散文

夏永遊楽

そしてまた,チョコレートを一粒

 <朝>


 私は大人になり損ねた。

 好きなものには全力で飛びつき,嫌なことは全力で回避する。

 それが災いしてどんな目に遭おうとも。

 私には,ついぞ柔軟性というものが備わっていない。


 近頃新調したソファーは,実に寝心地がいい。本を読み耽った後寝落ちしても,気持ちよく朝を迎えられる程度には。

「おはようエマ,昨日は何を読んでたの?」

 しゃっとカーテンが引かれ,朝日をもろに浴びる。本で顔を覆いつつ,くぐもった声で答えた。

「ハムレット」

「なんかあれ,小説ってより台本みたいだよね」

「事実台本だよ」

 あんまりよくわからなかったけど,あれはいい。なんだかいい。


 私は今ちょっととげとげしている。朝日がカラッとして,肌に刺さるのだ。

 ハムレットの余韻に浸りたいのに,眩しさに意識が邪魔されて引き戻される。陰鬱として,それれでいて美しく,いい物語だった。

 ただ,それだけ。

 多分私は,あの物語の真髄のなんたるかなどかけらも理解していない。


 けど,今はそれでいい。私の夜を彩りさえすれば,そこに価値を見出すことができるのだから。


「目玉焼き?ゆで卵?」

「ん〜…スクランブル。自分で作る」

 相棒がサラダをボウルに盛り付ける横で,卵を溶く。味付けは,迷った挙句のオリーブオイルに塩バジル。これが美味しいんだ。


 最後に,沸かしておいたお湯で紅茶を淹れる。お気に入りのティーポットを温め,目覚めにぴったりなウバを。ティーセットはもちろん,手入れの行き届いた真っ白な陶器。


 熱々の紅茶を一口啜る。鼻に抜ける香りをしばし楽しみ,冷めないうちに料理に箸をつける。

 カリッと焼いたトーストにバターを塗る相棒を眠い目で見つめる。

 今日は何をしようかな。


 <よく晴れた午前>

「…ううん」

 イタリア製のアンティークソファでゆったりと伸びをする。

 朝食後のまどろみに身を任せてしまいたかったが,明るすぎる自然光がそれを許さなかったようだ。

 仕方がない。仕事でもするか。

 部屋を移動してクロゼットを開け,所狭しと並ぶ”衣装”に手をかける。相棒はいい加減に衣替えをしろとうるさいけれど,冬に夏物を着ることだってあるだろうに。面倒だ。

 広いのにぎちぎちに詰まっているクロゼットの,端のはし。他の服とは明らかに仕立ての違う,その衣装。

「ん〜グレーかな」

 ライトグレーのストライプスーツが,選び取られた。

 これが今日の仕事着だ。

 化粧をし,ネクタイを締め,髪をまとめて。

 プレーントゥの茶革靴を締め上げ,仕上げに白い手袋をはめる。

 柔らかな布地が,余計な感覚を遮断し,意識を最適化するとイメージする。


 さて,参りますか。

 本日のお城はどうでしょう。



 <仕事場>

 自然光の差し込む店内では,落ち着いた色合いのウォルナットのエリアにスーツが,レンガ調のエリアにカジュアルなオフィスウェアと小物類が並び,若者から初老の御仁まで,吸い込まれるように足を運んでいる。

 吹き抜けの2階部分をぐるりと柵が囲み,キャットウォークになっている。そこから降りる螺旋階段を登れば,事務所と仮住まいの住居スペースだ。

 もっとも,繁忙期の春には住居スペースが主な生活空間と化すわけだが…。我ながらワーカホリック気味かと己を嗜める。

 プライベートは大事にするよう心掛けているが,いざ仕事に集中しだすと切り上げどころがわからなくなってしまう。今は相棒がいい頃合いで止めてくれるので,飲まず食わずで倒れるなどどいう最悪の事態を免れている。

 ただ,あいつがいなくなってしまったら,私はまともな生活を送れなくなってしまうやもしれない。あるいは,淡々と生命活動をこなすだけの怠惰な生活に逆戻りするか。そんな不安がときどき頭をよぎる。


「いらっしゃいませ」

 手の空いているスタッフ一同,入り口を向き直って一礼する。

 気張らない程度にさりげなく,しかし歓迎の気持ちが伝わるようにしっかりと。にこやかに,そしてスマートに。それが”城”での私の信条だ。

 歳の頃は40を過ぎた頃か,という男性が,重たい木の手すりを押して来店した。

 年齢に似つかわしく,落ち着いた仕草ではあるものの表情には緊張のかけらがうかがえ,レンガ造のエリアを物色している。

 コーデュロイのパンツに濃いネイビーのシャツ。ごく一般的なお父さんといった印象だ。

 彼が目的を持ってこの店を訪れたのは明白だった。何も小物を買いに来たのではなさそうだ。

 オーダースーツを仕立てたいが,初めてなのでやや緊張して二の足を踏んでいる____といったところだろうか?

 かといって決めつけは禁物だ。

 まずは軽く一声かけて,店の奥に行きやすいように誘導してみよう。

「お客様,ご来店ありがとうございます。よろしければ,どうぞ奥の方もご覧くださいませ」

 男性の視界に入って声をかけると,彼は私のメンズスーツと胸まであるロングヘアに,珍しげな視線をやった。




 <ワークアウト>

 店内に夕日が差し込む。遅番のスタッフもおおむね揃い,業務は筒がなく進んでいる。

 さて,あがりだ。

 私はバックヤードを軽く見回りしてから上階に上がり,運動着に着替えて通りに出た。


 店の立ち並ぶ通りは,レンガ造の道が続く。主なのはカフェ,美容室,アパレル。ちょっとだけレトロで,一角にはお気に入りの喫茶店が隠れている。

 水泳もいいな。足がプールに向きそうになったけど,近くを流れる川が照り返す夕日に誘われるように歩き出した。

 今日は…どうしよう。

 時間もあるし,川沿いをぐるっと行こうかな。

 空が紫になったら帰ろう。タイマーなんて野暮なものはセットせず,水の音をBGMにゆっくりと弾みをつけて走る。


 はあー,気持ちいい。音楽でも聴こえてきたなら,踊り出したい気分だ。



 <テイキング>

「いいの?あれお気に入りだったじゃない」

「ノン。私にはコレクションの趣味はないよ」「良いものは活かさなけりゃ」


「私は美学を売っているのです」

「ここはテーラーのようでいてテーラーでない…まあ,セレクトショップのようなものです」

 一気に格が落ちた。

「香水なら,奥にご用意がありますよ」

「なんでも置いてるんですね…」

「もちろん。身につけるものならなんでも。ここにあるものはみんな,あなたを輝かせるためにあるのです。不足はありません」

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散文 夏永遊楽 @yura_hassenka

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