第11話(幸せにしてやる。妹との仲を引き裂いてでも)


 王太子の私室で、十歳のハロルドは頭を抱えた。


(……オリヴィアを、帰らせたくない)


 いまさっき彼女を屋敷に帰したばかりなのに、おかしなことを思うものだ――というわけではなく。本当は彼女を自室に閉じ込めたかった、というのでもなく。


 オリヴィアを、元の世界に、帰らせたくなかった。



 ぜんぜんハロルドの方を振り向く気配のない、伯爵令嬢オリヴィア・ヴィルスティリア。彼の婚約者。

 その魂は異世界から来訪しており、このまま国に残しておけば、憂いをもたらすかもしれない厄介者。


 まだ幼い心で、彼は、彼女を好いていた。いちばん好きだった。すごくすごく好きだった。


 次期王位継承者としてはあるまじきことに、自分で自分が馬鹿らしいほど、ハロルドはオリヴィアを愛おしく想った。


(……やっぱり、俺より大人、なんだよな……まだまだ届く気がしない……オリヴィア……)


 どうしてこんなにも好きなのか、可愛いのか、はっきりと言える理由はない。


 ただ、彼女と会う時間がいつも待ち遠しい。「また今度」と手を振ると、もうすぐに会いたくなる。


 彼女の笑う顔が好きで、もっともっと笑わせたい。でも、冷たい視線を向けられるのも、ちょっと雑に扱われるのも、ある意味で信頼されているような気がして嬉しい。


 ふんわりとやわらかそうなチョコレートブラウンの髪を手で梳いてみたいし、ふっくらした紅い頬に触れてみたい。いつか、そのうち、キスも、してみたい。


 彼女とこのまま大人になって、結婚すれば叶うのだろう。オリヴィアはハロルドの婚約者だ。彼女が彼女でなければ、なんの問題もないはずだった。


(どうして彼女は、異世界のひとなのだろう……)


 ハロルドが惹かれる彼女の性質こそ、異世界で生まれ育った過去から来る物珍しさを孕んだものかもしれないのだが。そうだとしても、彼女がただのふつうのお嬢様であってほしいと願ったことは何度もあった。


 オリヴィアは婚約者で、周りも彼と彼女が王と王妃になると信じて振る舞うのに、ハロルドだけは彼女を〝異世界人〟としていつか追い出すものとして扱わねばならない。


 異世界からの来訪者を処分するのは、彼女らの言う乙女ゲームやら少女小説やらに相手役として登場する、高位の王位継承権保持者だと決まっているからだ。


 オリヴィアらが登場するゲームの〝攻略対象〟の中で最も王位に近いのがハロルドだったから、ハロルドが彼女らを追い出すことになった。というわけである。


 現国王や王妃の介入は余計な波乱を生むとされるため、彼の父母は、ハロルドほどには事情を知らない。追い出すべき相手がオリヴィアとレイラであることも知らずにいる。


 それで父母はヴィルスティリア嬢とハロルドはお似合いねとにこにこしたりするから、相談もできずに笑うしかないハロルドは心が苦しい。


 ハロルドと協力しているのは王宮の異世界部門の官吏たちで、彼はそこからの情報を頼りに、しかしほとんど独力でこの問題にあたっている。


 これも、異世界者が来る時代に生まれし王太子が乗り越えるべき試練のひとつ、とでも言えようか。



 ハロルドをまったく恋愛対象として見る気配がない、なんなら最初から王妃になる気など露ほどもなさそうなオリヴィアに、彼がときめき、滑稽にも愛を深め……などをしていたある日のこと。


 ハロルドの私室を訪ねる者があった。


「ハロルドさま。折り入って、お話がございます」


「……なんだ、レイラ」


 いつのまにか室内に侵入されていたことについては、もうスルーしておく。相手はレイラだ。こういうことには慣れている。


 彼女は小さい頃からいつもふらっと現れ、オリヴィアとハロルドのふたりきりの時間にも割り込んでくるのだ。そういう娘だ。

 オリヴィアを元の世界に帰すのは嫌だけれど、正直レイラには今すぐにでも帰ってほしい。


 当時のハロルドにとって、レイラは、オリヴィアとの関係を邪魔する敵だった。


「姉、オリヴィアのことで、ちょっと」


 その時のレイラの表情を、ハロルドは今もよく覚えている。

 これは半分でもオリヴィアと姉妹なのだな、と、話を聞く前から浅く感じたことも。


 彼女と彼女の繋がりの深さを感じさせる顔だった。

 重たい過去と真実を抱えた顔だった。


「オリヴィアのこと、か。……なんだ?」


「実は――」


 ハロルドも歴史から学んでいた。これまでの〝ヒロイン〟たちも、元の世界で事故に遭ってからこの世界に来ていた、と。

 彼女らは、こちらの世界の馬車より速く走れる自動車という乗り物に轢かれたりして、気づいたら、こちらの世界に別人として居た。


 オリヴィアとレイラは、聞くに、異世界でも名家に生まれた異母姉妹であった。母の立場はこの世界と逆だったが、生まれた順番や家での扱いは一緒。


 元の世界のオリヴィアは、愛人の子だった。

 元の世界のレイラは、正夫人の子だった。


 オリヴィアの母はやがて亡くなり、オリヴィアは家の〝お嬢様〟のひとりとして数えられるようになった。


 ただし、レイラの引き立て役として。

 レイラを輝かせるためだけに生きる存在として。


 彼女は他の世界でも家に利用されるばかりの愛されない子だった。妹の母や使用人から虐げられる娘だった。


 ふたりのお嬢様は成長する。大人になっていく。

 愛されたお嬢様は、健全な娘らしく、恋をする。

 しかし、家を継ぐべきお嬢様には、婚約者がいた。


「姉さまは、わたくしを、救ってくれました。わたくしが、想う方と添い遂げられるように、と。まさに悪役令嬢――悪女になって、わたくしの婚約者を……」


 聞いても、ハロルドはショックをうけなかった。


 好いた女が他の世界で他の男とキスやら何やらをしたと知ったところで、彼女を想う気持ちには、傷のひとつも付きやしない。


 いっそ素晴らしいと思った。レイラへの愛に感動さえした。オリヴィアは、妹を慈しみ、愛おしむ、彼女の幸せを心より願う姉だった。


 そして、やっぱり、とも思う。納得する。

 彼女は、元の世界から、妹を――


「なのに、わたくしったら、姉さまに何もできなかった……何もして差し上げられなかった……わたくしは……――」


 いかにも〝ヒロイン〟らしい言葉をおとなしく聞き、ハロルドは相槌を打つ。中途半端に機嫌を損ねて、最後まで聞けずに終わることになったらたまらない。


 予感があった。


 虐げられる姉を救えなかったこの娘は、今、彼女にとっては残酷な言葉で自分を救うのではないかと。


 彼女を元の世界に帰らせないで済む理由が、あるんじゃないかと。


(帰っても幸せになれない世界なら、俺はオリヴィアを帰さない。正しくなくても帰さない。ここで幸せにしてやる。妹との仲を引き裂いてでも)


 自分勝手で乱暴な想いだという自覚はあった。

 それでもオリヴィアが純粋に欲しくて、好きだった。


 そばにいたかった。いてほしかった。


「きっと、姉は――」


 苦しげに吐かれたレイラの言葉に、しばらくハロルドは返す言葉を失う。


「………………」


 彼女が事故に遭った時のことを言われた悲しみと遅れて一緒になって、その衝撃は彼を打つ。

 

「ああ……――そう、か。そうなのか。……なるほど」


 ハロルドは苦笑した。泣きたくなった。


 他の世界の話だとはわかっているのに、彼の想い人は、あまりにも可哀想で。救いがなくて。


 妹への愛以外、なんにもなくて。


 ハロルドは胸がいっぱいになる。


 彼女から愛される妹が羨ましくて妬ましくて絶対に敵わないとわかっているのにそれでもまだオリヴィアが愛おしく欲しい。


「――わかった。オリヴィアには、黙っていよう。言って、彼女を傷つけたくない。時が来るまでは、このまま、俺たちだけの秘密だ」


「……はい、ハロルドさま」


 ハロルドとレイラは、その日、秘密を共有した。


 オリヴィアには言えないことを、始めてしまった。


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