第8話 仮名
今日も今日とてご飯と漬け物、お茶を壁の写真に供えて手を合わせる。
これをじっと見つめる底抜けに黒い目に気づいた鈴子は、嫌いなモノでもあったのかと聞くが、ソレはふるふる首を振って目を閉じた。
眼球の動きがはっきり分かる膨らみから、再び目玉が現れたなら、お供えを回収して朝ご飯に加える。
――そんな生活が習慣づいた頃。
茶をズズー……と啜る鈴子は、視線に気づいてそちらを見る。
想像通り、そこにいて、こちらをじっと見つめる目。
何ともなしに見合うこと数秒。
ピンポーン
来客を告げる音に立ち上がり、配達の受け取りをやり取りしていたなら、そういえばと今更気づく。
* * *
「アンタさ、名前ってないのかい?」
正味鈴子の一人暮らし。
もう一人、何かしらがいたとて特に困ることもなかったせいで、すっかり失念していたが、配達の業者に自分の名前を確かめられて、そう言えばソレにも名前があるのではないかと思ったのだ。
そんな思いのまま、段ボールを開けつつ聞けば、ソレは目を瞬かせた。
考える素振りに、ただ待つのもなんだと荷を片付けて、ついでに段ボールを開いて立ち上がり、腰をトントン。
各々所定の位置に移動させてから、また湯のみの前に座ったなら、ソレがこちらを向きつつ首を歪に動かす。
右、左。左、右。
壊れたオルゴール人形のような動きをしばし眺めては、「ああ」と頷いた。
「そうか。名前も憶えていないのか」
己をそういう存在と明確に示しながらも、ソレは自分が何故そうなのか、どうしてこの場所に来た者たちに強い憎しみをぶつけようとするのか、肝心なところがすっぽ抜けていた。鈴子が生きている以上の時間を見てきた様子から、その分だけ記憶が曖昧になっているのかもしれない。
それでも、特定の場所に訪れる不特定多数を害することは忘れていないのだから、想像もつかない何かがあったのではないか、と鈴子は密かに思っていた。
つっこんで急に記憶を取り戻した挙げ句、身寄りのない身を殺される前に追い出されても困るので、思うだけに留めているところだが。
さておき、名前がない、と聞いては「ふむ」と唸る。
前述の通り、鈴子とソレだけの生活には、特別名前を必要とする場面はない。
だが、自分はあるのに、同居者にないというのは、こう、何とも座りが悪い。
別に相手も鈴子のことを名前で呼ぶことはない――そもそも、言語らしき言語を話すこともないのだが、ソレは誰かが「鈴子」と呼ぶ声が鈴子を指すと知っているのに、自分には何もないのも……と思うのだ。
――他人がソレを呼ぶことはない、という前提は正論でも野暮である。
なので、「何か名を付けようか」という鈴子の提案に、ソレは眉を寄せた。
いつもが無表情である分、際立つ凶悪さに、駄目かと問えば更に皺が寄る。
伝わる、名前というのは自分を縛るものになるのではないか、という不快感。
すでに名前のある鈴子は、束の間目を丸くするが、不意に気づいて似た顔をする。
「もしかして、また、ゲームや物語の中の話かい?」
原理は分からないが、鈴子より昔の人であるソレは、機械を通さずにインターネットから情報を得られるらしく、時にその知識は鈴子より最先端をいく。と同時に、収集する知識には偏りがあり、特に自分のような怪異を書き表すモノを、真偽や虚実も構わず貪欲に集めているせいで、時折、迷信を本気にするところがあった。
かといって、鈴子もその道のプロでもなんでもない、ずぶの素人。
警戒心剥き出しのソレに語れる真実もないため、一つ息をついては提案する。
「なら、仮の名前ならどうだ? たとえば……ユウ、とか、レイ、とか」
あだ名みたいだねぇ。
考えなしに口をついた名前をそう評せば、表情を無に戻したソレは、それならと自らを名付く。
――ゴウ、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます