第5話「俺は二番目以下でいいよ」

 真実を思い出す鍵は、きっと、姉妹の生まれ育った実家――ヴィルスティリア家にある。妹にまつわる何かしらが、そこにある。


 そう考えるがゆえに、オリヴィアは、いつか家に帰らなくてはと思っていた。


 しかし、帰ろうと試みればいつでも帰れそうな家に、彼女が未だに帰っていないのは……帰れないのは……。


「オリヴィア」


 ハロルドは片腕でオリヴィアの腰をグイッと抱き寄せ、もう一方の手で髪を撫でる。

 いきなり触れられ、されど、オリヴィアの胸に嫌悪感は芽生えない。むしろ安心する。ほっとする。


 とうに絆されている。


「きみの瞳にどんな光景が見えていたのか、俺は想像することしかできないけれど。でも、それがどんな記憶であろうと、きっと、オリヴィアには必要な記憶だったんだよ」


「……どういう、ことです?」


「オリヴィアは、レイラのことが大好きだったろう? 彼女がいない世界を生きるのは、きみにとって、つらいことだった。だから……、乗り越えるために、そういう記憶が。俺らとズレている記憶が、きみにはあるんだ。でも、それは悪いことじゃない。思い詰める必要は、ない。大丈夫だよ」


「……」


 ハロルドの言葉を、オリヴィアはゆっくりと咀嚼する。受け入れる努力をする。


 ――必要な記憶。

 ――ズレている記憶。


 彼の口ぶりは、この言い方は。


「やっぱり……わたくしの記憶は、消えているだけでなく、もっと……おかしいのですね? レイラと、あなたのこと。何か、思い違いを……勝手な妄想を、しているのですよね? わたくしは」


「ああ…………でも、まったくの妄想ではない。俺が……きみの言う、乙女ゲームの世界と展開に、乗ったところもあるから。ごめん、うまく言えないんだけど……」


「そうなんで――あら? そういえば」


 オリヴィアは頷きかけ、ちょっと止まった。


「ハロルド様は、ゲームのことをご存知なのですか? 前も、エンディングが終わるまで、などとおっしゃっていましたよね。過去にわたくしがお教えしたのでしょうか……?」


「……何年も前に、ね。そう、オリヴィアが教えてくれたよ。きみは覚えていないんだろうけれど」


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


 ふ、とハロルドが切なげに微笑む、その吐息の音が頭上で聞こえ、オリヴィアはきゅっと胸が痛くなった。


 彼女はそろそろと顔を上げ、彼の目元を覗き込む。


 視線が絡む。


「……なんだい? オリヴィア」


「……あなたを見る、努力をしようかしらーと」


 わざと〝らー〟なんて伸ばして言って、軽く言っておりますというふりをした。これが甘えだという自覚は、オリヴィアにもあった。


 ――彼からの求婚に、答えを出さなくてはいけない。

 ――ヴィルスティリアの家に、帰らなくてはいけない。


 思えども勇気が出ないから、彼の力を借りようとしている。ひそかに後押ししてもらおうとしている。


 ハロルドは、彼女の思惑に気づいてか、気づかずしてか、おどけたように首を傾げた。


「はて? 視界に入れることも厭われるほど、俺は嫌われているのだろうか?」


「まさか! あなた様が麗しくいらっしゃいますから、畏れ多くて、なかなか見つめられないだけですわ」


「なるほどそうか」


「きゃっ」


 ハロルドはオリヴィアの方へ、ずいっと顔を寄せる。悪戯っぽく、どこか少年っぽく笑う。


 求愛行動の一環なのか、こうしてグイグイ来られることは、最近よくあるけれど……。


 ちょっとでも間違えればキスしてしまいそうな距離感に、オリヴィアはドキドキする。まだ慣れない。


「昔とおなじことを言うのだな、オリヴィア」


「……この記憶は、ちゃんと、本物ですか?」


「レイラばかりを目で追うための言い訳だろう? きみは昔もそう言って、妹をいっぱい可愛がっていた」


 ええ、そうでしたね。とオリヴィアは、ほんわりと微笑んで頷く。


 ハロルドはしみじみと続けた。


「本当に、可愛かったんだよ。小さいオリヴィアとレイラが仲良くする姿。きみたちと一緒にいる時間が、俺は好きだった」


「わたくしとレイラは、そこまで仲良しでしたか?」


「ああ、素敵な姉妹だった――ごめんな、オリヴィア」


「えっ、と?」


 なぜ、今、あなたが謝るの? とオリヴィアはきょとんとする。


 ハロルドは、突然どうしたのだろう、「俺は二番目以下でいいよ」と呟いた。


「二番目、以下……?」


「オリヴィアの一番は、レイラだから」


「わたくしのレイラへの想いは、妹として大切で、大好きで、家族として愛しているのであって……ハロルド様がわたくしを想われるものとは、違う……かと思いますよ? 恋じゃないですよ」


「…………そうか」


 ハロルドは頷き、それ以上は何も言わなかった。黙ってオリヴィアを抱きしめ、とろとろと微睡む。眠りに落ちる。


 今宵もふたり一緒に眠る。





 それから先もハロルドは、毎日、オリヴィアの望んだ思い出話に付き合ってくれた。


 オリヴィアは何かの記憶を取り戻すということはなかったけれど、レイラとの楽しく幸せな思い出に浸って日々を過ごした。


『愛してるよ、オリヴィア』

『ずっと好きなんだ』

『昔から可愛い』


 ハロルドの愛の言葉は尽きることなく、毎日オリヴィアに届けられている。


(わたくしは、恋が、わからない。ハロルド様に抱いている気持ちは、きっと恋ではない)


 彼の腕の中で、ぎゅーされて。オリヴィアは今宵も考える。レイラの真実を思い出そうとするばかりではなく、ハロルドとのこれからのことも考えている。


(学院入学前に抱いていたような気持ちが、だんだんと胸を巣食っている気がするけれど……これは親愛であって、恋ではないの。違う、違うの)


 ハグをされても、手を繋がれても、オリヴィアはハロルドに恋をしない。カラダから始まる関係もあるとは聞くが、そもそも抱かれてもいないが。


 いちゃいちゃしても、ドキドキしても、それ以上には進めない。


 オリヴィアには、恋が、わからない。


(でもね、こんなにも想われたのは、初めてで。恋い慕うひととして愛してくれたのは、ハロルド様だけなの。もしも万が一にも、本当は、レイラの代わりなのだとしても。嘘なのだとしても――)



 ある夜のこと。


 オリヴィアは、自ら、彼の肌へと手を触れた。彼女のようには細くない首に触れ、指先で喉仏を撫でる。


 オリヴィア、と。彼の、甘く掠れた声がした。


「ハロルド様」


 彼女の心を占めたのは、感謝の念と罪悪感、敗北感。


「なんだい、オリヴィア」


 ときめいた時点で、もう終わりだ。

 絡め取られている。負けている。


 オリヴィアは、どうせ、ハロルドの手から逃げられない。レイラとの思い出を纏う彼から、離れられない。


 覚悟は――できた。


「ヴィルスティリアの家に、行きましょう。結婚の挨拶を、しに行くの」


「えっ?」


 蒼色の瞳が、大きく見開かれる。オリヴィアは彼の頬に口づけて、にこりと笑った。


 ハロルドの頬は朱に染まり、オリヴィアの頬も微熱を帯びる。


「お待たせして、ごめんなさい。やっと心を決められました。わたくしは、あなたと――結婚します。ハロルド様の妻になります」



 そうしてオリヴィアは、オリヴィア・ヴィルスティリアとしての人生では初めて、男のひととキスをした。


 前世、誰かとキスした時のことが、脳裏によぎった気がしたけれど……。よく、わからない。わからない。



 前世も、今世も、異母妹の記憶が欠けている。


 妹と、その隣にいる男の輪郭が、――ぼやけている。


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