第八十四話 突き抜けた先にあるもの

 まるで夢心地だった。


 全身が風船になったみたいに脚が軽い。


 鈴木陸と本音をぶつけあって、すっきりした。


 カラス兄に胸の内を打ち明けて、有頂天になっていた。


 さっきまで——老木が死んでから——感じていた鬱屈うっくつさはもうどこにもない。


 常に光明が見える。出口だろうか。あそこにたどり着く方法は簡単だ。


 突っ走ればいい。


 自分の気が済むまで。


 呼吸が出来なくなるまで。


 足がちぎれるまで。


 死にたくなるほどボロボロになりながらでないと、たどり着けない場所だ。


 でも、わたしはその光に魅了されてしまった。


 一度抱いた憧れは止められない。


 どこまでも突き抜けていくしかない。




 汗だくで、足裏がジンジンと痛んでも、楓は走り続けていた。


 苦しい。痛い。そう感じていても、進む足を止められない。自分が今からする行動を想像するだけで、心臓が高鳴って仕方がない。


 夏祭りのメインステージ。のど自慢大会。すでに一番手は歌い始めており、熱気が周囲を包んでいる。


(あそこに立つんだ)


 楓はにんまりと笑った。楽しみで仕方がない子供のような表情だ。


 ステージの裏へと向かい「あの、すみません」と声を掛けた。


「今から歌う曲を変えられませんか?」

「ん? 今更か?」


 反応したスタッフが振り向くと、本屋さんだった。楓のことを『気違い』と呼んだ老人だ。神経質そうな眉を動かしながら、差し出されたCDを受け取った。そしてCDのジャケットを見て、楓の顔をハッと見返した。


「本当にいいのか?」

「いいんです」


 本屋さんは楓の自信に満ちた顔を目の当たりにして、無表情のまま何も言わなかった。しかし楓の服装に視線が移ると、険しい表情に変わる。


「お前、その恰好……」


 今の楓は浴衣が破れ、所々が濡れすぼみソースで汚れ、頭に付けた仮面は割れている。明らかに何かがあった格好だし、人前に出れる状態ではない。


「順番を最後にずらすか。その間に着替えてこい」と言いながら、すぐに行動しようとした本屋さんを

「待ってください」と楓は呼び止めた。

 

 本屋さんから鬱陶しそうな瞳を向けられても、楓の態度は全く崩れない。


「すぐ歌いたいんです。我慢できないくらい」

「だが……」


 晴れ晴れとして、茶目っ気のある口調で言い放つ。


「これから歌う曲にはピッタリじゃないですか」


 自然と不敵な笑みを浮かべていた。


 本屋さんは、物珍しいものを見つけた時のように目を見開いた後、ニヤリと笑った。


「ああ、わかったわかった。任せておけ。最高のライブにしてやる」

「ありがとうございます」


 ヒラヒラとCDで旗を振りながら、本屋さんは奥へと消えていった。


 それから何分経っただろうか。楓はステージに呼ばれた。


 タタタ、と。


 ステージの上まで軽快にあがる。


 自分に向けられたライトの光に目が慣れてくると、ステージ上からの景色が見えてくる。


 視界いっぱいに観客が見えて、楓は舌なめずりをした。


(みんなから、わたしはどう見えているのかな)


 観客には見知った顔も多い。驚愕の顔。困惑の顔。好奇の顔。みんな楓の姿に驚いている。


 浴衣はスリットのように破れ、所々濡れたり、ソースで汚れたりしている。頭に付けた仮面は無残に割れているし、裸足からは血が滲んでいる。


 そんなみすぼらしい格好の上に鎮座するのは、吹っ切れた不敵な笑みだ。


 息を吸った瞬間、楓の頭の中に様々な思いがよぎった。


 こんな曲を歌えば迷惑になるかもしれない。『人助け』どころの話じゃないかもしれない。家族にも友達にも引かれるかもしれない。


(でも、そんなの知るか)


 何も知らずに頼んできた老人たちが悪いんだ、と心の中で不安を突っぱねる。


(これが歌えれば、それだけでいい)


 観客のざわめきを遮るように、音楽が流れ始めた。


 ♪!~♪!~♪!!!


 流れ出した曲は、のど自慢大会にしてはアップテンポ過ぎた。音の圧が強すぎた。


 民謡でもポップでもない。


 のど自慢大会での選曲では、ありえない曲だ。


(ああ、やっぱり――)


 心臓が高鳴って、一気に息を吸い込む。


「――――――――!!!」


 楓が絶叫したのは、ロックだった。メタルロックだった。


 好きだと言える唯一の曲。楓が毎夜のように聞いている、ちょっぴり激しい子守歌だ。


 マイクをスタンドごと持ち上げて、振り回した。


 これがわたしなのだ、と叫んだ。喉が切れても構わなかった。肺から空気が無くなってもお構いなしだった。

 全力で歌って息苦しい。それなのに、胸の中から喜びがあふれ出てくる。


(そうか。楽しいんだ)


 できなかったことが出来るようになるのが楽しい。


 モノ作りは楽しい。


 勉強は楽しい。


 料理や菓子作りだって楽しい。


 楽しい、なんてありふれている。なんでこんなことに気付かなかったんだろう。


(わかってる)


 ずっと罰だと思い込んでた。


 罰だから苦しまないといけない。辛くないといけない。そんな先入観が、罪悪感が、どんな楽しさも塗りつぶしていた。


(でも、今は違う)


 何もかもが軽い。


 心が風船みたいに膨らんでいく。


 頭が綿菓子みたいだ。


 ふわふわしてて、甘くしびれて、何も考えられない。


 息をするのも惜しい。高鳴る心臓が心地いい。


(この瞬間、まだ続いて!)


 視界が真っ白になる程、世界が輝いている。


(ああ、必死になるって、こんなに気持ちいいんだ)


 無我夢中の先にトンネルの出口が見える。


 くぐってしまえば、終わってしまう。もったいない。終わってほしくない。だけど、ワクワクのせいで足を止められない。


 駆け抜けて、飛び出して、快感が全身を突き抜けた。


(あア……!)


 絶頂だった。


 今までの人生がちっぽけに思えるほどの輝きが見えた。


・・・・・・・・・……――――――――――――――――――


「はぁ、はぁ、はぁ、アハ」


 歌い終わると、静かな現実に引き戻された。


 呆然とした観客が目に映る。家族の間抜けな顔もあった。でも、そんなことは全然気にならなかった。


 パチパチ、と大きい拍手が聞こえた。目を向けると、見知ったカップルが大きく手を叩いていた。


「サイコーーーーー!!」


 さらに、力強い声援が聞こえた。バレーボール部の部長が、目いっぱいに叫んでいた。その姿を見ただけで、自分の全てが満たされた気持ちになる。


 気持ちよさの逃げ場を求めるように、空を見上げた。


 晴れ晴れとしていた。夜空で星も見えないのに、晴天のように清々しかった。


 ヒラリ、と。


 空から真っ赤なモミジが舞い落ちてきた。そっと拾うと、それはカラス兄に渡した栞だった。


(うわぁ、ひどい状態)


 栞は見るも無残な姿になっていた。カラス兄の嚙み跡がついていたり、ラミネートフィルムが茶色く変色していた。これでもカラス兄としては大事に扱っていたはずだ。


(それだけの時間、わたしは止まっていたんだ)


 今なら老木の言っていたことがわかる。


『人助けをして生きていきなさい。君は——』


 わたしはバカ正直すぎた


 人助けを盲信していた。そうしなければならない、と自分に言い聞かせていた。でも、そういうことじゃなかったんだ。

 きっと、老木はわたしを人間の社会に戻したかったんだ。だから、わたしが人間に関わるように言い残した。


 それを理解した今なら、否定できる。


 わたしは『人助け』をしないといけない。


(そうじゃない)


 わたしは『人助け』をしないと受け入れられない。


(そうじゃない!)


 『人助け』をしないと、生きてる資格は無い。


(そうじゃない!!!)


 そんなのはただの思い込みで、世界は途方もなく広くて、好きに満ちている。


 それに、青木楓の居場所はもうあるのだ。今全身についている汚れが、歓声が、拍手が、それを教えてくれる。


 やりたいことを我慢してきた。


 見たいものを見て見ぬふりをしてきた。


 聞きたいものに耳を塞いでいた。


 我慢して、耐えて、殻にこもってきた。


 でも、もう抑えられない。あれもやりたいこれもやりたい。膨れ上がるワクワクを抑えられない。


(そっか)


 これがわたしなんだ。幸せなわたしなんだ。


(好きだ。何もかも好きだ)


 幸の薄い女の子が好きだ。バレー部の部長が大好きだ。


 ナイスミドルな男性が好きだ。用務員さんが好みだ。


 家族が、カラス兄が、モノ作りが、歌が、上達するのが——他にももっともっと——エトセトラエトセトラ——


(全部、大好きだ!)


 一瞬、母の顔がチラついた。生まれると同時に、殺してしまった母。


 罪悪感は今でもある。でも、それ以上に湧き上がる想いがあった


(ああ、生まれきて、産んでくれて、よかった……!)


 わたしはお母さんの一生分の愛を受けて生まれてきた。老木にも思いを託された。でも重くなんてない。それ以上に――


(わたしは、この世界が、みんなが、楽しいが、大好きだ)


 押しとどめてきた感情が、洪水のようにあふれ出して、視界全てを染めていく。


 やっと息を吐いて、吸った。空気がこの上なくおいしい。


(この瞬間、わたしを生かしてくれる空気も好きだ)


 司会の声に混じって、しゃくさわる声が聞こえた。


(今なら何でもできる)


 ステージを降りたその足で、楓はトラウマへと向かっていく。

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