第3話 契約
「おはようございます。杉下美雪の専属SPを務めることになりました、森下純也です。本日は契約をするために伺いました。」
俺は美雪の事務所を訪れて、社長らしき女性にあいさつをした。
「はい。美雪から話は聞いていますよ。どうぞあがってください。」
俺はソファーに案内され、そこにはもう美雪がいた。2人と向かい合う形で俺も座る。
「私はこの事務所の社長の井上みさきです。2人は幼なじみということですし、固くならずにやりましょう。」
「そうだよ純也。楽にしよう!」
美雪は自分の家のようにくつろいでいる。相変わらずのんきなヤツだ。
「お前はもうちょい緊張感もてよ。一応仕事なんだから。」
「ふふっ。仲が良いのね。」
井上さんは満足そうな笑みを浮かべている。変な勘違いされていないといいんだが。
「それにしても驚いたわ。美雪の専属SPはちょうど探していたところだったけど、かつて天才SPと呼ばれていた純也さんと美雪が幼なじみだったなんて。」
「な、なんでそのこと知ってるんですか…」
俺は身体能力が人並み外れて高いため、100年に1人の逸材などとよく言われたものだ。
「へぇー。純也ってそんな有名なんだ。」
「私も昨日調べてわかったんだけど、専属SP業界で知らない人はいないくらいらしいわよ。」
さすが事務所の社長。ちゃんと下調べを済ませてるのだから侮れない。
「まぁ過去の栄光ですから。あんまりあてにしないでください。」
過剰に期待されるとこちらもやりにくいし、そこそこの関係でいられるならそれが1番いい。
「すごく疑問なんだけど、こんなに素晴らしいポテンシャルを持ってるのになんで辞めちゃったの?」
あれ?美雪と井上さんはけっこう仲が良いらしいし、知ってると思ってたんだが…
「まさかお前、井上さんに言ってないのか?」
「言う必要ないでしょー。」
「いやいや。仕事やる以上は必要なことだろ。」
「うーん。任せる!」
「お前なぁ…」
俺は井上さんに美雪との過去のことをすべてしゃべった。あくまで契約は事務所と交わすものなので、その事務所の社長である井上さんには全てを知ったうえで了承してもらわないと困る。
「なるほど、そんなことがあったのね…」
井上さんは何か考え込んでいるようすだった。こんな話を聞いたらいろいろ考えるのは当然だろう。
「あの事件のことは今でもよく覚えているわ。あれから専属SPを雇う芸能人はさらに増えた。それだけ人々に影響を与えた事件だった。」
もう5年前の話だが、芸能事務所の社長としてはたしかになかなか忘れられない事件だろう。
「だから、美雪が私の事務所に来た時はすごくびっくりした。あの事件を受けてなお夢を追い続けるのは大変なことだもの。」
「私楽観的だからあんま考えてないだけだよ。」
美雪が楽観的なのはたしかだが、それでも今の美雪がしていることはとても難しいことだ。
「二人の間でもう話は済んでるのよね?」
「はい。だいぶ悩みはしましたが、美雪さんのためにやれることを全力でやろうと決めました。」
「私も、純也になら任せられる。」
「それなら私が止める理由はないわ。ただ1個提案してもいいかな?」
そう言うと、井上さんは何やら書類をだした。それは専属SPと契約をするうえでの規約が書かれているものだった。井上さんはそれの第4項を指さしている。
「あぁ。より確実な警護をするために、警護人が被警護者の近くに住むことを推奨するってやつですか。」
これはしばしばトラブルになる内容だ。芸能人の中には、あまりプライベートに干渉しすぎないで欲しいという人も一定数いる。
「これはほんとにどっちでもいいですよ。嫌なら全然今のままでかまいません。」
「いや、もう美雪と話はしたんだけど、2人とも同棲した方がいいんじゃないかなと思って。」
「は?」
急にとんでもないことをいわれて俺の脳内はパニック状態に陥った。そんな話聞いたことがない。
「ど、同棲、で、す、か?」
動揺でうまく口がまわらない。
「えぇ。してる同業も多いでしょ。」
「いや、たしかにそうですけど。それは同性の場合の話であって。俺と美雪は仮にも異性なわけで。」
さすがに美雪と同棲というのは、俺の理性がもたない。
「いいじゃん、幼なじみなんだし。同棲しようよ。」
いやいや、そんな軽いものじゃないんだが。美雪の深く考えない性格がここでは裏目にでている。だが、クライアントの要望には極力応えなければならない。今の俺は専属SPなのだから。
「わかりました。そういうことなら、同棲という形で進めましょう。」
「あら。意外とすんなりね。もう少し抵抗あるかと思ったんだけど。やっぱり2人ってそういう関係?」
何かを悟ったような目で井上さんが見てくる。
「「そんなんじゃない!!」」
思わず美雪と被ってしまった。
「ふふふっ。ほんと仲良しなんだから。」
俺は顔を赤らめて視線を外す。さすがにこの状況で美雪の顔は見れない。
「じゃあ、とりあえず俺も事務所に書類ださないといけないので、こちらにサインお願いします。」
「あら。専属SPってフリーでやってる人がほとんどだと思ってたわ。」
「たしかにそういう人も居ますけど、事務所に所属する人がほとんどですよ。フリーで仕事見つけるのはけっこう大変ですし。」
まぁ、今回はほぼフリーで見つけてきた仕事のようなものだが、事務所に入っておいた方がいろいろ都合がいい。
「それじゃあいつから同棲する?」
「こっちは仕事をいただいている立場なんで、そちらにお任せしますよ。」
「1週間後くらいからにしましょうか。アパートの契約とかは全部こちらでしておきますね。」
「よろしくお願いします。では、失礼します。」
俺は荷物をまとめて立ち上がった。
「えー。せっかく来たんだしゆっくりしなよぉ。」
「悪いな。事務所と再契約したりとかやらなきゃいけないこと多くてな。来週から嫌という程会うんだからいいだろ。」
俺は半ば無理矢理外に出た。美雪といるとすごく楽しいが、胸がソワソワする。きっと学生時代の思いを捨てきれていないんだろう。でもそんなこと言ってられない。仕事に私情は持ち込まないのが専属SPの基本。この思いはしまっておこう。
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