第2話 ともに影と

 俺は目を見開いて、確かに目の前にいる“それ”を正しく認識してしまった。


 こういうのには慣れている。

 だからこそ今俺の周りにこの暗黒もちもち水まんじゅう――ようは憑いてる。

 喉の奥が張り付くような、背筋が凍るような感覚に襲われながら、妙に冷静なままの思考を回す。


 家まで走って逃げ切るか、気合で拳でも打ち込んで乗り切るか。

 今まではそうして、信じたくないような現実を物理的な打開策でなんとかしてきた。


 去年の夏、自らこの三つ目で三つ耳の影に関わったのは自暴自棄だったからだ。

 今と同じように――いや、こいつの場合はもっと邪悪で俺が迂闊だったのだが。

 気の迷いで人を襲おうとしていた葉の気を逸らすために、石を投げて、それから関わり始めてしまったのだ。


 あれはまだ俺の自業自得。

 人生もうどーでもいい、とさえ思っていた時期だった。


 だが、今回はどうだ。


 正直前よりも、今は生きるのが楽しい。

 自分の命を失うには、どうしても惜しい。


 この間抜けな見た目の割には存外強く、頼りになる影ともう少し過ごしたい。

 目の前の“それ”に恐れを抱いて、思考は回るのに上手く動けない。

 帽子をかぶっているわけでも、ちょうど影が落ちているわけでもない。

 どうやったって「顔が見えない」青年は一歩踏み出そうとしていた。


 ――こっちに来る。


 思った瞬間に目の前が真っ暗になった。

 ふわり、と宙に浮かび上がるような感覚。

 地に足が着かず、もがこうにも身体に力が入らない。

 でも、不思議と悪い気はしなかった。


 ズザザザザザと地面を擦るような音がする。

 ゴオォオオオと風を切る音がする。

 目を凝らしてみれば暗闇の遠くに、三つの赤い光が見えた。


「なんだ、助けてくれたのか」


 思ったことをそのまま音にすると、空間から声が降り注ぐようにかえってきた。


「お前がボサッとしているなら、僕が動くしかないだろ!」


 先ほどまでの甘えを感じる舌っ足らずの喋り方じゃない。

 真面目に鋭い声音で応える葉からは、珍しく焦りを感じた。

 多分、一瞬で俺を包み込んで遠のいてくれているんだろう。


「ありがとな」

「気の抜けた声出しやがって……! 僕だって万能じゃないんだぞ!」

「知ってるよ」


 ――そうは言っても、お前が動けるならまだなんとかなるだろ。


 苛立たせるのは望んでいないので、続きは音にしなかった。

 以前、別の場所で鉢合わせた“強大な存在”の前には縮こまってしまったのを知っている。


 ――だから、こいつに任せておけばきっと大丈夫。


 そんな気が俺にはしていた。

 いつからこんなにも信頼していたのだろう。

 その答えは今出さなくても良い。

 俺の為に走ってくれている相手に全てを押し付けて身を任せてしまえば、もちっとした感触が背中に触れる。

 寝心地の良いベットに横たわっているような安心感と闇の心地良さで、まどろみに落ちそうになる。


 そんなのは許さないぞ、とでも言いたげに目の前が明るくなった。


「ここは……」

水上神社みなかみじんじゃだ」

「……なるほど、上手いこと逃げ込んだな」


 俺が走って逃げてくるのも、決まってここだった。

 ここの竜神様とは顔馴染みで、水上みなかみちょうが出来るより前からあるから並大抵のものは入って来れない。

 長い階段を昇って、鳥居をくくって少し入った所に俺を下ろしてくれたようだった。

 いつも通り空気が澄んでいて、いつも目の前の道路よりも体感涼しい。

 時間によっては神主さんや宮司さんにも会うのだが、今日は見当たらなかった。

 素早く移動して疲れたのか、葉が身体を小さくして俺の肩の上に収まった。


「そう言えば葉……お前よくここに入れるな、神聖な場所だろ?」

「お前は僕をなんだと思ってるんだ?」


 はぁ、とため息をついてから赤い目を尖らせて視線で扱いに抗議してくる。

 まるで子どもの落書きみたいな簡単な形状をしているのに、感情は分かりやすいのだ。


 ――信頼出来るヤツだよ。


 そんな言葉が頭を掠めたものの、俺は口の端を少しだけあげてこう言った。


「暗黒もちもち水まんじゅう?」

ゆう、知ってるか。水まんじゅうはこんなに動かないんだぞ?」

「知ってるけど?」

「お前、僕のこと舐めてるだろう」


 先ほどよりも更に三つの赤い目を細めて、葉はこちらを鋭く睨む。

 少しからかい過ぎたかな、と思って感謝を述べることにした。


「そんなことねぇよ、ありがとな。お前のおかげで」


 なにげなく葉から鳥居に視線を移せば、先ほどの青年が“内側”に立っていた。

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