⌘
4月、俺が勤めている会社にも新入社員が1人入ってきた。大学を出たばかりの男だった。
彼はみんなの前で挨拶する。
「初めまして⌘と言います。これからよろしくお願いします」
「ん?」
ハキハキとした元気の良い挨拶だったが、名前の部分がよく聞こえなかった。でもみんなは聞こえているみたいだし、聞き返すのも失礼か。そんなことを考えていると、部長が俺に声をかけた。
「じゃあ君、彼の指導を頼むよ」
「あ、はい。わかりました」
そうだ、俺が今年の新人の指導をするんだった。それはいいのだけど名前がわからないのはやりにくい。
「先輩よろしくお願いします」
彼はそう俺に声をかける。呼び方がわからないと話しづらい。先輩なら先輩と呼べばいいけど、後輩を後輩と呼ぶわけにはいかないし、どうしたもんだろう。
「あのさ、君下の名前なんて言うんだっけ?」
とりあえず、そんなことを聞いてみた。あたかも苗字は知ってるけど、名前だけド忘れしちゃったみたいに振る舞ったのだ。
「あ、すみません。さっき名前の方は言ってませんでしたね」
そうだったのか、それは都合がいい。
「下の名前は⁂﹅って言うんです」
「ん?」
あれ、なんかまたよく聞こえなかったぞ。なんでだ? 俺が困った顔をしていると新人君は笑う。
「あ、やっぱりちょっと変わってますよね、この名前。よく言われるんですよ」
いや、そもそも聞き取れなかったのだから変わっているのかどうかはわからない。どうしよう。
「あ、これ俺の名刺だから渡しておくよ。ところで君の名前はどう言う風に書くの?」
よし、いい感じだ。これで彼の名前がどんな文字か分かる。
「すみません。まだ名刺ができてないので紙に書きますね……はいこれです」
彼が差し出した紙には「⌘ ⁂﹅」と書かれていた。なんだこの意味不明な文字は? 全く読めないぞ。
「⁂﹅でこんな読み方なんておかしいですよね。なんか無理がありますし」
すまん、俺には全くわからない。こんな文字なんて読むのか知らないが、こんなもん聞き取れなくて当然か。でもみんな特に疑問にも思ってなかったみたいだし、俺がおかしいのか? 訳がわからなくなってきた。こうなったらもう力技で進めるしかない。
「じゃあ早速仕事をはじめようか、新人君」
俺は彼を新人君と呼ぶことにした。本名なんて知らん。
「あ、はい。でもできれば苗字か名前で……」
「新人だから新人君だ。ほら、いくぞ」
俺は新人君の手を引っ張り、仕事へと向かった。
数年後の春、会社に新人が2人も入ってきた。新卒の男女が1人ずつ。
「初めまして、∮ゞ ∝です! 高校時代は野球をしてました!」
「初めまして、∴ 〻 ∃§です。趣味はテニスです」
まただ。また名前だけ全く聞こえなかった。
新人の自己紹介が終わると、数年前のように部長が俺に話しかけてくる。
「じゃあ君、2人の指導を頼むよ」
また指導係か。でもいいさ、今度の俺には作戦がある。
「じゃあよろしく頼むよ。野球君、テニスさん」
俺が新人2人にそう言うと、流石に2人は文句を言う。
「ちょっと! なんですかその呼び方は?」
「いくら何でも適当過ぎるあだ名ですよ!」
「いいだろ! わかりやすくて!」
そんな会話を3人でしていると、新人君がやってきて言う。
「2人はまだいい方だよ。俺なんてもう数年勤めてるのにまだ『新人君』って呼ばれてるんだから」
「うるさい、俺から見ればお前はまだまだ新人君だよ」
一応それらしいことを言って言い訳した。まさか未だに名前がわからないから、なんて言えるはずがない。
とりあえず今年は何とかなりそうだが、これからはどうなるのだろうか。最近では取引先の人にも「〓」だとか「▱」だとか「Å」とかいうよくわからない文字を使った名前の人が増えてきた。この先俺は社会人をやっていけるのだろうかと今から不安でたまらない。
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