第12話「姉さまは、もう、生きていないの」


『姉さまに甘えたかったのです』

 と十四歳のレイラは言った。



 レイラが前世の〝れいら〟だと知ってからも、オリヴィアとレイラの関係は変わらなかった。表面上は。


 ふたりは一緒に元の世界に帰るべき仲良し姉妹で、レイラにはオリヴィアの婚約者と浮気をしている疑いがあって、オリヴィアはレイラに意地悪をする。


 この世界に居続ければ始まるであろうゲームの〝キャラ〟通りに、どこかレイラは〝ヒロイン〟らしく、オリヴィアは〝悪役令嬢〟らしかった。



 オリヴィアは、知らなかった――あるいは、見ないふりをしていた。



 三人が十五歳になった春。

 学院入学を目前にした三月。


 彼らは、ついに扉を見つけた。

 オリヴィアとレイラを帰す時が、来た。



「――オリヴィア」


「はい、殿下」


 ハロルドが切なげな顔でオリヴィアを見る。彼の蒼色の瞳に宿る感情は、なんだろう、オリヴィアにはよくわからない。


 きっと別れを惜しんでくれているのだろうな、とは思う。


 これから彼とは〝さよなら〟になるはずなのに、彼女の中には、そういう感覚が湧いてこない。悲しいとか、惜しいとか、何とか。


(わたくしにとって、彼は、何だったのかしら……)



 崖の上に現れた――真っ白な扉。


 ハロルドがそれを開け、オリヴィアとレイラは手を繋ぐ。



「姉さま」


 足を踏み出す前、言って、レイラは空いた手の先を戸枠に突っ込んだ。今日も可愛らしい妹だった。


「姉さまも」


 と促され、オリヴィアも戸枠の中に手を入れる。何の引っ掛かりもなく、指先は空を掻いた。


 ――何かが、おかしい。


「……あら?」


「やっぱり」


 オリヴィアとレイラの声は、仲良し姉妹らしく、同時に重なった。


 レイラの美貌が悲しげな雰囲気を帯び、スカイブルーの瞳はキラリと潤む。


「姉さまと、わたくしは、ここでお別れのようです」



 戸枠の中で、レイラの指先は透明だった。


 しかし、オリヴィアの指先は、なんにも変わらなかった。



「え? えっ?」


 戸惑うオリヴィアを見る男女ふたりの目は、そろって申し訳なさそうで。


 ハロルドとレイラが以心伝心しているような気がして、仲間外れにされた気がして、オリヴィアはチクリと胸が痛くなる。


「殿、下、殿下、どういうことです?」


「すまない、オリヴィア」


 違う、謝ってほしいわけじゃない。違う、違う。


「……レイラ、ねえ、どうして」


「わたくしたちは、もう、ほんとうに、住む世界が違うのです。姉さまは、この世界のひと。わたくしは、あちらの世界のひと」


 レイラの言葉は、オリヴィアをあえて冷たく突き放すようだった。


「ねえ……、わかりません、どういうことなのですか? わたくしとレイラは、一緒に帰るのでしょう? わたくしは、あなたと、」


「姉さまを日本に帰らせないで済む方法を、わたくしは探しておりました。そして気づいてしまいました。姉さまには、そもそも、帰れる場所がないのではないかと。わたくしの婚約者を〝奪った〟から、我が家に姉さまの居場所がなくなってしまったというだけでなく」


 すうっと息を吸い、可愛い異母妹は凛として言う。


「姉さまは、もう、生きていないのです。わたくしを庇われた姉さまは、姉さまだけ、……助かってくださらなかった。姉さまだって、自覚はあったでしょう? もう、自分は死んでいるのだと」


「わたくし、は……、たしかに、でも」


「姉さま、ありがとうございました」


 チョコレートブラウンの髪を軽やかに揺らし、スカイブルーの瞳を煌めかせ、彼女はにこにこと笑って告げる。


 ――最後までワガママな妹でごめんなさい、姉さま。この世界で出会えてよかったです。姉さまと仲良くできて、幸せでした。姉さまの妹で、わたくしは、幸せでした。


 ――ハロルドさまと結婚したら、わたくしそっくりな子が生まれるかもしれないけれど。きっとわたくしの生まれ変わりではないから、ちゃんとその子はその子として愛してあげてね。


 ――わたくしは幸せになるから大丈夫。姉さまが頑張ってくれたから、大丈夫。もしもあのひとがわたくしを見捨てていても、頑張ってみせます。また愛するひとを見つけます。


 ――では、姉さま。ごきげんよう――……



「――待って、レイラ、れいら、わたくしっ」


「姉さま」


 レイラはオリヴィアと繋いでいた手を解き、その指先で彼女の唇へと触れた。


 もうしゃべらないでというように。

 もう聞きたくないわというように。


 そして、にっこりと、満開の花の笑みのまま、


 落、




「――――――待ってっ!」




 最後の叫びは届かずに、レイラ・ヴィルスティリアは扉の向こうに消えていく。


 そう、扉を潜った彼女は、透明になって、消えた。


 この世界から、いなくなってしまった。


 彼女を置いて。彼女をひとりにして。いつも現れる時のように、彼女の前からふらりと去った。


 扉の向こうには、ただ、ただ、彼女のいない崖だけがあった。






 *

 *

 *






 前世の最後の日のことを、今、彼女は昨日のことのようによく覚えている。


 家を継ぐべき妹の婚約者を寝取った〝泥棒猫〟は、奥様に頬を叩かれ、旦那様に蹴られ、家を追い出されていた。


 その日は、雨が降っていた。


『――姉さまっ、待って!』


『あら、お嬢様。追いかけてきたのですか?』


『そんな呼び方、やめてください……。ねえ、姉さま……、全部わたくしのため、だったのでしょう? わたくしが、あのひとと、結婚しないで済むように……。わたくし、お父様とお母様に、自分でちゃんとお話しします。だから、どうか、帰ってきて、ください』


『わたくしに、帰れる場所などありません――』


 誰よりも愛しい妹を、猫は冷たく突き放した。


 もう二度と顔を合わせないつもりでいた。


 彼女の幸せを、心の底から願って、祈って。


 彼女が幸せならばそれでいいのだと、身の丈に合わぬ心に言い聞かせた。



『姉さま、姉さまっ』


 前世の彼女は、異世界のレイラより、不器用な子だった。


 彼女の婚約者だった男と姉令嬢との逢瀬にふらりと偶然に居合わせることはあったけれど、けっして存在に気づかれないなんてことはなくて。

 小さい頃から、姉のそばにはいつのまにか現れるんじゃなくて、隠れていても見つかってしまうようなおっちょこちょいで。


 すぐにべしゃりと転んだり、つまずいて音を立てたり。大切な〝お嬢様〟はひとりで怪我をするくせに、周りはもうひとりの〝お嬢様〟のせいにして。



 でも、それでも、姉は妹が可愛かった。


 たったひとり、屈託ない笑みを浮かべてくれる妹が、大好きだった。




 ずべしゃっ! と間抜けな音がする。


 振り向いて、手をとろうとして、ためらって。


 でも、あなたの顔をもう一度だけ見たいって、そんな欲に体が傾いてしまって。


『れいら』


 立ち上がろうとして、ふらついたあなたへ、トラックが突っ込んでくること。気づいていたの。見えていたの。


『れいら――っ!』


 それでいて、駆けたの。




 ものすごい音と、光と、暗、闇。


 ああ、なぜでしょう――目が、見えない。


 瞼が、閉じているのか、開いているのかも、わからない。


『姉さま……ごめ…………どうして……姉さま………や…………姉さま……………ね…………』


 弱々しい泣き声が聞こえる。


 だんだん静かになっていく。


 泣かないでって涙を拭いたいのに、触れたいのに、指が一分も動かない。動かない。


『……れ、ぃ……ら……』


 あなたの顔が、見たい。


 最後に、もう一度だけでいい。あなたを見たい。


 生きているって確かめたい。


 あなたの、泣いている、顔が……、見たい。


『……………………………………』


 ねえ、黙らないで。


 静かにならないで。


 ずっと泣いていて。


 …………怖くなるじゃない……。



 わたくしは、もう、いいから。


 望まれない子だったわたくしは、死んでもいいから。


 どうか、神さま。


 妹だけは、助けてください。


 幸せにしてあげてください。


 こんな姉にも優しくしてくれる、いい子で……。


 とてもいい子で、可愛くて、可愛くて。


 あぁ。


 こんな時まで、あなたが愛おしい。



 あなたに、生きていてほしい。


 それだけで、よかった、のに。




 ――好き。って。愛してる。って。

 言っておけばよかったな。



 拭えない後悔から、きっと彼女の二度目は始まる。


 言えない二度目の恋をする。


 かつての世界で生きた年と同じ分だけ消える恋を。


 二十年も忘れる恋を、した。


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