ペットボトルが開けられない

一井水無

第1話ペットボトルが開けられない

終わった。

もうだめかもしれない。


留年がかかった二年生最後の数学のテスト。

それなのに、僕は全然合格ラインを越えられる自信がない。

勉強が終わらないのだ。

テストは明日なのに、教科書があと三十ページは残っている。

一週間前までは、計画的に勉強してテストの範囲を完璧に仕上げるつもりだった。

でも、できなかった。

計画的に進められなかった。

一週間前から勉強し始める予定だったのに、どんどん先延ばしにして、今日になってしまった。

現在、十七時。

久しぶりに図書館に行って、勉強しようとしたのに圧倒的なページ数に僕は手を付けられていない。

もともと一週間かけて終わらせる予定だった量を一日で終わらせられるものか。

くそっ、本当はこの範囲を完璧に理解して何とか留年を回避するつもりだったのに。

それどころか百点満点を取って、みんなに自慢してやろうと思っていたというのに。

はぁ……

まあ、ずっとこうしていても仕方ない。僕は一旦図書館を出ることにした。

リフレッシュするためだ。

気分を変えて、勉強に集中できるような環境を作ることにしよう。

そうだ、近くにスーパーがあるから何か飲み物を買いに行こう。

僕は荷物を片付けて、エレベーターの扉の前に並んだ。

僕の他に並んでいる人はいなかった。

少しすると僕のいる二階にランプがついて、ドアが開く。

他に誰もいないエレベーターで、何を買おうかワクワクしながら一階のボタンを押した。


僕はオレンジジュースを買うことにした。最近飲んでいなかったし、乾いたのどに流し込むのに炭酸は合わないからだ。

僕はオレンジジュースを持っていって会計を済ませた。

僕はすぐに飲みたくて、キャップを回そうとした。しかし「店内飲食禁止」の張り紙が見えて、キャップを回そうとした手を止める。

スーパーなのに飲食禁止なのか。

食べ物を売ってるくせにその場では食べちゃダメなのかよ。

僕はイライラしつつも、おとなしくスーパーを出た。


スーパーを出て、ドアの端っこの方でペットボトルを開けようと立ち止った。

キャップに手を回してひねってみるが開かない。

もっと力を込めても、手首を回してみてもびくともしない。

こういうことはたまにある。

僕の非力のせいなのか、キャップが固すぎるのか、なかなかペットボトルが開けられなくなるのだ。

何度もペットボトルを開けようとするがダメだ。手ごたえがない。グギギギッ、というあの音が聞こえない。

またしてもイライラしてきた。

こっちは喉が渇いてるのに、なんで開かないんだよ。早くこのオレンジジュースを喉に流し込みたいのに!

僕は苛立つ気持ちをなんとか抑え込んで、心を落ち着かせた。

もしかしたら、手が滑ってしまって開きずらいのかもしれない。ハンカチを当てて回してみよう。

僕はハンカチを取り出して、キャップに当てて回してみた。しかしそれでもだめだった。何ならさっきよりも滑ってる気がする。

結局ハンカチ作戦をやめにして、素手で開けることにした。

何度もキャップを回していると、手のひらにキャップの跡がついてしまう。最初は気にしていなかったが、だんだん痛くなってきた。

キャップを見てみると、白いキャップに赤色のシミがついていた。拭ってみると、すぐに消えて真っ白に戻った。

今の何だったんだ?

僕は手のひらを確認すると、親指の付け根と、中指の付け根の下のあたりの皮がはがれている。キャップを回すときに引っ張られてしまったようだ。

ずっと握る形になっていた手を開いてみると、手の皮が元の形に戻って激痛が走る。

「いたっ……」

 あまりの痛さに声を出してしまった。

 さっきの赤いシミは僕の血だったのか。

 この状態ではペットボトルを開けられそうにない。

 どうしようもなくなってしまった。

 ペットボトルが開けられなくなってしまい、僕は辺りを歩いてみることにした。手の回復を待ちつつ、時間をつぶすためだ。

 徒歩十分くらいのところに公園があるので、そこに向かうことにしよう。

 そして僕は歩きだした。

 ぼーっと歩く。

 周りのお店や住宅地を見ながら歩く。

しかしそうやって歩いていくうちに、僕は何をやってるんだという気持ちが浮かんできた。

 ペットボトルを開けることができず、勉強するはずの時間を散歩して過ごしている。

 自分が情けなく感じられてしまう。

実際そうなのだろうけれど、僕は自分をそんな風に思いたくなかった。

ちょっぴりつらい。

「はぁ……」

漏れ出たため息はどうしようもなく宙をさまよう。

僕もどうしようもなく歩いていると、目的地としていた公園に着いた。

平日の夕方時といっても、冬の夕方は短く、あたりは既に暗くなり始めている。遊んでいる子の姿も少ない。

僕は空いているベンチに腰を下ろして、ボーっと遊具を眺めていた。

公園で遊んでいた時代に戻りたい。

小学生に戻って、何も考えずに、無邪気に友達と遊んでいたい。

しかしそんなことは、もちろんできない。

僕もそろそろ高校三年生だ。

留年なんてほざいている暇もない、受験生になろうというのだ。それなのに、この状況では笑えない。

「戻って勉強するか……」

 僕はようやく勉強する決心がついて、席を立った。

 すると不意に、猫の姿が視界に映った。

 草むらのちょっとしたスペースに、身をかがめてこっちをじっと見ている。

茶色と白の縞々の猫がかわいくて、つい僕まで見つめてしまった。

しかし猫と目が合っているという感覚がない。僕を見ているようでいて、本当は別のものを見ているのだろうか。

猫の目線から考えてみると、僕の左手を見ているような……

「このオレンジジュースをみてるのか?」

 僕はそう猫に問いかける。しかし猫からの反応はない。

 どうせなら猫にあげたい気持ちもあるが、ペットボトルが明かないのだからあげてもしょうがない。

 猫はじっとオレンジジュースを見つめている。

 ……開けてみるか。

 僕は皮の破れた右手をでキャップを握る。

 あとは手を回すだけ。

 しかし、その先ができない。

 恐怖でキャップを回せない。

 傷が悪化するかもしれないし、またあの痛みを味わうことになるかもしれない。

 そう思うと怖くてキャップを回せない。力が入らない。

 僕は情けなくもキャップから手を放してしまった。猫に申し訳ないと思いつつも、どうしてもできない。

 猫の方を見てみると、今度はオレンジジュースではなく僕の方を見ていた。

「えっ……」

 動揺する僕とは対照的に猫は微動だにしない。

 じっと、僕を見守ってくれている。

「仕方ねぇな……!」

 僕はキャップに手を添えて、力いっぱい回した。

「ふんんんんぬ……んんぎぎぎぎぎん……ぬぅん!」

 変な声を出しながら、僕は精一杯力を込めた。

これで僕の手が終わってもいい。そんな覚悟で僕はキャップを回す。

ギ、ギ、ギ……

キャップから初めて音が出た。さっきよりもキャップが離れていて、ペットボトルと接続している部分が小さくなっている。

いける!

僕はさらに力を込める。

あとちょっと。あとちょっとでペットボトルが開く。あとちょっとで……

「い、っだい!」

 ダメだ!

 もう限界だ! これ以上は我慢できない!

 僕は力なくベンチに座り込んだ。

 僕はあれ以上の痛みには耐えられなかった。

 猫には悪いが、ペットボトルを開けることができなかった。

「ごめんな……」

 僕は許しを請う気持ちで猫にそうつぶやいた。

 最後の力を振り絞って精一杯ペットボトルと向き合った自分。

真正面から向き合ったのに何もできなかった。

 何だか過去の自分がばからしく思えた。

 一生懸命、まっすぐに努力したからって、必ずしも結果がついてくるわけじゃなかった。頑張ったら出来るだろう、なんてとんでもなく傲慢だったんだ。

「はぁ………」

 自分を責めてもいいことはない。自己嫌悪に陥ったって、出てくるのはため息ばかりで何も生み出せない。

 僕はもっと他に、やるべきことがあるのになぁ。

 僕はイライラして、キャップに爪を立てる。


カチッ


「……え?」

 ペットボトルから何か音がした。

 そして今、少しの手ごたえを感じた!

 見ると、ペットボトルとキャップはかなり離れていて、ペットボトルのリングとキャップがいくつもの細い糸によって繋がっているような状態だ。

 そのうちの一つがさっき切れたのだ。

 僕はさっき切れたのと同じように爪を立ててみた。すると簡単に接続を切ることができた。

 いける。

 あとは、残っている部分を切ればこのペットボトルが開けられる!

 一つ、また一つと僕は線を分断していった。強度はなく、簡単に切ることができる。

 こんな方法もあったのか、と思った。

 一見、気の抜けてしまうような方法でも目的を達成することができる。

 ペットボトルの開け方だって、一つじゃない。

 結果に至るまでの道は無数に広がっているんだ。

 何も、真正面から戦う必要なんてなかったじゃないか。完璧に仕上げる必要なんて、なかったじゃないか。

 過去の自分の残したものと、今の自分の工夫を連続させられたら、何とかなるじゃないか。

 そんなことを思いながら切断していると、線が最後の一つになった。

 これでいよいよ、ペットボトルとの長き戦いは終わりだ。

 僕はこの戦いで大きく成長できた。

 そう思うと、この時間が尊いものに思えてきてペットボトルを開けたくなくなる。

でも、僕は開ける。

猫がいるから。

僕は思い切って、最後の一つを切った。

プチッという音がして、キャップが完全に分離された。そのキャップを回してみると、驚くほど簡単に回る。

そして、ペットボトルが開いた。

「やったぞ! 猫!」

 僕は嬉しくなって猫の方に向かって叫んだ。

 しかし、もうそこに猫はいなかった。

 もう飽きてしまったのか、何か用事があったのか。

 もしかしたら、まだ近くにいるかもしれないけれど、僕は探さないことにした。代わりに、感謝の言葉を口にする。

「ありがとう」

 そして僕は思い切り、オレンジジュースを流し込む。

 ぐび、ぐび、ぐび、ぐび……

「うまい!」

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