの生き方をね。だから、あなたとともに人生を生きたい。ずっとそう思ってきたし、いまだってそう思っている。その思いはかわらないわ」

 「……ローデ」

 「それと……」

 と、ローデはイタズラっぽく笑うと人差し指でグロウの口をふさいだ。

 「もう二度と自分の顔を珍妙とか言ってけなさないこと。あたしの愛した男の顔なんだもの。あたしにとっては世界一の顔よ」

 「……ローデ」

 六〇近い男の顔に、まるで初恋が成就した一〇代の少年のような表情が浮かんだ。

 「誓うよ、ローデ。おれは君を愛し抜く。なにがあっても。一生を君とともに過ごす」

 「ええ、グロウ。あたしこそ誓うわ。あなたと一生を添い遂げると」

 そして、ふたりは結婚した。

 森の小さな教会で、ささやかな結婚式を挙げたのだ。

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