パンドラの箱
『私たち二人だけで、こんなに遠くにきたら、おじさん、心配しないかなぁ?』
コテージからずいぶん離れたところに、ゴンドラ乗り場があった。雪に埋もれながらも機械音を立てて、地上へ降りていくそれに乗り込んだ莉花は、不安げにユキを見つめた。
『大丈夫っ、連絡しておいたから! 隠れ鬼をするなら、隠れるところがいっぱいあったほうが面白いでしょう?』
『……そう、だけど』
『リカちゃん、不安?』
『……うん』
いつも、少し暗い顔をしていたユキ。しかしそのときは、妙に、はしゃいでいるように見えた。
『心配しないでっ。ちゃんと、私たちが探しに行くから!』
ユキの笑顔は力強く、明るい希望に満ちているようだった。
◇◆◇
傘を差す指が凍えていく。こんもりとした雪は際限なく降り注ぎ、強い風に舞い踊る。
「こんな天気だっていうのに、野次馬が多いわね。鬱陶しい」
「美月ちゃん、私たちも似たようなものだよぉ?」
交通量の多い鉄橋がかかった河川敷には、捜査関係者が何人、いや何十人も動いていた。物見高い一般人は、土手の上からその動きを目で追うが、肝心な部分はテントのように立体的に張られたブルーシートが隠している。
ここからでは、何もわからなかった。どうにかして近づけないものか。
しかし、下の河川敷へ続く階段の前には結界のように黄色のテープが張られていて、民間人は入らないよう警察官が見張っている。
「……美月ちゃんのパパは、あのブルーシートの中かなぁ。中を見せてくれないかな」
「残念ね。父さんは、非番で出かけると言っていたから、あそこにはいないはずよ」
「えー! 事件に進展があったら、呼び出されると思うけどぉ?」
「知らないわ。どちらにせよ、ダメよ」
キッパリ言い切られ、莉花は内心舌打ちする。
「莉花、もう気が済んだでしょう? 帰りましょう」
繋いだ手を引っ張られる。莉花は名残惜しげにブルーシートを睨んでいたが、諦念のため息をついた、そのときだった。
「あ、やっぱり、本宮さんだ! どうしたの? こんなところでっ」
人混みを掻き分けてきたのは、本屋で真一郎を嫉妬させるために使った青年だった。
向島裕貴(むこうじまゆうき)という、両親が獣医で、自身も獣医大学に通う学生。最近は自宅で飼っているという猫画像を添えて、頻繁にメールを寄越してくる。
莉花は面倒なのに会ったという気持ちを隠し、にこやかな笑顔を浮かべた。
「こんにちは~ 私たちは近くを通りかかって。向島さんこそ、どうしたんですか?」
「ああ。一人でドライブをしていたら、人だかりができてるから何かなと思って降りてきたんだけど……あの、こちらは?」
「倉科美月といいます。莉花がいつもお世話になっております」
「……あ。い、い、い、いえ! 俺のほうこそ、いや、僕のほうがお世話にされて、ます!」
しとやかにお辞儀をする美人に、向島はわかりやすいくらい動揺した。純粋な人間である。救いを求めるように、莉花に視線を送ってくる。
……聞こえないふりをして、さっさと立ち去ればよかった。
面倒くさいと瞳を伏せた瞬間、ひときわ強い風が吹き抜けた。傘が飛ばされないよう、莉花は柄を握る右手に力を込める。
数秒置いて、甲高い悲鳴があがった。
「……え、え、なに」「あれ、見てよ?」「うわっ、嫌なもん見ちまった!?」
びゅうびゅう、と。びゅうびゅう、と。
風に捲れ上がったブルーシートを前に、捜査員たちが慌てて小さな遺体を隠そうとしている。
その光景は……莉花の心の奥底にあるパンドラの箱を開けた。
遠目から見て、小さな人形が横たわるようだった。
下半身は白い布をかけられているが、服を着ておらず生々しい。痣なのか血なのかわからない、紫や赤、茶色の斑点が浮いた青白い肌。油が抜けた毛髪の間から、ガラス玉の瞳が宙を映している。かさかさの、色の褪せた唇は半開きで、最後に何を言おうとしたのだろう。
助けて、なのか。さよなら、なのか。
痛いよ、だったのか……
「……ユキ、ちゃん」
ずっと開けなかった、パンドラの箱。あふれ出たのは、この世の災厄。
「……ユキちゃんは……どこ……?」
莉花は胸を押さえて、その場にしゃがみ込む。
空気が薄いっ。苦しい悲しい。恐い恐い、恐い……
恐い!
「探しにくるって……言ったのに」
その言葉を信じた。生きていると思っていた。おじさんは、誰も殺していないと言い聞かせた! でもっ……
だれも、探しにこない……
「……莉花ちゃん? 莉花!?」
幼馴染の悲鳴を最後に、意識が途切れた。
◇◆◇
ハーメルンの笛吹き男は、寂しそうな子供を目にして笛を吹く。
楽しい音楽、面白い踊り。
笛吹き男に魅入った子供は、満面の笑みで歩き出す。
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